所轄での捜査会議を終えた室井は、部下に必要な指示を与え会議室を出た。
これから一度本庁に戻り、また別の所轄に行かなければならなかった。
つい腕時計で時間を確認し、眉をひそめた。
今日一日で何度目だ?
自身でそう思うくらい時計を見ている。
理由は出来るだけ早く帰宅したいからに過ぎない。
こんなことは今までにないことだった。
家に帰ってもさほどすることはなく、面倒な家事が待っているだけだ。
ほとんど寝に帰るためだけの家が恋しいわけがない。
だが、今は恋しくて仕方がない。
青島に会えるからだ。
とはいえ、帰ったところで青島がいる保証などどこにもない。
現に、一緒に暮らし始めて一週間程経つが、一日は夜勤で帰らず、二日は日付が変わってから帰宅している。
先に青島が帰宅している可能性は低くかった。
それでも自宅にいれば、青島は必ず帰ってくる。
必ず会える、そう思えば帰宅するのが待ち遠しかった。
だが、そんなことを理由に仕事の手を抜ける男ではない。
仕事を投げ出して帰宅などできるわけがなかった。
室井は表情を引き締め、次の仕事を片付けるべく、本庁に向かった。
生真面目が幸いしてか災いしてか、何があろうと仕事の手が抜けないながらも、青島への想いが高じて僅かに仕事の能率が上がっていることを、本人は気付いていなかった。
室井が自宅に着くと、既に青島が帰宅していた。
玄関に自身では履くことのないブーツを見付けて、少し気分が高揚し、青島がいるというだけでテンションの上がる自分に呆れた。
「あ、おかえりなさい」
リビングから青島がひょっこりと顔を出した。
「…ただいま」
青島にそう告げることにいくらか緊張したが、青島の笑顔を見たら気が抜けた。
「君の方が早かったんだな」
「ええ、なんで台所借りてました」
互いに生活が不規則なので、夕飯は各自勝手にとることになっていたが、何となく時間があえば一緒にとるようになっていた。
青島の方がどうかは分からないが、室井は意識して夕飯を外食で済ますことは避けていた。
「カレーですけど、食います?」
「ありがとう、もらおう」
「味は保証しませけどねー」
そんなことを笑って言いながら、青島は台所に消えた。
それを見送った室井は、思い出したように自室に向った。
スーツを脱ぎながら、馬鹿なことを考えている自分を笑う。
本当に夫婦になったようだと思ってしまったのだ。
馬鹿馬鹿しいことだった。
青島とは名前だけの恋人だったし、同居は仮のものだ。
いずれ青島は新しい住居を見付けてここを出て行くし、本当の恋人や配偶者を見付ける。
その日が来るのが一日でも遅いことを期待し、祈るのは、馬鹿げたことだった。
どんなに願ってもいつかは終わることだ。
それが分かっているのだから、この時間を大事にしようと室井は思った。
暗くて浅ましい願望にうつつを抜かすより、その方がいい。
着替えを終えた室井がリビングに戻ると、青島がテーブルに食事の支度を済ませていてくれた。
カレーとサラダだけだったが、滅多に自炊をしないという青島が手をかけてくれたのは、室井がいるからだろう。
それが居候することへの遠慮だとしても、室井は嬉しかった。
「美味そうだ」
そう言って室井が床に腰を下ろすと、青島も向かい合わせに座った。
「美味いといいですね」
他人事みたいなことを言いスプーンを握る青島に、室井は思わず苦笑してしまった。
食事を終えると、後片付けは室井が請け負った。
室井が食器を洗っている横で、青島は煙草を吹かしていた。
室井はそこまで気にしなくていいと言ったのだが、青島は室井の部屋に煙草の匂いをつけるのを気にして、換気扇の下で吸うようにしていた。
出世に響くから煙草を止めたという話を、以前に青島にしていたせいだろう。
