電車を降りて改札を出た青島は、大きく伸びをした。
久しぶりに買い物に出かけて、洋服を新調し腕時計を一本衝動買いして帰って来たところだった。
腕が二本しかないのにそんなに集めてどうするんだと和久には呆れられている趣味だったが、青島は腕時計を集めるのが好きだった。
湾岸荘の管理人という仕事についているだけあって、青島は一年のほとんどを湾岸荘で過ごしている。
刺激が多いとはいえない毎日だが、変化に乏しい日々を不満に思うことはないし、乏しいなりに変化がないわけでもない。
毎日を楽しく過ごせるかどうかは自分次第である。
つまらないなら、自分で楽しくしてしまえばいいのだ。
青島は毎日をそう思って生きている。
腕時計収集も小さなことではあるが、青島の人生を豊かにする一つのステータスである。
それがどんなに小さな変化でも、昨日と同じ今日ではないのだという証でもある。
そんな思いが心にあるのは事実だが、増えていく腕時計をただ眺めるのも好きだったりするから、単純に物欲が満たされているのかもしれない。
とにかく、新しく気に入った腕時計を買えて、青島は気分よく帰ってきていた。
電車に乗るのも、そういえば久しぶりだった。
混んだ電車に乗ると、たった二駅の通勤電車に文句をつけるすみれの気持ちが分からなくなかった。
働くって大変だと他人事のように思いながら、青島は歩き出した。
スーパーでも寄って帰ろうかと考える。
料理が得意なわけではないが一応自炊はしている。
頭の中で冷蔵庫の中身を思い出しながら、夕飯は何にしようかと考える。
考えながら駅を出たが、出てすぐのところで足を止めた。
室井の姿を見つけたからだ。
声はかけられない。
室井は青島の知らない女性と一緒だった。
小柄で可愛らしい女性で、室井よりも随分と歳若く見えた。
恋人だろうかと思って、青島は驚いた。
室井に恋人がいたっておかしくはないが、本人からはいないと聞いていた。
もしかしたら、最近出来た恋人なのだろうか。
いや、恋人かどうかはまだ分からない。
女性と一緒にいたからといって、相手が恋人とは限らない。
そう自分に言い聞かせて、言い聞かせている自分に益々驚く。
仮に室井に恋人がいたとしても、青島が動揺するようなことではない。
どちらかといえばめでたいことであり、図々しく友人を気取らせてもらうなら喜ぶべきことだった。
なのに、何故かちっともそんな気持ちが湧いてこない。
そんな自分に困惑しているうちに、室井と女性は店に入って行った。
その店が不動産屋だったから、青島の驚きは先ほどの比ではなかった。
それは、大きな衝撃だった。
気が付いたら、湾岸荘の前にいた。
ぼんやりとしたままでも、自宅には帰って来られるものらしい。
事故に遭わなくて良かったなと、青島は他人事みたいに思いながら、真っ直ぐ自室に引っ込んだ。
買ってきた衣類を袋毎テーブルにおき、コートも脱いで丸めて畳に放った。
新しく増えたコレクションにも、今は興味が湧かなかった。
冷蔵庫から缶コーヒーを取り出して、灰皿片手に窓際に腰を下ろす。
薄く窓を開けて煙草を咥えた。
いつもなら美味いはずの一服が、どうしたことかあまり味を感じなかった。
それほどショックだったのかと、自分のことなのに今更気が付いた。
室井が女性と不動産屋に入るところしか青島は見ていない。
中の様子など窺えないし、いつまでも駅前に突っ立っているわけにも行かず、早々にその場を離れた。
室井がどうしたのかは分からないが、不動産屋ですることなど一つしかない。
家探しだ。
室井が引っ越しを考えているということだろう。
そう思うと、胸が苦しくなった。
室井の生活水準では湾岸荘に住む理由がないことは分かっている。
それでも、室井が湾岸荘を気に入っていると言ってくれていたから、青島はそれを信じていた。
嘘やお愛想が得意な人ではない。
気に入ったというからには、気に入ってくれているのは事実だろう。
また、無理をしてまで湾岸荘に住むはずもない。
だから、最初は手違いで湾岸荘に見学に訪れたのだとしても、室井の意思で湾岸荘に住んでいてくれたはずだった。
だが、室井は家を探している。
彼女が出来たからか。
彼女と一緒に暮らすことになったのかもしれない。
確かに、湾岸荘は二人暮らしには向かないだろうし、彼女が嫌がるだろう。
だから室井は湾岸荘から出て行くのか。
青島は深く煙を吸った。
ゆっくり吐き出すが、それで心のモヤモヤがすっきりするようなことはなかった。
もう一度煙草を咥え、今度は溜め息と一緒に煙を吐き出し、目を伏せた。
仕方のないことだ。
元々、室井が住むようなアパートではない。
引っ越したくなっても無理はないのだ。
そう思うのに、心が何かを割り切れない。
いなくなることが寂しいからか。
それは当然だ。
青島は室井のことが好きだった。
無愛想だし無口だが、愛想がない分誠実で、言葉が少ないわりに心は優しい人だ。
いつも眉間に皺を寄せているくせに、懐っこい青島が馴れ馴れしく近付いても特に嫌がることもなく、良く相手をしてくれた。
青島は室井といると楽しかったし、出来ることなら末長く湾岸荘にいてもらいたかった。
だが、それは青島の都合に過ぎない。
どこで暮らそうと、室井の自由だった。
恋人がいるなら尚更だ。
湾岸荘を出て、二人で暮らす部屋に引っ越すのだろう。
青島はいつの間にか眉をひそめ、煙を吐き出していた。
