「あっ…あち、あちち…」
気付けば、いつの間にか煙草が大分灰に変わっており、火種が指に触れていた。
青島は慌てて煙草を灰皿に捨て、揉み消した。
「なにしてんのよ」
冷蔵庫を開けて獲物を物色していたすみれが、換気扇の下で一人慌てている青島を見て、呆れた顔をしていた。
「はは、ちょっとぼんやりしてた」
「やめてよ、煙草吸いながらぼんやりするの」
寝煙草で火事とか嫌だからねと言われて、青島は肩を竦めた。
そんなことは青島だってごめんである。
木造のボロアパートである、良く燃えるだろう。
「気をつけます」
すみれは冷蔵庫の奥からチョコレートを引っ張りだし扉を閉めた。
「すみれさん、そのチョコいつの?大丈夫?」
「平気よ、多分」
いつから冷蔵庫に入っていたのか分からないチョコレートだが、すみれなら大丈夫な気もした。
大食いなだけあって、胃腸は丈夫な人だった。
「じゃあ、コーヒー淹れますか」
「青島君、私エスプレッソがいい」
「はいはい」
この秋に、エスプレッソマシーンを購入して食堂に置いてあった。
豆は飲みたい人が勝手に買ってくることになっている。
コーヒー好きな青島が自分のために買っただけだが、住人たちは結構活用しているようだった。
すみれにカップを渡してソファに座ると、すみれがチョコレートを差し出してきた。
なんだか怖いし、そもそもチョコレートはそんなに好きではないので、丁重にお断りすると、すみれが肩を竦めた。
「大丈夫なのに」
「すみれさん全部食べていいよ」
「そう?じゃあ、遠慮なく」
エスプレッソ片手にチョコレートを食べるすみれは幸せそうだ。
青島はカップに口をつけ、ふと湧いた疑問を口にした。
「すみれさんが一番幸せな時って、何してる時?」
「美味しいもの食べてる時」
即答されて、青島は笑ってしまった。
妙齢の女性としてはどうなんだと思う回答だが、人間の三大欲求の一つが食欲なのだから人間らしいといえば人間らしい。
しかも、一日三食は食事をするわけだから、少なくとも一日に三度は幸せになれるチャンスがあるわけだ。
豊かな人生と言えなくもない。
「まあ、俺も食ってる時は幸せだけどね」
「人の奢りだともっといいわね」
うふっと可愛く笑うすみれには、苦笑するしかない。
「すみれさん、彼氏作ればいいのに」
「奢ってくれるような金持ちに心当たりでもあるの?」
「ないけどさ」
呆れ顔の青島にも、すみれは涼しい顔だった。
だが、すみれが交際相手にたかるような真似をするとは、実は思えない。
弱味を見せるのが嫌いな人で、男に上手に甘えるすみれは想像が出来なかった。
親しい青島たちにはわがままを言ってみせることもあるが、それで困らせられることもあまり無かった。
「すみれさん可愛いんだし、勿体ないなと思っただけだよ」
食以外にも幸せな瞬間はたくさんあるだろう。
もちろん人生においてそれが全てではないが、愛しい人と過ごす時間もその一つではないかと思った。
カップを抱えたすみれが、青島を上目遣いで見つめた。
「それはもしかして、口説いてんのかしら」
「貧乏人だけど、愛してくれる?」
「ごめんなさい、父の遺言でアパートの管理人の嫁にだけはなるなって言われてるの」
「お父さん、お元気でしょ。縁起悪いよ」
「こりゃ、失敬」
くだらない話しで笑いあう。
すみれとは気が合うし大好きな人だったが、どうしたことか恋愛感情は生まれなかった。
だが、すみれには幸せになってもらいたいと思っているし、守ってやりたいとも思っていた。
「最近は変わったことない?」
なるべくさらりと尋ねてみた。
すみれは澄ました表情を変えずに「ええ」と頷いたが、青島が彼女の顔色に不審な点がないかを探るようにじっと見つめていると、小さな笑みを浮かべた。
「大丈夫だったら」