室井が吸わなくても、喫煙者が側にいれば匂いがうつってしまう。
それを気にしているらしかった。
嗅ぎ慣れない煙草の匂いは、室井にとって青島の匂いになっている。
その香りがうつるなら悪くなかったが、そんなことも言えないから青島の好きにさせていた。
「ちょっと辛かったですね」
青島が舌を出すから、室井は肩を竦めた。
「カレーは辛いもんだろ」
「そうですけど、まだ舌がピリピリしてますよ。室井さん平気?」
「辛かったが、美味かったぞ」
室井が素直に言ったら、青島は目を輝かせ、喜びを露わにした。
こういうところは素直で分かりやすい男だった。
「そうっすか?いやー、久しぶりだったから美味く作れるか不安だったんだけど、やれば出来るもんすね」
良かった良かったと嬉しそうに安堵する青島を横目で見て、室井は微かに笑った。
大きな子どものような男だとは思うが、呆れるよりも愛しさが募った。
「他に何が作れるんだ?」
「あんまレパートリーはないんですけどね」
ラーメンとか焼きそばとか…と指折り数える青島が、炒飯は得意だと笑った。
学生の頃、中華料理屋でバイトをしていたらしい。
途中で厨房よりホールの方が青島には向いていると、配置換えをされてしまったと残念そうに教えてくれた。
青島の料理の腕のほどは詳しく知らないが、接客の方が向いていると判断されての配置換えだろうから、それほど得意ではないのかもしれない。
接客なら確かに人より優れているだろうとも思えた。
青島と話せば頭の回転が速いことも機転がきくことも良く分かる。
人付き合いも上手で、優秀な営業マンだったというのも頷けた。
人当たりがいいから客受けもきっと良いだろうから、厨房に置いておくよりホールに出そうと考えたその時の店主の気持ちも分からなくはなかった。
「今度ご馳走しますよ」
ニコニコ笑って今度炒飯を食べさせてくれるという青島に、社交辞令ではなく「楽しみにしてる」と返しておいた。
先に入浴を済ませた室井は、なんとなくリビングで青島が上がってくるのを待ってしまった。
自宅のリビングでテレビを見ている姿は、青島から見て特に不自然な姿ではないだろう。
室井が見るとはなしにテレビを眺め、缶ビールを飲んでいると、青島が上がってきた。
「室井さんちの風呂、広くていいですよね」
風呂から上がってくるなり、青島は羨ましそうに湯船が広いと言った。
「そうか?」
「ええ、俺の部屋の風呂狭くて。足伸ばして入るの久しぶりです」
気持ち良かったと笑う青島が可愛く見えて、室井はそっと視線をそらし立ち上がった。
変に緩んだ表情など、青島に見せられるものではない。
冷蔵庫から缶ビールを取り出す間に表情を取り繕い、青島に缶を一本手渡す。
「ありがとうございます」
嬉しげにビールを飲みながらソファに腰を下ろすから、室井の寝酒に付き合ってくれるつもりのようだ。
「室井さん、ビールにこだわりあります?」
「こだわり?」
「アサヒとかキリンとかヱビスとか、色々あるでしょ?」
「ああ、そういうことか…ビールの好みは特にないな」
「あ、そういえば、室井さん、日本酒とかに詳しいですよね」
「そうでもないが、そっちの方は好みがあるかもしれないな」
「ですよね」
「君は?」
「俺は何でも飲みますけど、強いていえばビール党かな」
ビールならどこのでも好きですと笑うから、銘柄にこだわりはないようだった。
そういえば一緒に飲みに行ったりすると、青島は室井に合わせた酒の飲み方をする。
ビールで乾杯して、途中で日本酒や焼酎に切り替えるのだが、室井が日本酒を頼むと青島もそうしていた。
大雑把で軽いイメージのある青島だが、元は優秀な営業マンだっただけあって意外と細やかな気遣いの出来る男だった。
しかし、気を遣わせていたのかと今更気付く自分に、室井は自身の鈍さを再認識して自己嫌悪した。
