長いことこもっていた取調室から出てきた青島は、首を回して一息吐いた。
中々肝の座った若者相手で、調書を取るのに宥めたり脅したりと、大分手間がかかった。
近頃の若いもんは…と和久が零すのを時々耳にするが、三十路を超えた青島にもその気持ちが分からないではなかった。
十年一昔とはよく言ったもので、十以上歳の離れた十代の子どもの気持ちや考えることは、青島にももうよく分からない。
ただ、そんなものだろうとは思っているから、和久のような愚痴は出ない。
十代の子どもから見れば、青島たち大人も理解しがたく、不可解な生き物かもしれなかった。
青島を単純に大人と括っていいものかどうかも、悩ましいが。
「青島君」
溜まった疲労を煙と一緒に吐きだそうと喫煙室に向おうとしていた青島を、袴田が呼び止めた。
「なんすか?」
「ちょっと」
「一服してきてからでいいですか?」
「そんなの後にしなさいよ、署長がお呼びだ」
袴田に手招きをされ、青島はうんざりした顔をした。
「ええ?署長があ?…呼び出されるような覚えはないけどなあ」
後半は小さく呟く。
最近は大きな事件もなく、本庁に目をつけられるような失敗はしていないし、問題も起こしていない。
事件が多いせいもあるが、湾岸署刑事課強行犯係の検挙率も悪くはないし、無断欠勤はないし遅刻も滅多になく、これだけこきを使われていて勤務態度に問題があるとは思えない。
神田に叱責される覚えはなかった。
なんてことを真剣に考えていたら、袴田が嫌そうな顔をした。
「そんなにホイホイ問題起こされたら困るよ」
「ですよねー」
愛想笑いを浮かべつつ、仕方がないから袴田に着いて署長室に向かった。
「それで、いつ籍を入れるの?」
神田がニコニコしながら聞いてくるから、青島は脱力した。
なんの用かと構えてみれば、神田の用事は室井との結婚の予定についてだった。
まだ飽きていなかったのかとげんなりするが、元々は自分の蒔いた種である。
自業自得だから相手をしないわけにもいかない。
「だから、まだ決まってませんて」
「まだなのかい、室井さんも煮え切らないねえ」
「署長のおっしゃる通り!…そうだ、君からプロポーズしたらどうかね」
「副署長、それはどうでしょう。こういうことは焦ってことを進めれば進めるほど、追いつめられた相手は逆に冷静になりますからね。今、室井管理官に冷静になられたら、青島君なんてすぐに振られますよ」
「駄目だよ、そんなの駄目。貴重なキャリアなんだからね、逃がしちゃ駄目だよ」
「署長のおっしゃる通り!それでは、プロポーズしたくなるように仕向けるというのはいかがでしょう」
「いいですな、例えばすみれ君にライバルになってもらって、青島君を取り合ってもらうとか」
「すみれ君がかい?青島君を?やってくれるかねえ」
「大丈夫ですよ、署長。すみれ君は買収できます、ね、袴田君」
「はい、レインボー最中で十分でしょう」
「そうね、そしたら、焦った室井さんが青島君を…」
青島は出されたコーヒーを飲み干すと席を立った。
出て行こうとする青島の腕を袴田が慌てて掴む。
「待ちなさいよ、青島君」
「課長、俺忙しいんすよ」
あんたらの妄想に付き合ってる暇はないと内心で思いつつ、面倒くさそうな顔を隠しもしない青島だったが、袴田にまあまあと宥められ席に戻された。
神田が咳払いをして、仕切り直す。
「君ね、こんなに良い縁談は他にないんだよ?早いところ、室井さんで手を打ちなさいよ」
「室井さんでって…あのねえ」
室井を持ち上げているのか貶しているのか良く分からない神田の言い分に青島は溜息を吐いたが、神田の言うことが全く分からないでもない。
確かに、自分の婚約者として、室井は出来過ぎだろうと思う。
結婚相手に困ることがなかったであろう室井が自分を選んでくれたことも、幸運であったと思っている。
