■ 第4章 5.決心
普段より少し遅く起きた室井は、トーストとコーヒーで軽い朝食を済ませた。
仕事で使う書籍を探しに行くくらいしか予定がなく、後は洗濯や掃除でもしようかという極普通の休日だった。
楽しいことはないが、悪いこともない。
いつもの休日だ。
相変わらず青島への想いを持て余してはいるが、考えても答えは出ないことだと一時棚上げすることにした。
彼と友人でいることに我慢できなくなる時が来る予感はあったが、顔を見ればやっぱり嫌われたくないし失いたくないと思う。
どんなに悩んでも、すぐには答えが出せそうに無かった。
ただ、成り行きに任せるのでもいいのかもしれないという気持ちにも、少しなっていた。
耐え切れずに想いを告げる時がくるかもしれないし、いつかは潔く諦めて友人として良い関係を作れるかもしれない。
いつかは青島を忘れて、他に想う人が現われないとも限らない。
そんな日が来て欲しいとは思ってもいないが、絶対に来ないとも言えないだろう。
青島と出会ったあの日、一目で彼に惹かれた。
そんな恋をしたのは、室井の人生において初めてのことであり、予期せぬことだった。
それを思えば、この先何があるかなど、分からない。
室井も青島も、どうなるか分からないのだ。
その時がきたら、なるようにしかならない。
散々悩み、悩み抜いて、室井はそう開き直ることにした。
「保留する」という選択肢も大事である。
開き直れば変な焦燥は薄れ、気持ちは大分落ち着いた。
今の青島は誰のものでもないのだ。
姿の見えない彼の未来の伴侶を想像し鬱々とすることの馬鹿馬鹿しさに、散々悩んだ末に気が付いたと言えた。
一服し終えた室井が部屋を出ると、廊下に真下の姿があった。
真下の部屋は一階にあるから、二階の誰かに用事があったのだろうが、相手など考えてみるまでもない。
雪乃の部屋の前で肩を落としている真下に、室井は逡巡したが「おはよう」と声をかけた。
無視して通り過ぎたい気もしたが、同じアパートに住む住人に挨拶もしないのは気持ちが悪い。
真下はハッと室井を振り返り、愛想笑いを浮かべた。
「おはようございます」
笑ってはいるが、その笑顔がいつになく情けない。
「…どうかしたのか?」
室井は仕方がないから問い掛けてみた。
元々社交的とは言えない性格だったが、湾岸荘に来てからというもの、他人との接触が増えている。
情けない顔の真下を無視出来なかった。
「聞いてくれますか、室井さん」
愚痴を言う相手が出来たとばかりに、真下が勢いよく語り出した。
デートに誘いに来た雪乃が不在であり、落ち込んでいたところらしい。
常日頃雪乃につれなくされてもあまり堪えているふうな真下ではないが、数日前からそれとなく打診した上での不在だったため、さすがに堪えているようだった。
「やっぱり僕の気持ちは迷惑なんでしょうか…」
悲しげに呟く真下に、室井は眉間に皺を寄せた。
俺に恋愛相談なんかして良い答えが見つかるとでも思っているのだろうかこの男は。
そう思ったが、今更聞かなかったことにはできない。
どうかしたのかと尋ねてしまったのは自分である。
責任を取って話し相手になってやるしかない。
「そんなことはないんじゃないか」
「そうですかねぇ」
室井の言葉をただの慰めと受け取ったのか、首を捻っている。
「でもはぐらかされてばっかりなんですよね…」
それは真下がちゃんと告白をしていないからではないかと思ったが、室井に言えた義理ではないのでそこには触れなかった。
「彼女の性格からして、全く脈がないならはっきりそうと言いそうだが」
物腰は柔らかいが、雪乃もすみれほどではないにしろ、言いたいことははっきり言うタイプである。
本当に真下の気持ちが迷惑なら、再三のアプローチに対してはっきり意思表示をするように思えた。
勝手な室井の見解だったがそう言ってやると、光明を得たとばかりに真下は目を輝かせた。
「そうですよね!迷惑なら迷惑って言う人ですもんね!」
そこも好き!と言い出しかねない勢いで立ち直る単純な真下に呆れつつも、目の前で落ち込まれているよりはマシだと思うことにした。
「余計な世話だが、誘うならちゃんと誘った方がいいんじゃないか」
真下が曖昧な態度だから、雪乃も応えてくれないのではないかと思った。