「室井さん、出て行っちゃうのか…」
ぽつりと呟いた声は、低くて重かった。
仕方のないことだ。
何度もそう思うのに、何かが酷く不愉快で何故か不安だった。
ぼんやりしていた青島の視界に、湾岸荘に戻ってくる室井の姿が見えた。
いつの間にか辺りは暗くなっており、手元の灰皿が山になっていた。
手つかずの缶コーヒーが温くなってそこにあった。
煙草の煙で窓が開いていることに気付いたのか、室井はまっすぐ玄関には向かわず青島の方に近付いてきた。
窓の傍で立ち止まり、青島を見下ろして怪訝そうな顔をしている。
「何をしてるんだ?」
ごもっともな質問だった。
日も暮れたというのに電気も点けずに薄暗い部屋の中で煙草を吸っていれば、怪しまれて当然だった。
「一服してただけですよ」
他に良い言い訳も思いつかなかったら、青島はそう言って笑って誤魔化した。
室井は「そうか」と呟いたが、腑に落ちなかったのか曖昧に頷いた。
「電気くらい点けたらどうだ」
「あ、そうっすね。忘れてました」
「いつからそうしてる?」
「えーと…それも忘れました」
「…何かあったんじゃないのか?」
青島に違和感を覚えているのか室井が心配してくれるが、まさか室井さんが出ていっちゃうからと言うわけにもいかない。
そもそもそれが理由で、何故自分がこれほど落ち込んでいるのか分からないのだ。
出て行くことは、仕方のないことだ。
二度と会えないことが嫌なのであれば、出て行ってからも連絡をとればいいだけのことだ。
もちろん室井が迷惑だと言えばそういうわけにはいかないが、室井のことだからそうは言わない気がした。
青島が誘う酒や食事を、室井が嫌々受けていたとは思っていなかった。
室井から誘ってくれたこともある。
二度と会いたくないと思われているとは思えなかった。
それなら、室井が湾岸荘から出て行った後でも、室井と会うことはできるだろう。
それで十分ではないかと思う。
今までのように頻繁に顔を合わせることはできなくなるが、友人という関係を築くことが可能なら、それでいいではないか。
そう思うのに、やっぱり何かが納得できない。
「青島?」
物思いに耽っていた青島は、室井の声で再び現実に戻った。
室井が眉を顰めて青島を見ていた。
心配されていることが分かる。
青島はとにかく笑みを作った。
すみれに八方美人だと罵られることもある青島は、愛想笑いが得意だった。
「いや、なんでもないですって。久しぶりに外出して、ちょっと疲れただけです」
買い物に出かけてて、とテーブルに投げ出してあった袋から小さな箱を取り出した。
中身は衝動買いした腕時計で、室井の目の前に翳して、無意味に自慢する。
「腕時計買っちゃった。カッコイイでしょ?」
眉を顰めた室井が誤魔化されてくれたようには思えず、愛想笑いがあまり効果的ではなかったことに気が付いたが、青島にはどうすることもできなかった。
心配してくれている室井に打ち明けられるような話が、今は何も無かった。
青島は笑って誤魔化したまま、していた腕時計を外して、室井に自慢したばかりの腕時計をはめた。
「似合いますか?」
「俺が君に約束したこと、覚えてるか?」
言葉が重なり、青島は作った笑みのまま固まった。
「何かあれば、いの一番に君に話すと約束したな」
「…ええ、でしたね」
じっと室井に見つめられ、青島は愛想笑いを引っ込めると、視線を落とした。
だから君もそうしろ、と言われている気がした。
青島がそうであったように、室井も青島の力になりたいと思ってくれているということだろう。
それなら、嬉しく思う。
室井に相談してくれと迫ったくせに、自分自身は室井に相談したくないなどと思っているわけではないのだ。
ただ、今の青島の屈託は、室井が湾岸荘から出て行ってしまうことにある。
さすがに本人に打ち明けられなかった。
視線を落とし押し黙った青島の頭に何かが触れた。
「話し辛いことなら今でなくてもいい」
ポンポンと軽く弾んだそれが、室井の手だと気が付いた。
「覚えておいてくれ」
それだけ言うと、室井の手が離れた。
土を踏む音がして目を上げると、窓から離れて行く室井の後姿が見えた。
何がとは言わなかったが、同じことを願った青島に室井の気持ちが伝わらないわけがない。
きっと力になるから、俺がいるから、そういうことだ。
青島は無意識にシャツの胸元を握りしめた。
胸が痛くて息苦しい。
ひたすら灰に姿を変える煙草の煙で咳き込むが、そのせいではなかった。
咳の音が聞こえたのか、室井が振り返った。
青島が平気だというふうに手を振って見せると、微かに室井が笑ったのが見えた。
「似合ってる」
それだけ言って、玄関に消えていった。
腕時計のことだと気付いたのは、その後だった。
青島は煙草を灰皿に捨てて、乱暴に窓を閉めた。
咳は納まったのに息苦しいことに変わりは無く、顔が異様に熱い。
嫌だと、心の底から思った。
仕方がないことなどと、到底思えない。
室井が湾岸荘からいなくなることが我慢ならない。
ここを出て、あの可愛らしい恋人と一緒に暮らすのかと思ったら、不愉快で堪らなかった。
こんな感情は、ただの管理人が抱える感情ではない。
「…嘘だろ」
小さく呟いた青島は、乾いた唇に手を当て絶句した。
青島は室井のことが好きだった。
それが恋心だったと、初めて知った。
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