青島と室井が一緒に飲むとき、それはもちろん接待なんかではない。
青島もそう思ってくれているとは思うが、青島にとって気を遣わせなければならないような相手ではいたくなかった。
「室井さん?どうかしました?」
急に眉間に皺を寄せて黙ってしまった室井に、青島は不思議そうな顔をした。
室井は首を振ってなんでもないと伝えた。
「ビールなら冷蔵庫にまだ入っているから、遠慮するなよ」
そう言うと、青島は笑って頷いた。
「室井さん」
「なんだ?」
「俺、そんなに遠慮しませんから、心配しないでください」
目を瞠った室井に、青島が笑みを深めた。
「室井さん、俺に「遠慮するな」って何回も言ってくれるから」
自覚はなかったが、青島に随分とそう言っているらしかった。
青島が気にして指摘するくらいだから、そうなのだろう。
事実、青島に遠慮して欲しくなかった。
少しでも居心地の良い場所であればいいと願うからだ。
そして、少しでも長くここにいてくれたら。
つまり、結局は自分のためか―。
自己嫌悪に沈みそうになる室井を救いあげてくれたのは、他ならない青島だった。
「こんなこと言うのも逆に失礼かもしれないけど、のびのびさせてもらってますよ」
「…それなら、良いのだが」
「部屋貸してもらうってだけで十分世話になってますけど、それだけじゃなくてね」
青島は照れたような笑みを見せて、少し視線を落とした。
「ほら、俺ずっと一人暮らしだったから、一緒に飯食ったり酒飲んだり…こういうことできるの、凄い楽しいですよ」
青島がそう思ってくれるのは一人暮らしが長かったせいだろうが、室井は青島のことが好きだから一緒にいたいと思っていた。
根本の意味合いが違っていても、室井と同じ気持ちでいてくれるのはやはり嬉しかった。
「室井さんとこういうふうにできるの、凄い楽しいです」
はにかみながらそんなことを言ってくれるから、室井は顔が熱くなるのを感じた。
深い意味などなくても、青島にとって室井と居ることは笑顔で楽しいと思ってもらえるようなことなのだと知れる。
そのことは、室井を堪らなく喜ばせた。
生憎とそんな感情を素直に面に出せるタイプではなかったが、室井は精一杯の感情を言葉にした。
「俺も、楽しんでいる」
青島はわずかに目を見開いて室井を見たが、すぐに照れ笑いを浮かべた。
可愛い、愛しいと思った。
思ったところでどうすることもできないが、思うくらいは自由だろう。
言葉にし面に出さなければ、青島に伝わることもないし、不愉快に思わせることもない。
だけど、少しだけ思った。
伝えたら、青島はどんな顔をするだろうか。
どんなふうに、室井の想いを受け止めてくれるだろうか。
伝えたとしてそれでも変わらずに、室井と一緒にいると楽しいと感じてくれるだろうか。
言葉にして聞けそうにないことを、考えてしまった。
「それなら良かった」
青島が悪戯っぽく笑う。
「あんまり甘やかすと、図々しくなるから気を付けてくださいね」
それでも構ないと思いつつ、室井は真顔で軽口を叩いた。
「そしたら追い出すまでだ」
「ひでえ」
「気を付けろと言ったのは君だろ」
「追い出されても玄関の前に居座っちゃおうかな」
「警察に通報しよう」
「恥かくの、室井さんですよ。どう考えても、痴話げんかだと思われる」
今は恋人同士の設定の二人なのだから、そうあってもおかしくなかった。
思わず言葉につまった室井に、青島が意地の悪い顔をした。
「室井さんに捨てられたって、泣きついちゃおうかな」
「…やめてくれ、池神局長が喜ぶ」
手を叩いて笑う青島に、室井は傍にあったクッションを投げつけた。
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