「そうですね、次の休暇にはちゃんとデートに誘ってみます」
真下がやる気を出すことによって雪乃に恨まれる結果にならねばいいが、と若干失礼なことを考えつつ、室井は階段に向かった。
二階にもう用事のない真下もついてくる。
「室井さんはデートの相手とかいないんですか?」
だから俺に恋愛話なんかを持ち掛けてどうすると思いつつ、室井は素っ気なく答えた。
「いない」
「それは勿体ない」
「勿体ない?」
「職場に女の子いっぱいいるでしょうに」
「…それはもしかして生徒のことを言っているのか?」
「室井さんなら生徒にもてるんじゃないですか?」
成人していれば淫行罪にも当たらないし大丈夫ですよ、と勧めて来る弁護士を室井は眉間に皺を寄せジロリと睨んだ。
「何かあったらいつでも相談に…嫌だな、冗談ですよ、冗談」
真下が慌てて愛想笑いを浮かべた。
弁護士に相談するような問題を起こす予定などあるわけがない。
「それは本当に冗談ですけど、困ったことがあればいつでも相談に乗りますからね!」
任せてくださいと薄い胸を調子良く叩いて見せて、真下は自分の部屋に帰って行った。
室井はそっと吐息を漏らし、玄関に足を向けた。
ふと気付けば、青島が部屋から出て来ていた。
「おはようございます」
ニコリと笑う青島に、室井も挨拶を返した。
「真下に何か相談事ですか?」
話が聞こえていたのか青島が問うから、室井は生徒との恋愛を勧められたことを思い出し眉を寄せつつ首を振った。
「いや、何でもない」
「そうですか?」
そう言いつつ、青島は少し心配そうな顔をしていた。
弁護士に相談するような深刻な悩みがあるのではないかと心配してくれているのかもしれないが、大きな勘違いだ。
「本当に何でもないから、気にしないでくれ」
室井が念を押すと、青島は小さく笑い頷いた。
「お出かけですか?」
「本屋に行って来ようと思ってな」
「そうですか、なら傘持って行った方がいいかも」
雨降りそうですよと言われて、室井は頷いた。
「玄関にビニール傘あるから、使ってください」
玄関の傘立てに何本かビニール傘が刺さっていた。
誰かが突然の雨にあたり外出先で買ったもので、誰が使ってもいいことになっていた。
「ありがとう」
「行ってらっしゃい、気をつけて」
手を振る青島に頷き、室井は湾岸荘を後にした。
数件の本屋を巡り、必要な書籍を揃えて湾岸荘に戻ったのは、夕方だった。
途中雨が降ったが、今はもう上がっている。
青島のおかげで雨に濡れることもなく帰宅できた。
室井が戻った時、庭先で和久が盆栽を弄っていた。
和久の趣味の一つだった。
和久は意外と多趣味だった。
盆栽の他にも、囲碁や将棋、書道に水墨画まで嗜むらしい。
一時ボウリングにもハマっていたらしいが、腰痛持ちのため断念したと聞いていた。
青島には、いい歳して気が多いのだと冗談めかしてからかわれていたが、将棋や書道の腕前は中々のものだった。
「おう、おかえり」
室井に気付いた和久が手を挙げて見せた。
室井は小さく頭を下げた。
「買い物行ってたのかい?」
室井が紙袋を提げていたせいか、どこに行っていたのか分かったようだ。
「はい、本屋に」
「そうかい」
「和久さんは盆栽の世話ですか」
「おう、こいつらは世話がかかってなあ」
そう言うが、世話をするのが楽しいのだろう。
盆栽の善し悪しなど分からない室井だが、まめに手入れをされている盆栽は立派な枝振りだと思った。
素直にそう告げると、和久は嬉しそうに笑った。
「そうかい?お前さんは見る目があるな、こいつらはな…」
盆栽について蘊蓄を語り出した和久にしまったと思ったが、もう遅い。
途中で逃げ出すわけにもいかず、大人しく和久の盆栽知識を吸収せざるを得なかった。
長い演説が終わり、満足そうに和久が言う。
「室井さんも趣味は持った方がいいぞ」
「趣味ですか…」
趣味と聞いて思い浮かぶのはきりたんぽ作りくらいだが、それも頻繁に作るわけではないし、和久のように熱く語れるほど夢中になっているわけではなかった。
休日を潰してまでやりたい趣味は、室井にはない。
「老後のためにも、楽しみは確保しておいた方がいいぞ」
老後と言えばなあ…と、和久が深刻な顔で話し出すから、室井はまた立ち去るタイミングを失した。
