12月30日。
畳の乾拭きを終えると、大体大掃除は終了だった。
大掃除と言っても部屋は狭いし、物も少ない。
埃を取ったり、多少の不要物を処分したぐらいで、あまりやることもなかった。
拭き掃除に使った雑巾を片付けて大掃除を終えると、室井は一服するためにお茶を淹れた。
窓際に腰を下ろすと、師走の風が冷たかった。
埃が舞うからと、窓を少し開けていた。
煙草を吸って一息吐くと、湾岸荘が酷く静かなことに気付く。
住人の多くは仕事納めを待ち、実家や家族の元に帰っていた。
今、湾岸荘に残っているのは、室井の他に、家族が近くに住む和久と真下、それから青島だけだった。
和久は今夜から娘の家に泊まりに行き、真下も明日には実家に帰るという。
つまり、明日からは青島と二人きりだと言うことだ。
いや、同じ屋根の下に二人きりとはいえ、部屋は離れているし今までと何が違うわけではない。
それでも、自分の決断に浅ましい感情がなかったとは言い切れなかった。
例年の年末年始であれば、特別な用事がなければ秋田の実家に帰省していたが、今年は帰省を取り止めた。
秋田に帰っても青島がいないからだ。
幸いなことに、青島も年末年始を湾岸荘で過ごすと聞いていた。
年末年始を青島と迎えることができる。
室井は帰省の計画を立てなくて良かったと思った。
夕方になり、少し早めに銭湯に行き、夕飯の材料を買って帰宅した。
玄関で、これから出かけるらしい和久とそれを見送っている青島に会った。
二人が「おかえり」と出迎えてくれるから、室井も挨拶をして玄関に入った。
「これから娘さんのところですか」
尋ねたら、和久が照れくさそうに笑った。
「面倒くせえが、孫が泊まりに来いって言うからよ」
お年玉目当てだろうと笑うが、どこか嬉しそうだった。
「年末年始で飲み過ぎないでくださいよ」
笑って釘をさす青島に煩わしそうに手をふり、和久は靴を履いた。
「おめぇこそ、寝てばかりいるんじゃないよ」
「分かってますって」
「こいつのこと頼むな、室井さん」
和久がそう言うから、室井は内心で焦りつつ頷いた。
和久に他意などあるわけがない。
青島はといえば、不服そうに唇を尖らせていた。
「一人で留守番くらいできますよ」
管理人のくせに留守番というのもおかしいが、拗ねた口調は可愛かった。
良いお年をと笑って挨拶を交わして、和久は湾岸荘を出て行った。
玄関に二人きりになる。
室井がちらりと視線を向けるのと、青島が室井を見るのが同時だった。
「買い物行ってたんすか?」
「ああ、風呂に行ったついでにな」
「夕飯決まっちゃってます?」
どういう意味かと首を傾げる室井に、青島が続けた。
「真下と忘年会やろうって言ってるんですけど、室井さんもどうかと思って」
まあ三人で忘年会もないんだけど、と呟く。
ただ単に食事をするだけなのだろう。
「俺もいいのか」
「是非」
青島が笑うから、室井は頷いて参加の意思を伝えた。
では後ほどと約束して、青島と別れる。
階段を上る前に、なんとなく振り返った。
意味はない。
ただ青島の姿を目が追いたがっただけだ。
青島は自室の前に立ち、室井を見ていた。
室井が振り返ったことに驚いたようだったが、室井だって驚いた。
青島が室井を見送っているとは思いもしなかった。
青島が慌てたように笑みを作り、手を振って寄越した。
室井もそれに片手で応えて、逃げるように二階に上がった。
室井は気付いていないが、それと同時に青島も急いで部屋に引っ込んでいた。
クリスマス以降、青島との間が少しおかしかった。
青島と二人でいると、時々空気が緊張するのが分かる。
ぶつかる視線が揺れて、交わす言葉が乱れる。
惚れた相手に対して平常心が保てなくなることは別におかしなことではない。
だが、緊張しているのが室井だけなら分かるが、青島までもが不自然に動揺しているように思えた。
まさかと一瞬だけ考えて、そんなわけがないとすぐに思いなおした。
青島が室井を意識しているなどと思い上がるのは、室井が青島に惚れているからだ。
邪な考えがあるから、青島の態度を穿った見方で見てしまうのだ。
室井は自身を戒めるように、胸中で自省した。
男同志だ、有り得ない。
そう思い込む室井は、室井が青島に惚れる可能性程度には、逆の可能性もあることに、まだ思い至っていなかった。
「男ばっかりで寂しいですねえ」
鍋を囲みつつ、真下がぼやく。
青島が「お前が寂しいのは、雪乃さんがいないからでしょ」と突っ込むが、室井もその通りだろうなと思った。
言われてみれば彼女たちのいない湾岸荘は華やかさに欠けるが、そもそも湾岸荘には女性が二人しかいない。
男子含有率の方が高いのだ。
男三人で食事をすることも特に珍しくなかった。
雪乃もすみれも、三が日は実家で過ごすと言っていたから、戻って来るのは5日後だ。