だからといって、結婚をせっつかれても困る。
別に青島が焦らしているわけでも、躊躇っているわけでもないからだ。
もちろん、室井から打診があるわけでもない。
また面倒くさいことになるので誰にも話していないが、告白と同時に婚約指輪を貰っているから青島と室井は現在婚約状態にある。
青島は室井と結婚したい、夫婦になりたいとは思っているが、どうしても今すぐしたいとは特に思っていなかった。
長く片想いしていた相手と晴れて両想いになり、切欠は妙な形ではあったものの一緒に暮らせて、婚約まで果たしている。
それ以上を、今すぐ望む気にはならなかった。
今が満たされているからだ。
結婚を前提にと言ってくれたからにはいつかはと思ってくれていると、既に室井の心も知れている。
青島は今のところそれで満足だった。
もしかしたら婚約は済んでいると告げるだけでも、神田たちはある程度納得してくれるかもしれないが、言ったら言ったで、それならとっとと籍をいれろと今まで以上に急かされるような気もした。
だから青島は、二人の間で婚約が成立していることを秘密にしていた。
騒がれるのは結婚する時の一度で十分、というのが青島と室井二人の共通の認識だった。
名前だけの恋人関係にあった時には、嘘でも騒がれることに後ろ暗い喜びを覚えたものだが、今となってはそっとしておいてもらえる方が有り難いことこの上ない。
我ながら現金だなと思いつつ、青島は他に言いようもなくて、曖昧な言葉で誤魔化した。
「こういうことって、タイミングもあるでしょ?そのうち、そういうことになったらお知らせしますから」
「いつでも仲人は引き受けるからね」
神田が真顔で言うから冗談ではないと思ったが、ふと味方についてくれるだけでもありがたいのかもしれないと思った。
室井の上司にあたる池神は、青島との交際に反対だったと室井の口から聞いていた。
本当に恋人同士になってからはその話題に触れたことはないが、快く思われていないのは変わらないだろう。
まさか上司に反対されたからといって室井が心変わりするとは思えないし、するくらいならとっくに青島のことなど見限っているだろうが、それでもいざその時になりあまり祝福されずに一緒になるのは悲しいなと思った。
結婚の予定もないのにそんなことを考えてしまい、青島は気の早い自分に苦笑した。
湾岸署の幹部のせっかちがうつったようだった。
「ただいまー」
青島はすっかり慣れた挨拶をして、部屋に上がった。
最近では室井のいない帰宅時にも言っている気がする。
一人暮らしの時には無かった癖だった。
「おかえり」
リビングのソファで新聞を読んでいた室井が、青島を見て苦笑した。
「酷い顔だな」
「そうですか?こんなに男前なのに」
顎を撫ぜた青島に呆れたような目をしたが、「疲れた顔してるぞ」と心配してくれた。
通報が多くて、走り回ることの多い一日だった。
正直帰って来るのがやっとというところだったが、室井の顔を見て少し元気が出たような気がしたのは秘密だ。
青島は鞄を置いてコートと上着を脱いで、室井の隣に腰を下ろした。
ソファに身を沈め、微かな安堵感に浸り、もう少しとねだるような気持ちのまま室井の膝を借りて横になる。
下から見上げると、室井は僅かに眉を寄せていた。
「重たい?」
「…いや」
「邪魔なら退けますよ?」
「いいから横になってろ」
ぶっきらぼうな言い方だったが、室井の手は殊の外優しく青島の髪を撫ぜた。
嫌がられていないことに安心して、青島は室井の膝に頭を預けた。
「飯は食ったのか?」
「はい、張り込み中にあんぱんと牛乳を」
「それだけじゃ足りないだろ」
「ええ、なんで署に戻ってからカップラーメン食べました」
「そうか」