青島が時々和久に掴まって説教やら愚痴やらを聞かされているようで、和久さん話し長くてとぼやいていたことを思い出す。
実害にあって初めてそれを実感し、青島の苦労を知った。
話し疲れた和久が黙るタイミングまで根気良く待ち、室井はようやく湾岸荘に入った。
夕飯の支度を済ませ箸を握ったところで、ドアがノックされた。
来客は湾岸荘の住人以外まず有り得ない。
一倉以外の知人友人を湾岸荘に連れて来たことがなかったし、勝手に二階に上がってくるのは躊躇われるようなアパートだった。
室井は箸をおき、立ち上がった。
ドアを開けたら青島がいた。
「どうした?」
室井が尋ねると、青島は何故か一升瓶を差し出してきた。
面を食らった室井に、ニコリと笑う。
「一杯、やりませんか?」
今度はビニール袋を差し出してきた。
中身はスーパーで買ってきたらしい寿司だった。
青島と部屋で二人で飲んだことがないわけではないが、突然一杯やらないかと押しかけられたことなどないから戸惑う。
だが、もちろん嫌なわけではない。
むしろ喜ばしい。
だからといって喜色満面になるわけではないが、彼の来訪が迷惑ではないと伝えるように、大きくドアを開いて招き入れた。
「どうぞ」
青島は笑って、小さく頭を下げた。
「気を遣わなくても、飯くらい用意したのに」
青島が買ってきてくれた寿司をテーブルに並べながら言うと、青島は肩を竦めた。
「スーパーの見切り品なんで、気にしないでください」
見れば、半額値引きと書いた黄色いテープが貼ってある。
湾岸荘近くのスーパーは、18時を過ぎると惣菜のセールをすることがあるのを、室井も知っていた。
安物だから気にするなと言う青島に苦笑し、室井は自身の夕飯になるはずだったおかずを青島の前に並べてやった。
青島が持ってきてくれた酒を開け、青島のグラスに注ぐ。
「この酒はどうしたんだ?」
「あー、貰い物でね、そのうち皆で飲もうかなと思ってたんです」
「いいのか?ここで開けて」
「いいですいいです、室井さんと飲みたいなーと思ってね」
ニコリと笑う青島に、室井の顔が強張った。
変な期待などするわけではないが、好きな相手に言われて嬉しくない言葉ではない。
何故かむっつりとしてしまう室井が、ただ照れているだけであることに気付いている青島は、室井の様子を気にしたふうもなく、乾杯と言ってグラスを合わせた。
「何かあったのか?」
いつにも増して饒舌な青島が次の会話を探す一瞬の隙間に尋ねたら、青島は困った顔をした。
青島が部屋に訪れた時から、室井はそれが気になっていた。
ただ室井と酒が飲みたかっただけならそれで構わないし、嬉しく思うが、彼の普段と違う行動はやはり気になった。
青島はいつだって饒舌で陽性な酒の飲み方をするが、まるで沈黙を恐れているかのような話し方は彼らしくない。
突然室井の部屋にやって来たことも鑑みれば、何か話したいことがあるのではないかと思った。
相談であれ愚痴であれ、それを室井が聞くことで青島にしてやれることがあるのなら、協力したかった。
「話してみないか?」
言い辛そうにしている青島から上手に話を聞き出すほど、器用な話術は持ち合わせていない。
率直に問い質すことしか出来ないが、そんな室井の性格を青島は煩わしく思ってはいないようだった。
「あのですね、室井さん…」
青島は苦笑ぎみに頭を掻きながら、口を開いた。
躊躇いがちに室井を見つめる青島を見返しながら、室井は青島の言葉を待った。
青島は景気づけかグラスを煽り空にしてから、ようやく続けた。
「室井さん、何か悩んでるんじゃないですか?」
それはお前じゃないのか?と問い返したくなる質問に、室井は首を傾げた。
「青島、それはどういう…」
「だって、真下や和久さんに何か相談してたでしょ?深刻な問題なんですか?」
さっきまでの躊躇いが嘘のような勢いで詰めよる青島に、室井は戸惑った。
青島の勢いにも戸惑うが、質問にも戸惑う。
意味が分からなかった。
「ちょっと待ってくれ、青島。意味が…」
「真下や和久さんと深刻そうに話し込んでるの、見たんです。この間から元気もないし、何かあったんじゃないんですか?」
「真下君?ああ、今朝のあれか…いや、あれは」