本当に何事もないようで、青島も安心した。
「そ、ならいいや」
すみれは過去にストーカー被害にあったことがあった。
湾岸荘に入居して間もなくの頃。
仕事で遅くなったすみれが真っ青な顔で湾岸荘に帰ってきたのをたまたま目撃した青島が、彼らしいお節介を発揮してすみれを問い質し、ストーカーに付け回されていることを白状させた。
青島はすぐに警察に通報したが、警察は事件にならないと中々動かないと聞いていた。
ならばと、草壁や真下の手を借りてすみれに付きまとうストーカーを割り出し、はったりと法律を武器に徹底的に脅しをかけることでストーカーを撃退していた。
ストーカーは多分すみれをヤクザの愛人かなにかと勘違いしているだろう。
もちろんヤクザは草壁だ。
それからぴたりとストーカー被害はなくなったようだが、しばらくの間はすみれは遅くに一人で出歩くことを避けていたし、青島も出来るだけ彼女を一人にしないように気をつけた。
最近になって、すみれもあまり気にしないようになったようだが、それでも青島は時々彼女の身辺が気になった。
「私のことより、青島君はどうなのよ」
すみれがそう言ってカップを置いた。
「俺?」
「最近、なんかぼんやりしてること多いでしょ」
何かあった?と聞かれて、青島は苦笑した。
ついさっきの失態ばかりではない青島の不調を、すみれは感じていたようだった。
だが、彼女に相談できることは何も無かった。
「そう?そんなことないけど」
「嘘」
「本当だって、何もないってば」
「そういえば、寿司屋の娘さんとはどうなったのよ」
思い出したようにすみれが言った。
「ああ…何もなってないよ、あれから寿司屋にも行ってないし」
何となく行き辛くて、彼女とデートしてからは一度も寿司屋に行っていなかった。
決して彼女が嫌いなわけではないが、一度のデートで彼女に好意を寄せられていることには気付いていた。
応えられもしないのに、のこのこ顔を出せなかった。
「まあ、青島君が寿司屋の大将っていうのも似合わないわね」
青島が乗り気ではないことに気付いているすみれが笑って茶化してくれたから、青島も笑っておいた。
「それに彼女はともかく、舅はあのおやっさんだよ?」
「それは確かにちょっと躊躇うわね」
「でしょ?」
「でも残念だわ。青島君が寿司屋を継いだら、ただでお寿司が食べられると思ったのに」
「冗談じゃないよ、そんな理由で寿司屋潰したらおやっさんに殺される」
「他にいい人いないわけ?」
唐突にすみれが話題を戻した。
「いれば、イブにクリスマスパーティなんか企画しないよ」
青島はイブに湾岸荘の食堂でクリスマスパーティをするつもりだった。
青島を筆頭に予定のない住人が多かったからだ。
出欠を取っているわけではないが、予定がなければ大体の人が参加してくれる。
例年そんな感じだった。
「今年も寂しいクリスマスだわ」
すみれが溜息混じりに呟くから、青島は肩を竦めた。
「全くだね。まあ、余りもの同士楽しくやりましょ」
「仕方ないから、今年も青島君や真下君で我慢するかー」
すみれが空いたカップを手に立ち上がった。
気付けば、チョコレートはすっかりすみれの胃の中だった。
カップを片付けて引き上げようとしているすみれに気付き、青島はその手からカップを取り上げた。
「いいよ、ついでに片付けるから」
「そ?ありがと」
すみれは礼を言って食堂を出て行きかけたが、足を止めて青島を振り返った。
「悩みあるなら、話しくらい聞くけど」
すみれらしいぶっきらぼうな気遣いだった。
一人で悩むとろくなことないわよと言うすみれに、青島はつい笑ってしまった。
照れくさくて、中々素直に心配だと言えない人だった。
「有料なんでしょ?」
青島がふざけると、すみれはニッコリ笑った。
「安くしとくから」
「はいはい」
