本庁を出た室井は、腕時計で時間を確認した。
約束の時間に間に合いそうだと、安堵する。
相手は青島だった。
仕事終わりに待ち合わせて飲みに行く約束をしていた。
青島と名前だけではあるが「恋人同士」という関係になってからというもの、前よりも頻繁に顔を合わせていた。
「一応恋人なんだから、時々は会っておいた方が良くないですか?」
そう言ってくれたのは、青島の方だった。
一々誰と会ったとか会っていないとかいうようなプライベートを上司に報告するわけではないが、ある程度親密にしておいた方が嘘にも信憑性が出るのではないかという提案だった。
こんなに自分にとって都合のいいことばかりで良いのだろうかと思わなくはないが、許されるのなら一緒にいたいと願う室井に遠慮することはできなかった。
有り難い青島の提案に乗っかり、時間が合えば青島と二人きりで過ごすことが増えていた。
待ち合わせた店に、青島は既に来ていた。
驚いたことに、何故かすみれの姿まであった。
四人がけのテーブル席に、二人は向かい合って座っていた。
室井は逡巡したが、それが自然だろうと思い青島の隣に腰を下ろした。
「すいません、室井さんと飯食いに行くって言ったら、すみれさんも着いてきちゃって」
申し訳なさそうに詫びてくる青島の向かいで、すみれがニッコリ微笑んだ。
「男二人のご飯じゃ味気無いでしょ?」
「とかなんとか言って、タダ飯食えるとか思ってんじゃないの」
「やあね、そんなんじゃないわよ」
「言っておくけど、割り勘だからね」
青島が釘をさしたら、すみれがあからさまに不満そうな顔をした。
「えええ?青島君はどうせいっつも奢ってもらってんでしょー」
すみれどころか、湾岸署の署員の誰もが室井と青島の交際を知っているという。
あの口の軽いおしゃべりな幹部の口から漏れないわけもなく、室井も青島も噂が広がることは覚悟の上だった。
青島に迷惑が掛かるのではないかとそれだけが気掛かりだったが、青島本人は「人の噂も七十五日、そのうち飽きますよ」と言って全く気にしていなかった。
確かに、誰が誰と付き合っているなどという噂は、時間が経ち熱が冷めればあまり話題に上がらなくなるものだ。
そのうち誰も室井と青島の交際など気にしなくなる。
そうなっても青島は室井とこの嘘の関係を続けてくれるだろうか。
少し気になったが、先のことはあまり考えないことにした。
今がどれだけ幸運な状態にあるか、室井は理解していたからだ。
多くは望むまい、そう思い続けている。
「そりゃあ、奢ってもらう時もあるけど…」
すみれの突っ込みに、青島はボソボソと自白した。
「ほらみなさい、自分ばっかりずるい」
「ずるいって、何さ」
青島は呆れた顔をしたが、すみれは一向にめげなかった。
それどころか、冷やかすように笑った。
「それとも、室井さんに奢ってもらえるのは、自分だけの特権てわけ?」
「そんなんじゃないけどさ…」
眉をひそめ困った顔をした青島がちらりと室井を見た。
助け船を求められていることくらいは室井でも分かる。
小さく咳払いして、口を挟んだ。
「いつもじゃない、たまにだ」
実際、室井が青島にご馳走したこともあるにはあったが、割り勘の時も多い。
高級レストランに行くわけでもないから、二人で飲み食いした代金などたかが知れていて、別に室井が払っても構わないのだが、青島は割り勘のほうが気が楽なようだった。
時々ご馳走してやれば素直に喜んでくれるが、あまり気を遣うなと言われている。
嘘の恋人同士というおかしな関係になったのは室井の事情だが、それを負い目に感じることはないと思ってくれているようだった。
室井が青島に何かをしてやりたいと思う時、それは単純な好意からだが、対等でいようとしてくれる青島の気持ちは嬉しかった。
「ふーん、男同士だとそんなもんかしら」
私ならもっと奢って貰うのに!と何故か憤慨しているすみれに呆れた顔をし、青島は室井に視線をうつした。
「すみれさんの恋人になったら、破産しそうですね」
「…そうだな」
「失礼ね!そんなに食べないわよ!」
青島どころか室井までもが、思わずすみれに疑わしい視線を向けてしまった。
今日くらいは俺がご馳走しようと、室井は思った。
そうしないと、後々まで「青島君の恋人はキャリアなのにケチくさい!」と青島が苛められそうな気がした。
「ところで、青島君」
ビールから日本酒に変わった頃になり、すみれが切り出した。
「んー?」
「引っ越し先は決まったの?」
「あー…いや、それがまだでさー」
室井はちらりと青島の横顔を見た。
引っ越しを考えていたとは知らなかった。
「中々探しに行けなくてね」
「早くしないと、間に合わなくなるわよ」
「分かってるんだけど、毎日こう忙しいとさー」
もう適当に決めようかなとぼやきつつ、青島が室井を振り返った。
室井からの視線に気付いたようで、小首を傾げてどうかしたかと訴えてくる。
「引っ越しするのか?」
「ああ、室井さんに話してなかったっけ…」
青島は苦笑し、付近の土地開発のため現在住んでいる賃貸マンションの土地が買い上げられてしまい、立ち退かなければならなくなったと教えてくれた。
