朝一で研究室に現われた一倉が、室井を見て苦笑した。
「酒臭いぞ、室井」
言われなくても、そんなことは自分でも良く分かっていた。
何より頭が割れるように痛い。
完璧な二日酔いだった。
「夕べはそんなに飲んでないだろ」
不思議そうな一倉に、室井は眉間に皺を刻んだ険しい顔でぶっきらぼうに答えた。
「帰宅してからまた飲んだんだ」
一倉と飲み、湾岸荘で青島たちと飲んで、それから部屋で酔い潰れるまでたらふく飲んでいる。
納得の二日酔いだ。
「一人で深酒したのか?珍しいな」
「放っておいてくれ」
「機嫌も悪いな、何かあったのか」
「……」
「はいはい、放っておけと言われたばかりだったな」
肩を竦めた一倉は、それ以上余計なことは言わなかった。
人の事をからかって遊ぶような人の悪いところのある男だが、空気が読めないわけではない。
読んだ上で嫌がらせしてくる時もあるから性質が悪いが、頑固な室井が頑なになれば簡単に腹を割らないことも心得ていた。
今は突っ込んでみても無理だと判断したのか、いくつかの書類を室井に押し付けると、
「自棄酒なら付き合ってやらんこともないぞ」
と言った。
「どうせ俺の奢りだろ」
「当然」
笑って片手を挙げ、一倉はとっとと出て行った。
それを見送り、受け取った書類にさらりと目を通して急ぎの仕事ではないと判断すると、書類を机に放り出し、椅子に座って背中を背もたれに預けた。
痛む頭を押えて溜め息を吐く。
一倉に打ち明けたら、あの男はどんな顔をするだろうかと、愚にも付かないことを思った。
まずは驚くだろう。
長い付き合いの友人が突然同性に惚れてしまったと知ったら、普通は驚く。
一倉のことだからあまり偏見はなさそうな気もしたが、呆れられるかもしれない。
三十代も後半に差し掛かって何を血迷ってんだと笑われそうだ。
意味もなくそんなことを考えてみたが、今のところ一倉に打ち明けてみるつもりは無かった。
仮に背中を押されても、悔い改めろと言われても、どうせ進退は決められない。
自棄酒を飲んでみたところで答えなど出るわけもなく、単なる現実逃避に過ぎなかった。
寝て起きてみれば、酒に逃げた現実は寸分違わぬ姿で目の前にあるし、昨夜と変わったことなど猛烈な二日酔いの不快感だけである。
室井がもう一度深い溜め息を吐くのと同時に、ドアがノックされた。
「どうぞ」
極力声に不調が出ないように気をつけた。
失礼しますと入ってきたのは、小原だった。
「おはようございます」
「おはよう…どうした?」
「ええと、相談があったんですが…」
言いかけて、少し首を傾げた。
「体調悪そうですが、大丈夫ですか?」
「ああ」
学生にだらしない姿は見せられない。
根性で平静を装い、椅子から立ち上がった。
「どうした?」
もう一度尋ねると、小原は曖昧に笑った。
「先生、もしかして二日酔いですか?」
「…そんなに酒臭いか」
一倉にも言われたが、傍に寄らない小原まで酒気を感じるのなら、よっぽどだろう。
室井は昨夜の自身の愚行に呆れ、反省した。
酒の匂いをさせて職場に来るとは、教員失格である。
「先生でもそんなことあるんですね」
反省する室井を余所に、小原は妙に感心したようだった。
室井のプライベートな一面を見つけた彼女が密かに喜んでいることなど、室井には知るよしもない。
「酒が過ぎたみたいだ」
不愉快だろうからあまり近付くべきではないと距離をとる室井に、小原は笑った。
「たまにはそんなこともありますよね」
楽天的な笑顔が一瞬誰かと重なり、室井は目を細めた。
姿形は似ても似つかないのに、ふとした仕草に彼を思い出したのは、室井が青島を求めてやまないからだろうか。
浅ましい自身を内心で笑い、室井は彼女から視線を離し少し下に落とした。
「相談とは?」
「あ、今日は止めておきます、急がないのでまた今度」
遠慮したのかそう言うと長居はせずに、小原は失礼しますと頭を下げて出て行った。
生徒に気を遣わせたという新たな罪悪感に、室井は何度目かの溜息を吐いた。
夕方になり仕事を終え大学を出る頃には、さすがに二日酔いから立ち直っていた。
幸いなことに、今朝は青島にも湾岸荘の住人にも会わなかったから、二日酔いの酷い顔を見られることはなく、何食わぬ顔で帰れる。
二日酔いだとばれたところで自棄酒の理由まで知られるわけではないが、後ろめたいことは出来るだけ知られたく無かった。
頭はスッキリしたが心は曇ったまま帰路につき、湾岸荘の前で足を止める。
前庭に青島の姿があった。
相変わらずの銜え煙草で、箒を握っていた。
落ち葉を掃いていたらしく、彼の足元に小さな山があった。
どこかノスタルジックな光景だが、室井にとっては見慣れた光景だった。
不意に、青島の横にきれいな女性の姿が浮かび、足元に小さな人影を見た。
