取調室で被疑者と睨み合っていた青島は、力み過ぎていた身体から力を抜いた。
通りすがりの女性ばかりを狙った暴行の容疑が掛かった被疑者だった。
ふてぶてしい面構えと反省の全く見えない態度を見ていたら、青島の顔付きも自然と厳しくなっていた。
女性に対する暴力など、許せるものではない。
その神経すら理解しがたいが腹は据わっているらしい男相手に、青島は徹底的に叩いてやる腹積もりだった。
男を睨み付けたままだが、自分を落ち着かせるように一度深呼吸して、青島は席を立った。
「まあ、今夜は泊まってって。ゆっくりやろうね」
男が鼻で笑う。
機会があったら一発殴ってやりたいと思いながら、青島は取調室を出た。
二時間近くも男と睨み合っていたから、腰が痛む。
時間が遅くなってしまったため、取り調べの続きは明日改めることにした。
伸びをしてから、近くにいた緒方に頼み、被疑者を留置所に連行させた。
凝り固まった首を回しながら席に戻ると、横からコーヒーが差し出された。
見上げれば、袴田だった。
「あれ?課長、まだいたんですか?」
礼を言ってカップを受け取りつつ、青島は首を傾げた。
定時はとっくに過ぎていた。
有事でもない限り、袴田が残業していることはあまりない。
「娘の試験が近いみたいでね、早くに家に帰っても居場所なくて」
一家の大黒柱にしては情けないことを言う袴田に、青島はつい笑ってしまった。
湾岸署刑事課課長なんて立派な肩書きを持っていても、袴田も家に帰ればただの父親でしかないようだ。
「笑いごとじゃないよ」
むくれる袴田に、青島は笑みを残したまま頭を下げた。
「すいません」
「君だって家庭を持てば分かるよ…いや、そういえば入籍したんだっけ、君」
もちろん袴田や神田には入籍の報告はしてあった。
ヤキモキしていたすみれたちにも話してある。
「本当に結婚したんだねぇ」
しみじみと呟く袴田に、青島は苦笑した。
どういう意味かなと思ったが、ろくな返事が帰ってこない予感しかしなかったから、聞くのは止めておいた。
「おかげさまで」
「室井俊作か、何だか似合わないね」
「いいんですよ、どうせ戸籍の上だけですから」
青島が室井の籍に入ったから、戸籍上は青島も室井姓ということになるが、これからも青島姓を名乗ることに決めている。
職場は違えど同じ組織に配偶者がおり、青島を室井と呼ぶのは周囲も青島自身も抵抗がある。
青島姓にも愛着があるし、室井もずっと青島と呼び続けているから、その方が都合が良かった。
「どうなのよ、新婚生活は」
「いやあ、特には…今までと変わりないですよ」
「男同士だとそんなもんかねえ」
実際は、すれ違う日が多いながらもそれなりに甘やかな日々を送っているという自覚はあったが、袴田相手に惚気るつもりはなかった。
袴田だって、あの堅物の官僚が自身の部下の中でもっとも問題児である男に愛を囁いている姿など、想像しても楽しくはないだろう。
「今日の取り調べは終わったんでしょ?早く帰ったら?」
袴田が気遣ってくれるが、青島に対してというよりも配偶者である室井に対して気を遣ってくれたのかもしれない。
青島は肩を竦めた。
「もう帰りますけど、今夜は友人と飲む約束があるんですよ」
「新婚早々遊び歩いて、室井さんに捨てられてもしらないよ」
「遊び歩いてるわけじゃないっすよ。友人が結婚のお祝いしてくれるって言うから」
久しぶりに大学時代の友人たちと会う約束をしていた。
警察官になってからはあまり会えなくなっていたが、電話で結婚の報告をしたら盛り上がり久しぶりに会おうという話になった。
もちろん室井にはそうと伝えてあるし、快く送り出してくれていた。
「ふーん。それなら尚のこと、もう帰っていいよ」
「じゃあお先です」
青島はコーヒーを飲み干すと帰り支度をし、夜勤の緒方に後を頼んで足早に刑事課を後にした。
友人宅を出た青島は、俯きがちに夜道を歩いた。
もう夜中で、電車は走っていない。
タクシーに乗らなければ帰宅できないが、適当なホテルに泊まって始発を待つ方がタクシー代よりも安いはずだった。
ホテルに泊まろうかと少し考えた。
外泊することは、飲み会の途中に電話をして室井に連絡してあった。
久しぶりに会った友人たちと盛り上がり過ぎたため終電を逃してしまったので、一人の友人の自宅に泊めてもらうことにしたのだ。
明日は友人宅から直接湾岸署に出勤するつもりだった。
だが、青島はその友人宅から抜け出し、自宅に向かって歩いていた。
歩いて帰るには遠過ぎるが、自然と足が向いていた。
つまり、身体が帰宅したがっているということだ。
青島は無駄な出費と知りながら、タクシーを捕まえると自宅の住所を告げた。
今すぐ室井に会いたかった。