「それから、肉マンと焼き鳥と…」
「いくらなんでも食べ過ぎじゃないか?」
「酔っ払った課長が差し入れてくれたんですよ、食べないのも勿体ないでしょ」
「…そうか」
「あ、呆れてる?」
「いや、もっとまともなもんを食わせてやりたくなった」
青島の食生活は室井の同情を買ったようだった。
恋人に同情を買うのも情けない話だが、青島は笑っておいた。
笑い事かと額を軽く叩かれて、益々笑ってしまう。
仕方ないなと見下ろす室井も、小さな笑みを浮かべていた。
柔らかい表情が嬉しくて、幸せだ。
青島は口元に笑みを残したまま室井を見上げて、ぽつりと呟いた。
「ねえ、室井さん」
「ん?」
「あのー…」
言いかけたまま、次の言葉が中々出て来ない。
「どうした?」
青島を見下ろし、先を促す室井がそっと頭を撫ぜてくれた。
労るような優しい手付きに後押しされて、少しだけ気になっていたことを聞いてみた。
「あの、その後、池神さんとか、なんか言ってきます?」
「局長?」
突然の質問だったせいか、室井は驚いたようだった。
「いや、ほら、池神さん、室井さんが俺と付き合うの、反対してたって言ってたから…」
その時の交際は見合い話を断るための嘘でしかなかったが、室井から青島との交際を聞かされた池神がどんな反応だったかは、室井の口から聞かされて青島も知っていた。
何かと目障りで問題ばかり起こしている平刑事の青島との交際を、一応は室井に目をかけ期待を寄せている幹部が喜ぶわけがない。
池神に何を言われたかを事細かに室井から聞いたわけではないが、もし青島と別れたと知ったら池神が喜ぶだろうとまで言っていたから、池神は反対しているに決まっていた。
その話を聞かされた頃には、これで当分の間は青島に惚れてしまった悪趣味な室井に縁談は持ち込まれないだろうと浅ましくも喜んだが、本当の室井の恋人になれた今となっては、上司に反対されるような交際はあまり望ましくなかった。
「局長に君とのことで何かを言われることはないが」
そう言って、室井は眉間に皺を寄せた。
「君が何か言われたのか?」
「あー、いやいや、違いますよ、ちょっと気になっただけで」
「そうか?ならいいが…」
まだ眉間を寄せている室井を見上げて、青島は苦笑した。
「まあ、池神さんに祝福されることはないんでしょうね」
「…かもな」
頷いた室井が手を差し出してくるから、意図を察してその手を握る。
「努力はしよう」
「え?」
「仮に誰にも祝福されなくても、今更離れる気は更々ないが」
さらりと言われた言葉に、胸が詰まり握った手に力を込める。
室井は多分青島が聞きたかった言葉に気付いてくれていた。
穏やかな声だが、力のこもった眼差しで続ける。
「仕事で結果を出して、プライベートにまで文句の付けようがないだけの男になるよう、努力しよう」
青島は寝返りをうち、しがみつくように室井の腹に顔を埋めた。
「…もう十分ですよ」
不覚にも緩くなりそうな涙腺に力をこめ、赤くなった顔を誤魔化すように室井に押し付けた。
室井はそれ以上何も言わなかったが、その手は髪に触れていた。
青島もしばらく黙っていたが、波打つような心が落ち着くと、少し顔をあげ室井を見上げた。
「俺も努力しますよ」
室井の隣にいることが自然だと思われるような男に成長できるように。
そう心に誓ったが、照れくさくて言葉には出さなかった。
「局長にこれ以上嫌われないように、気をつけます」
代わりに冗談っぽく笑うと、室井は苦笑して頷いたが、少し考えてから真顔になった。
「やっぱりいい」
「ええ?」
「君は変わるな」
愛しげに細められた眼差しに、青島はまた室井の腹にしがみついた。
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