青島は笑いながら手を振った。
「ありがとう、すみれさん」
すみれは小さく頷くと、それ以上は聞かずに食堂を出て行った。
青島の様子が普段と違うことに疑問はあるのだろうが、あまり踏み込んでこないのが彼女らしかった。
だが、青島が相談すれば、きっと親身になってくれるだろう。
そうは思うが、すみれには到底打ち明けられなかった。
室井に惚れてしまったことなど、すみれに限らず誰にも打ち明けられなかった。
すみれと別れた青島はコートを羽織り、煙草を手に外に出た。
師走の夜の風は冷たかったが、今の青島には気持ちが良かった。
一人ぼうっとしていると気分が沈み鬱々としてしまう。
張り詰めた冷気に触れるだけで、少しは気分が変わった。
ちらりと二階を見上げれば、室井の部屋の窓にカーテンから漏れた灯が見えた。
そこにいるのだなと当たり前のことを思って、背を向けた。
夜空に向かって煙を吐きながらも、青島は夜空など見てはいなかった。
あれから、室井からは何も話が無かった。
引っ越すことが決まれば、青島に話さないわけがない。
青島が湾岸荘の管理人だからだ。
管理人に話を持ってこないということは、まだ引っ越しが決まっていないのかもしれない。
だが、彼女と部屋を探しているということは、近いうちにその日は来るだろう。
その日が来るのが怖かった。
室井が出て行ってしまう。
もう二度と会えないというわけではないだろうが、今のように気安く顔が見られて言葉が交わせるようなことはもうなくなる。
それは寂しかったが、もし室井が結婚でもするのであれば、もう会わない方がいいのかもしれないと思った。
青島の想いは決して成就することはなく、彼女と幸せに生きる室井を傍で見続けることは、きっとかなりの苦痛を伴う。
仮に彼女と一緒に湾岸荘に止まってくれたとしても、彼女を慈しむ室井を平気で眺めていられる自信は今のところ無かった。
室井の転居は、青島にとっても都合がいいのかもしれない。
ただ、会えなくなることだけは、どうしようもなく寂しかった。
「寒くないのか?」
不意に頭上から声がかかった。
見上げれば、室井が自室の窓から青島を見下ろしていた。
物思いの相手に見下ろされて、青島は笑顔を作った。
「コート着てますから」
咥え煙草でモスグリーンのコートの襟首を合わせる。
何年も前に買ったコートだがお気に入りで、毎年寒くなると愛用していた。
「部屋で吸ったらどうだ」
コートまで着て外で煙草を吸っている青島がおかしかったのか、室井は苦笑していた。
「気持ちいいですよ、空がきれいだし」
見てもいなかったが、改めて見上げてみれば天気がいいのか星が良く見えた。
室井がちらりと空を見上げ、また青島を見下ろした。
「部屋からでも見られるぞ」
「まあ、そうなんですけどね。気持ちいいですよ」
「それはいいが、風邪ひくなよ」
「はーい」
室井の気遣いに青島が良い返事を返すと、会話が途切れた。
すぐに窓を閉めない室井が会話を探してくれているように感じた。
もう少し話したいと思ってくれているのだろうか。
青島だって、もう少しと思う。
できることならずっと。
だけど、そうはいかない。
室井とこんなふうに言葉を交わせるのは、きっと後少しだ。
そう思うと、堪らなかった。
「室井さん」
無意識に、室井を呼んだ。
引き止めるような思いだったが、室井は引き止めるまでもなく確かにそこにいた。
今はまだ、ここにいる。
「どうした?」
問い返されて、青島は思い切って口を開いた。
湾岸荘を出て行っちゃうんですか。
聞きたいし、知りたいのに、聞きたくないし、知りたくない。
相反する思いなのに、それはどちらも確かに青島の本心だった。
そんな本心が口から素直に出て来るわけもない。
「クリスマスにパーティするんです」
咄嗟に青島が言葉にできたのは、それだけだった。