泊めてもらうはずだった友人は、大学時代に良くつるんでいた仲間の一人だった。
仲間内で遊ぶ時には大抵一緒だったが、あまり二人だけで遊んだ覚えはない。
だが、気安い仲であり、青島にとっては大事な友人の一人だった。
その気持ちは今も変わっていない。
変わっていないと青島は思っていたが、彼からしてみれば、青島はただの友人ではなかったらしい。
今夜初めてそのことを知らされた青島は、大きなショックを受けた。
想われていたことなど、十年以上の付き合いがありながら、全く気が付かなかった。
知らなかったこととはいえ、無神経なことをしたこともあったかもしれない。
だが、彼の気持ちを知らされたことよりもショックだったのは、一度だけでいいからと彼に迫られたことだった。
酒の力もあったかもしれないが、思い詰めてもいたのだろう。
彼の告白を真に受ければ、ずっと好きだった青島がついに結婚したと知り、我慢の限界だったという。
一度でいいから想いを遂げさせてくれと、懇願するわりに力ずくで青島を押し倒そうとした彼は、青島の良く知る友人では無かった。
少なくとも青島には、別人に見えた。
青島は仮にも警察官であり、身体的にも精神的にも、やすやすと乱暴されてやるほどやわにはできていない。
止めろと口で言っても止まらなかった彼を、結局青島は殴って逃げ出して来ていた。
泊まりだと連絡した青島がいきなり帰宅したら、室井に心配をかけるだろうか。
言わずに済むなら、今夜のことは黙っておきたかった。
だが、自分でもはっきりと分かるくらい、今の青島は動揺していた。
無性に室井に会いたかった。
青島はタクシーの窓に映った自分の顔を見て、微かに笑った。
思ったより酷い顔をしていた。
これじゃ間違いなく室井さんに心配をかけることになるなと思いながら、青島は僅かに乱れていた襟元をなおし、目を閉じた。
帰宅してみれば、当然だが室井は就寝していた。
青島は手早く着替えると、勝手に室井の部屋に侵入した。
眠っている室井の穏やかな顔を見て、ホッと息をつく。
仕方がないよなと思った。
この人のことが好きなのだから、友人の気持ちを受け止めてやることはできない。
こればかりはどうしようもなかった。
青島はそっと室井のベッドにお邪魔した。
青島と違い眠りの浅い室井は、すぐに異変に気付いたようだった。
身じろいだ室井に勝手に抱き付き目を閉じる。
「あ、青島…?」
「おやすみ、室井さん」
「お前、何で…泊まりじゃなかったのか」
「うん。でも室井さん恋しくなっちゃったから、帰ってきちゃいました」
おやすみなさいともう一度繰り返す。
寝ぼけた室井がこれで納得し、青島を抱えて寝直してくれたらいいなという青島の期待は、当然のように叶わなかった。
青島の様子がいつもと違うことに、室井はすぐに気付いてしまった。
気付いてくれた。
室井は起き上がると、枕元のスタンドライトを点けた。
「青島」
寝起きとは思えない真摯な声で呼ばれて、青島は内心で苦笑しつつ身を起こした。
向かい合わせになると、室井は青島の目を見つめた。
「何かあったのか?」
「大したことじゃないです」
「いいから話せ」
そう言ってから、眉間に皺を寄せて言い直した。
「話してくれないか」
詰問みたいな口調が気になったのかもしれない。
青島は曖昧な笑みを浮かべると、視線を少し落とした。
知って欲しくは無かったが、聞いてもらいたくないわけでも無かったようだ。
室井に心配をかけたくないと思う気持ちも本音だが、やり場を失っている苦しい心の内を室井に聞いてもらいたいという思いもまた、青島の本心だった。
青島の異変をスルーすることなく気にかけてくれた室井に感謝しつつ、青島は軽く組んだ手元を見つめながら、重たい口を開いた。
黙って青島の話を聞き終えた室井は、酷く険しい顔をしていた。
当たり前である。
結婚したばかりの相手が、他の男に押し倒されたと聞いて、笑っていられるはずがない。
室井の怒りを肌で感じ、青島は慌てて付け足した。
「あの、でも、何も無かったですからね」
青島の言葉を聞いているのかいないのか。
「相手の氏名は」
「え?」
「住所と電話番号」
「いや、あの」
「仕事と勤務先」
「室井さんっ」
何の取り調べだと青島は声をあげたが、室井はまさしく取り調べのつもりだった。
室井は声を荒げはしなかったが、その深い怒りは眉間の溝と恐い表情によく現われていた。
「本人の意思を無視した行為は暴力であり、傷害罪だ」
室井が言うことも間違いではないが、いささか大袈裟だ。
青島はどこにも傷を負っていない。
「むしろ俺が殴ったんで、怪我してんのアイツなんですけど」
「強制猥褻罪でもいい」
