その日は、いつもよりも若干目覚めが良かった。
その日に何か楽しみなことがあるわけではなく、ただ単に夕べ早く寝たせいだ。
それも不貞寝であるから、目覚めが良くても楽しい目覚めでは全く無かった。
夕べ、室井とケンカをした。
きっかけは些細なことだったが、売り言葉に買い言葉で大人気ない口喧嘩に発展し、結局気まずい空気のまま互いの部屋に引っ込んでしまった。
そのまま青島は不貞寝してしまったから、その後室井がどうしたか分からない。
青島はガシガシと頭を掻いて、仏頂面のまま部屋を出た。
リビングは静かで、人の気配は無かった。
室井はまだ寝ているようだった。
今日は休暇だと言っていたから、それで当然だった。
顔を合わせずに済み良かったと強がり、青島は顔を洗って朝食の用意をした。
朝食と言っても、トーストとコーヒーだけの簡単なものだった。
それでも一人暮らしをしている時なら自宅で朝食を取ることすら無かったのに、今朝は一人分でもちゃんと用意していた。
室井と暮らすようになりついた習慣の一つだった。
一人でトーストを齧り、コーヒーを啜る。
青島と室井は休暇が重なることが希だから、こんな朝は時々あった。
それにも関わらず、一人の朝食が侘しく感じるのは何故か。
青島はあまり考えないようにして、トーストを大きく噛み切りコーヒーで押し込むと、煙草を一本だけ吸って自宅を出た。
「青島君」
呼ばれて顔を上げれば、魚住が目の前に用紙を掲げていた。
「健康診断、早く受けなさいよ」
そういえば先週辺りから魚住が再三繰り返しているが、青島はまだ受けていなかった。
強行犯係りで受けているのは魚住くらいかもしれない。
「あー、はいはい、健康診断ね…」
適当な返事を返してお茶を濁そうとする青島に、魚住が詰め寄る。
「君もいつまでも若くないんだから、ちゃんと受けなさいよ」
「分かってるんですけど、ほら色々忙しくて」
「忙しいのは皆一緒」
「じゃあ、代わりに係長、暴行魔の報告書書いてくれます?」
二人で用紙を突き付けあっていると、真下が横から口を挟んできた。
「先輩、警務課が顔出せって」
「ええ?」
「張り込み費用の精算書に不備があったみたいですよ」
「えー、もう面倒くさいなあ…」
「ちゃんとしとかないと、精算してもらえなくなりますよ」
真下に釘をさされて、青島は仕方なく席を立った。
魚住が「今週中に受けてよ!」と叫ぶのに片手で適当に応じて刑事課を出ようとしたが、今度は袴田に呼び止められる。
「青島君」
「なんすかあ」
うんざりした青島に、袴田が報告書を突き付けた。
「先週の強盗傷害事件の報告書、書き直して」
「俺、ちゃんと書きましたよ」
「あのね、さすがにこれは汚すぎるよ、読める字で書いて」
むっつりしながら報告書を引き取った青島は、そのままその紙を真下に押し付けた。
「清書よろしく」
「え?ちょ、先輩…っ」
真下が呼び止めたが、青島はさっさと刑事課を後にしていた。
読めない報告書の清書を押し付けられ途方に暮れる真下に近付き、袴田が首を傾げた。
「青島君、なんか今日荒れてない?」
「そうなんですよね、朝からちょっと元気無かったんですけど…」
「暑いせいかねえ」
「室井さんにふられたんじゃない?」
ニヤリと人の悪い顔で笑う魚住に、真下はそうかもと頷き、袴田は嫌そうな顔をした。
「ええ?そうなの?それは困るなー」
署長たちがまた騒ぐなあとぼやく。
神田と秋山はともかく、袴田は本気で室井と青島を結婚させ、出世の足掛かりにしようとは考えていない。
そもそも青島と結婚したとしても、四角四面の室井が青島の上司に対し出世の世話をするような融通を利かせるはずがないと知っていた。
神田たちに合わせて青島と室井の結婚を盛り上げているだけで、青島の好きにすれば良いと考えていた。
「まあ、室井さんキャリアですしね…」
「あら、じゃあ、真下君はエリートとしか結婚しないわけ?」
後ろからすみれが意地悪く囁いた。
和久と二人で喫煙室でお茶して戻ってきたところだった。
真下の目下のところの想い人は、同じ所轄で働く刑事である。
真下は慌てて首を振った。
「いえ!僕はキャリアもノンキャリも差別しませんから」
「室井さんだってしないでしょうよー」
和久がさほど興味もなさそうに呟き、席に戻る。
「そういえば、そうですね」
「まだふられてないといいけどねぇ」
いつかはふられると思っているらしい袴田の言葉にすみれは苦笑したが、自信満々に呟いた。
「大丈夫よ、室井さんだもん」
魚住が不思議そうに首を傾げた。
「何で分かるの?」
「あの人、青島君のこと好き過ぎるもん」
だから青島君が振られるわけがないという説明になっているのかなっていないのか分からないすみれの返事に、袴田と魚住と真下は顔を見合わせたが和久だけは笑っていた。
和久も室井が青島を振るとは思っていないようだった。
夕べは室井さんなんか知るもんかと思い不貞寝し、今朝は俺だけが悪いわけじゃないしと思いながら出勤した。
昼には謝ってくれたら仲直りしてもいいかなと思っていたが、夕方になり帰宅する頃には、室井さんはまだ怒っているんだろうかと、そればかりが気になるようになっていた。
時間の経過と共に怒りが退いて自身の行いもいくらか反省し始めると、今度は室井の気持ちが気になるようになった。
自分ばかりが悪いわけではないと今も思っているし、自分から折れたくないという意地もあるが、やっぱり室井とケンカしたままではいたくないと思う。
