『今日夜勤になりそうです。おでん食いたかったのに残念。それと、今朝はすみませんでした!』
仕事の合間に青島からきたメールを読んで、室井は小さく笑った。
急な夜勤で今夜は帰宅できなくなったという知らせのメールだった。
いつの間にか、その日に特別な予定が入ると連絡しあうようになっていた。
おでんのくだりは、室井が今夜作ると話してあったからだ。
青島が子どものようにそれを喜んでくれたのは今朝の出来事だったが、残念ながら今夜は無理なようだ。
最後の一文は、今朝目玉焼きを作ろうとしてフライパンを焦がしてダメにしてしまったことを詫びていた。
出勤前にも謝ってくれていたのに、まだ気にしていたらしい。
室井は苦笑して、返信を打った。
『了解した。おでんは残しておくから、明日食べろ。フライパンは安物だから気にするな』
メールを送り、携帯をしまう。
今夜会えないのは残念だが、こんな些細なやり取りが出来るようになったことは嬉しかった。
青島は元々順応性が高いのだろう。
室井との生活や、室井自身にも慣れてくれているのが分かる。
そんなことも嬉しかった。
室井は仕事に戻ろうと書類に目を落としたが、メールの受信に気付いてすぐに携帯を開いた。
『おでんに、はんぺんが入ってると嬉しいです!嬉しいです!』
繰り返されていた「嬉しいです」というおねだりに、室井は笑いそうになる顔を必死に堪えて、「了解」とだけ返信した。
仕事を終えた室井が帰宅しようとする頃になって、捜査一課に一倉が姿を見せた。
一倉は薬物対策課の課長だが、室井とは同期に当たり知らない仲ではなかった。
むしろ同期の中では比較的親しい方かもしれない。
「久しぶりだな」
「ああ」
「もう帰れんのか?」
誰もいない捜査一課を見渡して一倉が言うから、室井は「だから邪魔をするな」という思いで頷いた。
「なら、丁度良かった。久しぶりに飲みに行かないか」
室井が嫌そうな顔をしたら、一倉が呆れた顔をした。
「同期が誘ってるんだから、そう邪険にするなよ」
「お前と飲んでもいいことがない」
一倉が嫌いなわけではないが、警察官としての根本的な考え方は室井とは対極であり、合わない男だった。
所轄に理解のある官僚など滅多にいないからそれで当然ではあった。
室井が所轄を信じ青島を信じることに対して、時々違和感や警告を口にする男だった。
だが、最近は諦めたのか、勝手にしろと思われているのか、あまりぶつかることもなかった。
「まあ、いいさ。お前に少し聞きたいことがあっただけなんだが」
室井はコートを着込みながら、目で一倉に先を促した。
「湾岸署の青島と付き合ってるって本当か?」
ぴたりと室井の動きが止った。
湾岸署では有名な話だと言うが、本庁ではさほど噂になっていなかったから、一倉が知っているということに驚いた。
ただ、特に隠す必要があるわけではない。
青島が構わないと言ってくれている間は、対外的には青島は室井の恋人だった。
「どこで聞いたんだ?」
否定しない室井に軽く眉をひそめつつ、一倉は苦笑した。
「局長だよ。お前と青島がどうなってんのか聞かれてな」
俺に聞かれても困ると一倉の顔に書いてあった。
同期とはいえ頻繁に交流を持っているわけではないし、そもそも室井はプライベートな話をあまりしないから、一倉が室井の恋愛事情を知るわけがなかった。
室井の片思いすら、知らない。
「実際どうなんだ」
「お前に関係ない」
「だから俺じゃなくて、局長が気にしてんだよ」
「局長にも関係ないだろ」
「誰かさんがこれ以上所轄に感化されないか心配なんだろ」
肩を竦める一倉を見る限り、一倉も同意見であることが伺えた。
一倉は過去に湾岸署で青島と捜査を巡って対立したことがある。
青島のことは本庁に立てつく生意気な所轄刑事としか思っていないだろう。
一所轄刑事である青島のことを誰よりも信頼し、所轄と本庁の在り方に疑問を持っている室井の考え方も気に入らないはずだった。
池神と同じで、一倉が室井と青島の交際に反対であってもおかしくない。
だが、そんなことは室井の知ったことではない。
室井が誰に惚れようと室井の勝手である。
「子どもでもあるまいし、付き合う相手くらい自分で決める」
「本気ってことか…いや、愚問だったな、お前が遊びで付き合うわけがないか」
全くだと思った。
交際そのものが嘘なのだから本気も何もあったものではないが、室井の気持ち自体は真剣だった。
「わざわざ自ら苦労しなくてもいいだろうに」
一倉が呆れたように言うから、室井は眉間にシワを寄せた。
「あの問題児だ、少しも大人しくしちゃいないだろう。そのうち問題起こしてクビになるぞ」
室井は頭に血を上らせることもなく、だからどうしたと思った。
「青島が正しいと信じて組織と戦うなら、俺も一緒に戦うまでだ。それはあいつが恋人であろうと他人であろうと変わらない」
室井にとってそれはどんなに大変なことであっても一倉の言う「苦労」とは思わないし、付き合っていようがいまいが室井のやることに変わりはない。
室井は青島の正義と青島自身を信じていた。
真顔で言ってのけた室井に顔をしかめたが、一倉はやがて溜め息をついて苦笑した。
「お前の人生だから勝手にしたらいいが」
「そう思うなら放っておいてくれ」
「そうしたいが、局長がうるさくてね。今のところ、残念ながら仲睦まじいようですと言っておくよ」
今のところは余計だと思ったが、今のところという言葉はある意味で間違えていなかった。