むしろ相談を受けたのは俺の方だと室井が言う前に、青島は悲しそうに眉を下げた。
「俺には話せませんか?」
室井は目を剥いた。
自棄になったのか酔った勢いなのか、青島の長口舌は止らない。
「そりゃあ、真下はあんなのでも一応弁護士だし、和久さんは説教臭いけど歳の功で経験抱負だから俺より適任かもだけど」
「お、おい、青島」
「何の役にも立てなくても、困ったことがあるなら、俺だって室井さんのために何かしたいです」
何かとんでもなく自分に優しい言葉を聞いた気はするが、青島に何故か問い詰められている気がして動揺した室井は、しどろもどろに言葉を並べた。
「何か誤解してないか、青島。真下君とは話をしたが、柏木君とのことを相談されただけだぞ。和久さんにしても、趣味の話と老後についての…なんだ、その、貴重な意見をもらっただけだぞ」
後半は和久のただの愚痴だったのだが一応言葉を選んでみたが、青島にはどういう状況だったか容易に伝わったようだ。
「和久さんの愚痴に付き合わされてただけなんですか?」
「…話が中々終わらなくてな、途中で遮るわけにもいかなくて」
「真下が弁護するとかなんとか」
「真下君の冗談だ、訴訟を起こす予定なんかないぞ」
まさか「室井が女生徒に手を出し訴えられた場合の弁護」とも言えないので詳細は語らなかったが、青島は詳細には頓着しなかった。
「室井さん、深刻な悩みがあるんじゃないの?」
「特には」
悩みが無いことはないが、青島に心配をかけるような悩みはない。
室井の屈託はただの恋煩いに過ぎず、青島には思いもよらないことだろうが。
「なんだ、もう…俺の勘違い?てっきり室井さんに何かあったのかと…」
青島は深い溜め息を吐いたが、安堵で力が抜けたようで肩が落ちている。
それだけ、室井のことを真剣に心配してくれていたのだ。
そう思うと、室井の胸が熱くなった。
室井のために何かしたいとまで言ってくれた。
それほどまでに青島に好かれているのかと思えば、それが自分が青島に向ける想いとは違っていても嬉しかった。
ほっとして脱力していた青島だったが、苦笑しつつ頭を掻いた。
「すいません、なんか勘違いでテンパっちゃって…変なこと言っちゃいましたね」
苦笑いには照れが含まれていた。
そういえば、真下や和久には相談するのに青島には悩みを打ち明けようとしない室井を気にした発言があった。
それはいわゆるヤキモチと呼ばれる感情ではなかっただろうか。
そこまで勘ぐるのは、図々しいかもしれない。
室井は内心の動揺を眉間の皺に隠した。
「俺には関係ないのに、余計な口出しして」
勘違いとお節介を自省しているのか、青島はらしくもなく少し沈んだ声だった。
そんな青島を黙って見ていることはできない。
「気にするな、君の気持ちは嬉しかった」
親身になってくれようとする青島の気持ちは素直に嬉しかった。
青島は照れているのか、はにかむように表情を崩した。
「そう言ってもらえると嬉しいです」
やっぱり好きだと思った。
こんなふうに誰かを愛しく想うのは生まれて初めてだったが、おそらく最初で最後だ。
そうでなければ困ると、今更ながらに悟った。
自分自身の存在をも揺さぶるような恋愛は、生涯一度で充分だ。
「何かあれば、いの一番に君に話そう」
青島が目を見開いた。
大袈裟だと思われるかもしれない。
そんなことまで青島は望んでいないかもしれない。
それでも構うものかと思った。
「約束する」
真顔で誓うと、それが室井なりの好意の表現と判断したのかどうか、青島は大袈裟な誓いを嫌がることなく受け止めてくれた。
「その時には、きっと力になりますから」
青島の笑顔に微かに微笑むことで応じながら、室井は胸中で青島に詫びた。
室井はいずれ、青島に想いを告げる。
その時がきたら、青島の好意の全てを無にしてしまうかもしれない。
室井の力になりたいと言ってくれた男を困らせ、傷つける日がきっとくる。
それでも、もう誤魔化せないところまできていることを、室井は悟った。
もう逃げないと、心に誓う。
全てを青島に告げる日は、きっともうすぐだ。
END
2013.6.8
大分進んだような、そうでもないような!(笑)
次は青島君のお話を〜
template : A Moveable Feast