真下が寂しがるはずである。
「お前はいつまで実家にいるんだよ」
「僕も三が日は実家にいますよ」
「あ、そ。和久さんもそう言ってたな」
「じゃあ、しばらく青島さんと室井さんだけですね」
室井のグラスを持つ手に力がこもるが、その程度の動揺は誰にも伝わらなかったようだ。
「良かったですね、青島さん」
真下に言われた青島が目を見開いた。
酷く驚いた様子の青島に、室井は少し不安になった。
そう言われるのが意外なほど、室井と二人で迎える年末年始に不満があるのだろうかと思った。
「ほら、去年は一人で寂しいからさっさと戻って来いって、ぼやいてたでしょ」
真下に言われて、青島が思い出したように笑みを浮かべた。
「あー…そうね、去年は一人で年越ししたからね」
全員帰省してしまい寂しかった青島は、実家が近い真下に早く帰って来いとねだっていたらしい。
「今年は一人じゃなくて良かったですね」
真下に言われた青島は、今度は笑顔で頷いた。
「本当だよ、室井さんが残ってくれて良かった」
その言葉は室井に気を遣い無理して言ってくれているようにも見えず、室井はひとまず安心した。
青島が室井に苦笑して見せる。
「一人でこのアパートで新年迎えるの、ちょっと寂しいんですよ」
「確かに広いし、普段は騒がしいからな」
「そうそう。テレビの中は華やかなのに、俺一人で蕎麦すすってると悲しくなっちゃって」
「青島さんもハワイに遊びに行けば良かったのに」
「軽々しく言うなよ、お坊っちゃんはこれだから」
憤慨して見せる青島に苦笑した真下は、室井に矛先をかえた。
「室井さんは秋田に帰らなくて良かったんですか?」
「今年は夏に帰省したから、正月はやめたんだ」
聞かれるかもしれないと思い用意してあった言い訳だった。
夏休み中に実家に帰省したのは事実だが、年末年始を湾岸荘で過ごすことを選んだ理由ではなかった。
だが、青島も真下も疑いはしなかった。
「国内も、年末年始は旅費が高いですもんね」
「室井さんはお金ないわけじゃないでしょう、青島さんと違って」
「失敬な。俺だってないわけじゃないよ。ハワイに行くほどないってだけで」
「やっぱり無いんじゃないですか」
室井は苦笑しながら、わいわい言い合っている二人の話を聞いていた。
夜が更け、二日酔いでは実家に帰れないという真下が腰をあげたのを潮に、解散することになった。
真下の父は、調子がよく適当な真下とは対照的に、生真面目でそれなりに厳格らしい。
だが、可愛がられてもいるようで、入居の時には管理人の青島に丁寧に頭を下げていったという。
何となく憎めない性格をみる限り、愛されて育ったというのは分からなくも無かった。
三人で食堂の後片付けをして、真下がおやすみなさいと先に部屋に引き上げて行くと、二人も部屋に戻ることにした。
青島の部屋の前で別れる。
別れる前に、室井は勇気を出して誘ってみた。
「明日の夜、一緒に蕎麦でも食べないか」
何となく年越しは一緒に出来るのではないかと思ったが、ちゃんと約束しておきたかった。
青島が嬉しげな笑みを見せた。
「俺も誘おうと思ってました」
「そっか」
「一緒に紅白見ましょうよ」
室井は小さく笑って頷いた。
一緒に年を越せる。
だからどうしたというわけではないが、そんなことが酷く嬉しかった。
「蕎麦と酒は用意しておく」
「あ、じゃあ、なんかつまみ用意しときますね」
そんな約束を交わして、おやすみと告げて別れる。
階段を行きかけて、ふと足を止めた。
ある種の予感を持って振り返れば、青島が室井を見上げていた。
目が合い、慌てた笑みを浮かべる青島に、室井も引きつった。
ぶんぶんと手をふり、青島が逃げるように部屋に入った。
室井は変な動悸を覚えた胸を押さえつつ、青島の不自然な態度に首を傾げながら自室に戻った。
青島の態度に違和感を覚えるようになったのは、クリスマスに彼の屈託の理由を聞いてからだ。
それまでも、物思いに耽る青島を見かけて悩みごとでもあるのかと心配したものだったが、その悩みは解消されたはずだった。
嬉しいことに、青島は室井が湾岸荘を出て行くと思い込み、悲しんでくれていたらしい。
そうではないと話せば、青島は喜んでくれていた。
青島の屈託が自分のことであったことは申し訳なくも嬉しかったが、その屈託ならとっくに晴れたことになる。
だが、その後の青島の態度も不自然といえば不自然だった。
同じように、自身の態度も青島の目には不自然に映っているかもしれない。
妙な緊張感や、焦燥感を覚えているのが、室井だけとは思えなかった。
部屋に戻った室井は、この空気の理由を探ってみてもいいのだろうかと、しばし悩んでいた。
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