どうしたものかと悩みながら、青島は帰宅した。
玄関の鍵は開いていた。
リビングの電気はついていたが、室井の姿はない。
部屋にいるということだ。
青島が帰ってきたことに気付いていないとも思えない。
顔も見たくないということだろうか。
そう思うと腹立たしいが、それよりも悲しかった。
室井の出方次第で仲直りできるのではないかと期待していた青島は、自身が思っているよりもずっと室井が怒っているのだと思った。
青島だって怒っている。
だけど、話がしたい。
室井の顔が見たかった。
青島は鞄を床に放り出すと、室井の部屋の前に立った。
少し躊躇ってから、ドアをノックする。
「室井さん」
呼んでみるが、返事はない。
「まだ怒ってんですか?俺だって怒ってますよ」
ふて腐れた言い方で、ドアに向かって話しかける。
「室井さんも悪いんですからね、大人気ないっていうか…そりゃ俺だって少しはその言い過ぎたかもだけど、でもさ」
ぶつぶつと恨み事を語り続けるが、室井からは何も返って来ない。
声が聞こえないことも、開かれないドアも悲しい。
「開けてくんないんすか」
各自の部屋に鍵はついていない。
開けようと思えば開けられるが、室井の意思を無視して開けることが出来なかった。
青島はドアに手を伸ばした。
触れてみるが、それだけだった。
「…開けてよ」
頼りなげな小さな声になってしまい舌打ちしたいような気持ちだったが、室井とこのままでいるなんて耐えられそうに無かった。
「怒っててもいいから、顔見せてよ…」
俯いて呟いた声は小さ過ぎて、ドアの向こうには聞こえなかったかもしれない。
だが、室井にはちゃんと伝わっていた。
背中に衝撃を感じて振り返ると、何故か室井がいた。
背中から抱き締められていて、青島は目を丸くした。
「え、ええ?室井さん?なんで?」
「すまない」
肩に顔を埋めているから表情は見えなかったが、少し笑っているように思えた。
「風呂から上がって、脱衣所にいたんだが…」
「あ、そうですか…」
言われてみたら、室井の身体は温かくいい匂いがした。
風呂から上がったところなら、部屋にいなくて当然だった。
「君が帰ってきたみたいだから着替えたらすぐに出て行こうと思ったんだが、君がドアの前で話し出したもんだから」
言われて、青島は徐々に赤面した。
青島が発した言葉は室井に聞かせるための言葉ではあったが、無視をされていると思い込んでいたから出た言葉でもある。
ましてや、ドアの前で部屋の中に居もしない室井に向かって一人喋っている姿を見られているなんて想定外だ。
「ひどいよ、室井さん!黙って見てるなんて!」
羞恥と照れ隠しのような怒りで叫んだ青島は、室井の腕から逃れようともがいたが、思いの他しっかりと抱き込まれていて上手くいかない。
それどころか離すもんかとばかりに、室井の腕の力は強まるばかりである。
そんなことを嬉しく思ってしまったのだから、もう青島の負けである。
「すまない」
室井がもう一度謝るから、青島はそっと身体の力を抜いた。
「もっと早く声かけてくれたら良かったのに」
「夕べから口を聞いて無かったからな、君が何を語るのか気になって」
「性格悪いよ、室井さん」
「そうは言うが、前半ほとんど俺の悪口だったぞ」
「そうでしたっけね」
嘯く青島に、室井が小さく笑った。
「まだケンカしたりないのかと思って呆れて聞いていたら、どんどん…その…」
「いい、いいです、その先の感想はいらないです」
情けない声でドアを開けてとねだる自分の姿の感想など、欲しいわけがない。
青島は頬を染めたまま渋面になった。
室井が身体を離そうとするのが分かり、慌てて身体に回った彼の腕を掴み阻止する。
「青島」
先ほどと逆の攻防になり焦れた室井に名前を呼ばれるが、今は室井の顔を正面から見られない。
「ちょっと、もうちょっとこのままでいてください」
「顔が見たい、青島」
青島の顔が更に熱くなる。
そんなの俺だってと思うが、今は駄目だ。
恥ずかしくて仕方がない。
「毎日見てる顔でしょ、代わり映えしやしませんよ」
「今日はまだ一度も見ていない」
「今日の分も明日見せてあげます」
「青島」
首筋に吐息を感じて、背中がぞくりとした。
「君も見たいと言ってくれたはずだ」
「…忘れてください」
「嬉しかった」
それは本当に嬉しそうな声で、どんな顔でそんなことを言っているのだろうと思った。
腹に回されていた室井の手をそっと握ると、室井の腕が緩んだ。
外される腕をもう引き止めない。
自ら身体の向きを変えて、室井と向き合う。
良く知る男が、見たこともないほど、穏やかに優しく笑っていた。
青島は少し困ったように笑った。
「やっぱり、嫌だな」
「なにがだ?」
「怒っててもいいって言ったけど、やっぱり嫌です」
青島は室井に抱き付いた。
「変な意地張ってごめんなさい」
仲直りしましょうと自ら折れる。
怒った顔より、穏やかな顔を見ていたかった。
「俺もすまない、言い過ぎた」
しっかりと抱き返しそう言ってくれるから、青島はケンカのことなどどうでも良くなった。
それは、青島の顎を捕らえて唇を合わせてくる室井も同じことだ。
何度も唇を合わせ、青島を抱き込み、ひっそりと溜息を吐く。
「ケンカなんかするもんじゃないな」
「全くです」
「何日も会ってない気がする」
時間の無駄だったと呟く室井に、青島は笑ってしまった。
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