来月末までには退去しなければならないが、未だ新居が見つかっていないらしい。
青島の口振りからすると、見つかっていないというよりは、満足に探せていないという方が正しいのかもしれない。
忙しい所轄署の刑事に、ゆっくりと不動産を巡る時間がないことは、室井にも想像がついた。
「あら、室井さんに相談してなかったの?」
すみれが少し驚いた顔をした。
恋人なんだから当然知っているものと思っていたようだった。
事情が事情なのだから、確かに恋人に相談していてもおかしくない内容ではあった。
生憎と、とても残念なことに、青島がどこに引っ越そうが、家を買おうが借りようが、室井に報告する義務は全くない。
だが、すみれにそんなことも言えないからか、青島が適当に誤魔化した。
「室井さんと中々会えなかったからね、相談する機会がなかったんだよ。それに、俺自身も忙しくて、引っ越さないといけないの忘れてたし」
住む場所がなくなるのだから取り急ぎ対処すべき問題な気がするが、青島がそれを後回しにしてしまうのは、それだけ日々の仕事に追われているからだろう。
後は、楽天的な性格が災いしているのかもしれない。
なんとなるさ、と心のどこかで思っているような気もした。
「いい加減なんとかしないとなあ」
面倒くさそうな青島の声を聞けば、本当に適当なところに決めてしまいそうで、室井は少し心配になった。
それはすみれも一緒なのか、露骨に眉をひそめている。
「生活環境って大事だから、ちゃんと考えた方がいいわよ」
「分かってるんだけど、時間無いしさ」
「さっさと探さないからよ…ああ、そうだ」
すみれが名案とばかりに、何故か室井を見た。
「室井さんち間借りさせてもらえば?」
突拍子もない提案に室井は目を剥いた。
青島も目を見開き室井と視線を合わせて、慌てたようにすみれを振り返った。
「ちょっと、すみれさん、何言って…」
「室井さんちなら部屋一つくらい余ってるんじゃないの?」
「そんな問題じゃないよ」
「焦って変なとこに入居するよりいいでしょ」
「いや、でも、急に、そんな」
しどろもどろな青島に、すみれが怪訝そうな顔をした。
「なによ、恋人なんだから、助けてもらいなさいよ」
言ってから、「ねえ」と室井に同意を求めてくる。
同意を求められても困る。
そんなことが出来るのだとしたら嬉しいが、だが青島は室井の恋人ではない。
いくらそれなりに親しい相手とはいえ、青島も他人の家に居候したいとは思わないだろう。
そう思うだけに、室井からは何とも言えなかった。
何も言えずにいる室井の代わりに、青島が言った。
「室井さんと一緒に暮らしたりしたら、また署長たちが早く結婚しろってうるさくなるよ」
先日の湾岸署での騒動を思い出し、煩わしそうに肩を竦める青島だったが、すみれは笑い飛ばすだけだった。
「新しい部屋見つかるまでだもん、気付かれやしないわよ」
「いや、でもさ」
「なによ、煮え切らないわねぇ…困ってんでしょ?青島君」
「そりゃあ、まあ…家が無くなるんだから、困ってはいるけど…」
「それならいいじゃない、助けてもらえば。それとも、困ってる恋人を放り出すほど甲斐性ないわけ?青島君の恋人は」
じろりと睨まれて、室井は眉間にシワを寄せた。
不愉快に思ったわけではない。
確かに青島が困っているのに何も出来ないのは嫌だった。
実際には恋人同士ではないが、室井が手助けをしたからといって可笑しなこともないのではないかと思った。
室井だって、青島に助けられている。
妙な嘘を吐かせて、協力してもらっているのだ。
室井が彼に何かをしてあげたからといって、不自然ではないだろう。
「そういうんじゃないよ、すみれさん」
青島が慌ててすみれを宥め、室井を庇ってくれた。
「室井さんはそんな冷たい人じゃないよ、ただ俺が二回も三回も引っ越すのが面倒なだけで」
それらしくすみれに言い訳する青島の横顔を見つめると、室井の視線に気付いたのかまた青島が振り返った。
「室井さん?」
室井は気付かれない程度に呼吸を整えた。
これまた室井にとって都合がよすぎることかもしれない。
だが、決して下心があってのことではなかった。
純粋に青島のことが心配だったからだ。
青島のことだから、忙しさを理由にして、碌に調べもしないで適当な物件を見つけてきて引っ越してしまいそうだった。
彼の生活サイクルで、たったの一カ月の間に不動産を巡り、内見して部屋を選ぶ余裕があるとも思えなかった。
それくらいならいっそ、時間をかけられる状況を作った方がいいのではないだろうか。
彼が困っているのなら手助けをしたい、その思い自体に偽りはなかったが、自分にとってのメリットも誤魔化す気はない。
例え限られた時間でも、傍にいてくれたら嬉しいと思う。
それが彼の助けになるのなら、そういう選択肢があってもいいのかもしれないと思えた。
「俺のところに来るか?」
目を見開いた青島を見ながら、プロポーズみたいな台詞だなと他人事のように思った。
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