もちろん室井の妄想に過ぎないが、この先そんな光景をこの場所で見ることもあるかもしれない。
室井はそんなことをぼんやりと考えていて、青島が室井に向かって手を振っていることに気が付くのが遅れた。
「おかえりなさい、室井さん」
その笑顔は、間違いなく室井に向けられたものだった。
室井は思い出したように返事をして、彼に近付いた。
「焼芋でもするのか?」
室井が聞くと、青島は笑った。
「いいっすね、何か腹減ってきちゃった」
どうやらただの掃除らしかった。
「随分葉が散ったんだな」
「今朝風が強かったから、そのせいじゃないかな」
そうだっただろうかと少し考えるが、良く思い出せなかった。
具合が悪くてそれどころではなかったのだ。
そんなことをわざわざ告げる必要もないから、室井はそうだなと頷いておいた。
会話が途切れる。
別れがたいと思ったが留まる理由はなく、理由を探す自分に嫌気がさした。
自分が酷く情けない男のように思えた。
室井は視線を落とすと、ではと短く断りアパートに足を進めた。
「室井さん」
青島に呼び止められ、振り返った。
青島は室井を見つめて、少し困った顔をした。
呼び止めたくせに言葉を探しているように見えた。
「どうかしたのか?」
「あの、元気ですか?」
遠慮がちに聞かれて、室井は首を傾げた。
久しぶりに会った人に対するような質問だと思った。
青島とは今朝顔を合わさなかっただけで、昨夜も会っている。
その室井に対してするには、変な質問だった。
青島もそう思っているのか、苦笑した。
「いや…室井さんが、なんか元気ない気がして」
気遣わしい視線を向けられて驚いた。
普通にしていたつもりだったが、顔に出るほど今の自分は落ち込んでいるのだろうかと思った。
告白もせずに勝手に失恋した気分になり、そんな自分を嫌悪しているのだから、そうなのかもしれない。
「あの、なんかありました?」
黙り込んだ室井に、青島が問う。
「いや…」
「でも、夕べからなんか元気ないですよね?」
室井の眉間の皺が深くなった。
夕べから気付かれていたことには驚いたが、物思いの相手に気遣われてしまった気まずさが先に立つ。
まさか八つ当たりして君のせいだなどと、言うわけにもいかない。
また黙ってしまった室井に、青島が慌てて愛想笑いを作った。
「すいません、俺には関係ないんすけどね、どうもお節介で」
いつの間にか掌に爪が食い込んでいた。
関係ないなどと、言わないで欲しかった。
そんなことすら言葉に出来ない。
「でもね、ほら、口に出すだけで楽になることもあるでしょ?」
鬱々とする室井とは対照的に青島は明るく笑った。
その笑みはきっと、室井の気持ちを楽にするためだけに向けられたものだ。
「俺で良かったら話してみませんか?何かの役に立てるかもしれませんし」
「それなら…」
無意識に手が伸びそうになる。
手を伸ばして、青島に触れたくなる。
もし好きだと言ったら受け入れてでもくれるのかと、馬鹿なことを問い質したくなる。
「室井さん…?」
じっと見つめたまま押し黙る室井に、青島は戸惑ったようだった。
それでも視線を離せずにいると、気まずいのか青島の視線が泳いだ。
「青島、俺は…」
告げるのなら今しかないと、一瞬だけ思った。
だが、それは始まりの言葉ではなく、終わりの言葉だ。
自らの手で、居心地の良い場所を失う。
それこそ、馬鹿なことだ。
泳いでいた青島の視線が、再び室井を捉える。
室井の言葉を待つ青島が緊張して見えるのは、それだけ今の室井が不自然だということだ。
いつもと違う室井の様子が、青島にも緊張を強いている。
微かに強張った青島の顔を見つめ、そんな顔が見たいわけではないと思った。
「何でもない」
結局、室井の口から出たのはそれだけだった。
「でも、室井さん」
困惑している青島に、室井は出来るだけいつもと同じ口調になるよう努めた。
「少し疲れが溜まっているだけだから、気にしないでくれ」
拒絶するような強い口調にならないよう気をつけたつもりだったが、青島にどう伝わったのかは分からなかった。
「そうですか?それならいいんだけど…」
室井は頷いて応え、それではと青島に背を向けた。
行きかけて、なんとなく振り返る。
青島が室井を見ていた。
少し寂しそうに見える青島の表情に、彼の好意を無駄にしたのだろうかと、胸が疼いた。
それでも、やっぱり言えない言葉がある。
代わりに精一杯の想いが伝わればいいと願った。
「ありがとう、青島」
少しの間の後、青島が笑顔で手を振ってくれた。
手を振り返す代わりに室井が小さく浮かべた笑みは、決して無理をしたものではなかった。
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