室井が真顔で言うが、猥褻な行為も未遂に終わっている。
もっとも未遂であれば良いという問題では全くないが、青島には事を荒立てるつもりは無かった。
「室井さん、あの」
「なんだ」
ジロリと睨まれて、首を竦める。
ここまで室井が激昂するとは思わなかったと言えば、室井に益々怒られそうだった。
室井の怒りが青島に向いているように見えるが、もちろんその怒りは青島の向こうにいる友人に向かっていた。
「俺なら大丈夫ですから、女の子でもあるまいし」
室井はより一層険しい顔になった。
「君は男だし力もあるから抵抗も出来ただろう。だが、君が女性だった場合、今回のように抗えたか?どんな傷も負わずに、今みたいに大丈夫だと言えると誓えるか?」
「それは…」
「その男は罪に問われて当然の行動を取ってるんだぞ」
そう言われてしまえば、返す言葉も無かった。
青島が男で、多少なりとも腕っぷしに自信があったから、殴ってでも逃げ出すことができたのだ。
彼よりも力で劣る人間であれば、どうにもならなかったかもしれない。
青島が傷付かずに済んだから良かったという問題では確かに無かった。
すみれのように男からの暴力で傷付いている女性の存在も、青島は知っていた。
「それでも、君はその男を庇うのか」
だが、責めるような室井の言葉には、青島も表情を変えた。
それまで抑えていた感情がわき出る。
「友だちなんだっ」
泣きそうに歪んだ青島の顔を見て、室井は息を飲んだ。
青島は泣くまいと力をこめて瞼を閉じた。
「こんなことになっちゃったけど、大事な友達だったんだ…」
青島は今夜大事な友人を一人失った。
例え謝罪をされたとしても、彼とは今までと同じようには付き合ってはいけないだろう。
表面的には、きっと変わらない。
青島に事を荒立てるつもりはないし、表面上はこれまで通り、彼は青島にとって親しい友人の一人だ。
だけど、どうしたって気持ちには距離ができる。
青島が彼を許しても、彼が青島への想いを断ち切っても、一度起こってしまった事実は消えてなくなったりはしないのだ。
これまでと全く変わらない目で彼を見ることなど、不可能だった。
襲われそうになったこと自体は、それほど怖くはなかった。
暴行犯と格闘することが珍しくもない仕事をしている。
自分の身くらい自分で守れる。
無理矢理事をなそうとした彼に憤りはあったが、それよりも友人を失ったという事実がただ悲しかった。
青島が俯いたままでいると、室井の腕が背中に回された。
「悪かった」
溜息交じりの謝罪と一緒に、やんわりと抱き寄せられる。
「君の気持ちも考えずに」
先ほどよりも少し力の抜けた声は、青島を労るように優しい。
青島はブンブンと首を横に振り、室井にしがみついた。
「室井さんは間違ってないです」
「いや、偉そうに説教したが、本音を言えば君に触った男に腹を立てていただけだ」
八つ当たりだと言う声は僅かに怒りを含んでいて、室井が未だ怒っているのが分かる。
室井が怒っているのは、青島が傷つけられることに対してだ。
青島は室井にしがみついたまま微かに笑った。
「心配かけてすいません」
「全くだ」
ポンッと背中を叩く手が嬉しい。
慰めるような優しい仕草だった。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですよ、本当にすぐ逃げて来たし」
「身体のことだけじゃなくて」
「うん、大丈夫」
室井さんがいるからという気持ちをこめて、彼の首筋に頬擦りをした。
室井が背中を叩き頭を撫ぜてくれた。
「どうするんだ?」
しばらく黙って抱き合っていた室井が聞いてくるが、今度は問い詰めるような口調ではなかった。
「どうもしないですよ。アイツが縁を切りたいっていうならそうなっても仕方ないけど、俺からは別に、何も」
「…それでいいのか?」
「うん。あー、でも、もう二人きりになるようなことはしないです、絶対」
これだけは室井に約束しておかなければならない。
でなければ、室井だって心配だろう。
顔を上げた青島がそう約束すると、室井は難しい顔をしていたものの、納得したように頷いてくれた。
「絶対だぞ」
「はい」
「よし」
一度背中を強く叩き、室井は青島を抱き締めたまま横になった。
「寝られるか?」
「大丈夫です」
「本当か?」
疑わしい視線を寄越されて、青島は笑って見栄を張るのを止めた。
「はは…どうかな、努力はしてみるけど」
「少しでも眠った方がいい」
「はい」
「ここにいるから」
背中に回された手にぐっと力がこもるのを感じながら、青島は熱くなる目をそっと閉じた。
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