室井は少し面食らったようだった。
「そうか」
「イブなんですけど、室井さんもヒマだったら…」
言いかけて、青島は言葉を飲んだ。
恋人のいる室井がクリスマスにヒマなわけが無かった。
自分の首を絞めるようなことを口にした己を内心で笑ったが、室井は意外なことに頷いた。
「参加させてもらおう」
青島は目を瞠った。
「え、ええと、クリスマスイブですよ?」
「分かってる、生憎と特別な用事がない」
苦笑した室井に、青島は拍子抜けした。
室井はイブに予定がないらしい。
その日には彼女と会えないのだろうか。
会えるのであれば、いくら唐変朴な室井でも、折角のイブなのだから彼女とデートくらいするだろう。
室井に予定がなく湾岸荘のクリスマスパーティに出席するということは、彼女の都合が悪いのかもしれない。
「青島?」
惚けていた青島を見下ろし、室井が首を傾げていた。
青島は慌てて笑みを浮かべた。
「そうっすか。じゃあ寂しいもの同士、クリスマスは一緒に過ごしましょうね」
青島の誘いに、室井は少し躊躇ってから頷いた。
本当は恋人がいることを青島に黙っていることに気が引けたのかもしれないと思い、青島は少し暗い気持ちになった。
実際の室井は、青島とクリスマスを過ごせることに浮かれる自身を胸中で戒めていただけだったりするのだが、青島はもちろん全く気付いていなかった。
今の青島に、室井とクリスマスを過ごせることを喜ぶ余裕はなかった。
いつまでいてくれるのだろうかと、そればかりが気になった。
だけど、どうしても聞けなかった。
「さて、そろそろ部屋に帰ろうかな」
青島は携帯用灰皿に煙草を捨てると、室井を見上げた。
「おやすみなさい、室井さん」
「…青島、ちょっと待ってくれ」
「はい?」
呼びとめられ、見上げたまま待っていると、室井の姿が窓から消えた。
少しして戻った室井が窓から手を差し出した。
手には何かの袋を提げていた。
「投げるぞ」
「え…え?わ、わあ」
本当に室井が手を離すから、慌てて腕を伸ばして、なんとかそれを受け取った。
可愛らしいリボンが掛った紙袋だった。
意味が分からず室井と紙袋を交互に見比べた青島に、室井が酷く気まずそうに言った。
「誕生日だと聞いた」
「あ…」
「おめでとう」
ぶっきらぼうに告げられた言葉に青島は少しの間呆けていたが、手の中の紙袋を見つめ室井を見上げた。
嬉しくて綻ぶ顔は決して作ったものではなかった。
「ありがとう、室井さん」
「いや…」
「俺の誕生日、明日なんですけどね」
青島が付け足すと、室井が目を剥いた。
今日は12月12日で、青島の誕生日は明日だった。
「…真下君に今日だと聞いたのだが」
真下との世間話で誤った情報を仕入れてしまったらしい室井は、眉を寄せバツが悪そうに佇んでいたが、一日ずれていたことなどどうでも良いことだった。
室井が青島の誕生日を祝ってくれている。
手の中のプレゼントは、室井の好意に他ならない。
嬉しくて嬉しくて堪らないのに、同じだけ切なくて胸が痛い。
目の奥がどうしようもなく熱くて、青島は俯きキツク目を閉じた。
次に顔をあげた時には、はっきりと笑顔だった。
「ありがとう、室井さん!」
繰り返し、受け取った紙袋を揺すって見せた。
青島の喜びが伝わったのか、室井の表情が安心したように和らいだ。
もう一度おめでとうと告げてくれる口元には、小さな笑みがあった。
その顔を見て、やっぱり好きだと思った。
思ったところでどうしようもない。
せめて室井が好意を寄せるに値する存在で居続けたい。
今はそう思った。
手を振り玄関に消える青島を、室井が愛しげに眺めていたことなど、青島は知らない。
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