少し心が沈んだ。
同じ質問をされた時に、青島とは終わったと、池神に告げる時がくるだろう。
その日が少しでも遠くなることを祈るしかない。
「で、どんな具合なんだ?青島と」
帰宅する室井に一倉もついてくるから、仕方がないから連れだって捜査一課を出た。
「別に普通だ」
「面白くない返事だな、会ってなにするんだ?」
「…飯食ったり、酒飲んだりだ」
一緒に暮らしていることまでは知らないはずだから、答えが曖昧になった。
嘘は吐いていない。
時間が合えば一緒に食事をするし、酒も飲む。
「色気ねえなあ」
「余計な世話だ」
「青島ね…まあ、生意気な男だが、見栄えは悪くないし、可愛い顔をしてなくもないか」
褒めているのか貶しているのか微妙な言い草だったが、むしろあまり褒めてももらいたくなかった。
警察官としての青島を評価されるのであれば嬉しいが、色のついた目で青島を見てもらいたくはない。
本来そんなことを言う権利は室井にはないのだが、不愉快なものは仕方がない。
室井は殊更冷たい目を一倉に向けた。
「だからなんだ」
一倉は肩を竦めて「別に」と言ったが、室井の地雷と思ったのかニヤリと笑った。
「あいつ、セックスはうまいのか?」
室井は目を剥いたが、眉間に皺を寄せると低い声で答えた。
「お前に関係ない」
「俺じゃなくて局長がだな」
「嘘を吐くな!」
これ以上は時間の無駄とばかりに、室井は一倉を無視して、本庁を後にした。
室井が帰宅したら、ソファの上に青島がうつ伏せで横になっていた。
辛うじて脱いだのかコートはソファの背凭れに引っ掛けてあったが、スーツは着たままだった。
帰宅してすぐに寝ましたという体勢に、室井はひっそりと息を吐いた。
夕べは急な夜勤だったから、帰宅して着替える間もなく睡魔に負けたとしても無理はない。
そしてこんなことが珍しくもないのだろうなと思ったら、常日頃の彼の生活がしのばれた。
室井はコートを脱ぎながら、起こすべきか少し悩んだ。
寝かせておいてやりたいが、ソファの上で寝るよりベッドで寝た方がいいだろうと思い、起こすことに決めた。
「青島」
何度か名前を呼んでみるが、反応はない。
仕方がないから、背中に手を伸ばした。
触れる瞬間には微かに躊躇ったが、変に意識しないように気をつけその背を揺すぶった。
「青島、起きろ」
「ん…?」
意識を取り戻したらしい青島が呻きながら寝返りを打つ。
寝ぼけた顔で室井を見上げ、不思議そうな顔をした。
「あれ?室井さんだ、おかえりなさい」
「…ただいま」
「俺、寝てました?」
「覚えてないのか?」
「帰った記憶はあるんだけど、その後どうしたっけな…」
青島は欠伸をしながら起き上がり、大きく伸びをした。
一度伸ばした腕を下ろし、大きく息を吐いて、腹に手を当てる。
「…お腹空いた」
空腹を思い出し情けない顔をする青島に、室井はつい笑ってしまった。
表情を崩した室井を見上げ、青島は少し困ったように、照れたように笑った。
「なんかすいません…ゆっくり飯食う時間も無かったもんだから」
室井は緩んだ口元を隠すように手をあてた。
「ちょっと待ってろ、すぐ用意してやる。おでんでいいんだろ?」
夕べの残りだが、それを楽しみにしていたのは青島だ。
嫌がりはしないだろうと思ったら、案の定青島は目を輝かせた。
「おでん!もう、夜中に取り調べしながら、頭ん中でそればっかり考えてました」
「あまりハードルをあげないでくれ、普通のおでんだぞ」
「いいです、いいです、普通で十分」
餌を前にした犬のような青島に苦笑し、室井はスーツの上着だけを脱いで台所に向かった。
おでんの鍋に火をいれ温めながら、冷蔵庫を開く。
なにか他に簡単にできるものはないだろうかと考えていると、いつの間にか青島が鍋を覗いていた。
室井が青島を見ていると、青島も室井を振り返った。
「ありがとう、室井さん」
「なにがだ?」
「はんぺん」
ひどく嬉しそうに笑って鍋を指差す青島に目を細め、室井はそっと視線を逸らした。
青島が可愛らしく見えて困った。
今までだってそうだったが、自身の邪な感情が青島に伝わってしまいそうで、つい直視することを避けてしまった。
変に意識してしまうのは一倉が余計なことを言ったせいか。
青島の全てを知りたい、そんな欲求が室井にないわけではない。
健康な成人男性である。
想いを寄せている相手に対して、当たり前の欲求くらい持ち合わせていた。
だがそんな欲求に負けてしまうくらいなら、端から青島と同居など引き受けたりしなかった。
欲望に負けない自信があったし、何より青島を傷つけるような真似が室井にできるわけがなかった。
信頼を失うのが恐くて告白も出来ずにいる男である。
青島の意志を無視した行為に走れるわけもない。
ただ、どんなに強固な理性をもってしても、それで欲求が消えてなくなってくれるわけではないから、当然我慢はしなければならなかった。
それも、望んで受け入れた我慢だ。
しんどいとは思わない。
だけど、青島にこんな欲望を持っていることだけは気付かせてはいけなかった。
「俺も好きなんだ」
唐突な室井の言葉に、青島が「え?」と間の抜けた声で返事をした。
室井は冷蔵庫の中を物色する振りで、青島に背中を向けたまま言った。
「はんぺん、好きなんだ」
少しの間の後、青島が「美味いですよね」と笑った。
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