■ 第4章 3.岐路


終業を告げるベルが鳴った。
生徒たちは室井の講義の間は比較的静かに聞いてくれていたが、ベルが鳴り一度集中が途切れれば、ざわめきは大きくなった。
これ以上講義をしても仕方がない。
室井はここまでと言って、教壇を降りた。
教室を出る前に、女生徒に呼び止められた。
室井のゼミの生徒の小原久美子だった。
「室井先生、ちょっといいですか」
彼女は熱心な生徒であり、室井の元へ質問を携えてやってくることは珍しくなかった。
慣れた室井は足を止め、彼女と向き合った。
「どうした」
「これなんですが…」
彼女の疑問を聞き、できるだけ丁寧に答えてやる。
彼女に限らず、やる気のある生徒に砕く労力と時間を惜しむことはしなかった。
愛想はないし、冗談を言って生徒の気を引くわけでも無かったが、真摯な態度は生徒にも伝わっているのか、室井の講義は人気が高かった。
「分かったか?」
室井が確認すると、小原は少し考えて深く頷いた。
「はい、ありがとうございました」
「いや」
頷くように応じて、室井は歩きだした。
教室には人がもう残っていなかった。
後ろから小原が着いて来る。
「室井先生は、どちらに住んでるんですか?」
ちらりと横を見ると、小原がニコリと微笑んだ。
「何故だ」
「いつも歩いて帰られるから」
「近所に住んでるからだ」
「この辺に先生が住むようないいマンションあったかな?」
小首を傾げた小原は、準教授の室井が木造アパートに住んでいるとは思ってもみないらしい。
室井もわざわざ説明するつもりはなかった。
湾岸荘に住んでいることを恥じる思いは全くないが、生徒に知られて万が一好奇心から見に来られても困る。
まさかそれだけで室井の片思いがばれるはずもないが、湾岸荘での生活は人には知られたく無かった。
邪魔をされたくないとも言う。
それ以上住まいについて詳細に語ろうとしない室井に気付いたのか、小原もそれ以上聞こうとはしなかった。
「徒歩で通えるのは楽でいいですね」
「そうだな」
「私は今の下宿先が遠くて」
「そうか」
「自転車で一時間もかかるんですよ」
「それは大変だな…」
本心からそう思いつつ、ところでと室井は足を止めた。
「どこまでついて来るんだ?」
室井の研究室の前だった。
振り返って見れば、小原が真っ直ぐな眼差しで室井を見上げていた。
「室井先生」
「どうした?まだ何か質問があったか?」
真面目に聞き返した室井に一瞬困ったような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
それは明らかな愛想笑いだったが、室井は気付かなかった。
「いえ、大丈夫です」
「そうか、ではまた来週」
「はい、失礼します」
踵を返した小原が来た道を引き返していく。
俺の住まいにそんなに興味があるのか引っ越しでも考えているのか、などと一瞬だけ考えて、室井は研究室に戻った。
勉強に熱心な女生徒がただただ室井と話がしたかっただけだったとは、考えもしなかった。


その日は珍しく一倉と軽く飲んでから、帰宅した。
湾岸荘に入ると、食堂からすみれの笑い声が聞こえた。
複数の声に混じり、青島の声も聞こえる。
室井は逡巡したが、食堂に足を向けてみた。
すっかり湾岸荘に馴染んだ室井は、最近では一人でも食堂を覗く時がある。
夜なら大抵誰かが出入りしており、室井は言葉少なにだが、住人たちと会話を交わしたりする。
すみれと二人きりになった時ばかりは、彼女のペースに巻き込まれがちで若干戸惑うが、それにも大分慣れていた。
今は青島もいるらしく、室井の足が向くのも無理は無かった。
食堂に入れば、青島とすみれ以外に、雪乃と真下がいた。
テーブルの上には缶ビールや缶チューハイが並び、適当なつまみが占拠していた。
「あ、おかえりなさい、室井さん」
室井に気付いた青島が笑みを浮かべて手招きしてくれた。
「室井さんもこっち来ませんか」
ソファに並んで座っていた青島と真下が詰めて座り直し、室井のスペースを作ってくれるから、室井は小さく詫びてそこに腰を下ろした。
雪乃が缶ビールを手渡してくれる。
「ビールでいいですか?」
「ありがとう」
「残業だったんですか?」
すみれの質問に同僚と飲んでいたと説明した。
青島しか一倉を知らないから名前は出さなかったが、青島は「ああ、あの…」と呟いた。
「あら、青島君は会ったことあるの?」
すみれに聞かれて、青島が頷いた。
「室井さんが風邪引いた時に見舞いに来てて」
「ああ、メロンの人ね」
すみれにとって会ったこともない一倉の印象はメロンしかないらしい。
そのメロンの人だと室井が頷くと、青島は苦笑した。
「ところで、そのお友達は独身かしら?」
すみれが聞いてくるから室井は面を食らった。
真下が笑う。
「すみれさん、絶賛彼氏募集中ですから」
「なによ、真下君だって人のこと言えないじゃない」
「僕は一途ですから」
意味ありげに雪乃を見るが、雪乃はまるで相手にしていなかった。
哀れに思わなくないが、以前青島と真下と三人で飲む機会があった時に話を聞いたら、真下はまだまともに告白すらしていないらしい。
これほど気持ちが駄々漏れなのに、煮え切らないお前が悪いと青島に言われていたが、室井もその通りだと思っていた。
「それで?男前のエリートで独身ですか?」
すみれが再度問いかけてくるが、何か露骨な質問が増えている。
「残念ながら、既婚者だ。そもそもあまりお薦めできる友人でもない」
室井の言い草に、一倉を知る青島は肩を竦めた。
「あら、そうなんだ。残念」
「すみれさん、あからさま過ぎるよ」
「いいじゃない、どこに出会いが落っこちてるか分かんないだから」
言ってみるだけならタダだと言うすみれは、呆れるほど逞しい。
「青島さんは出会いがあったからいいですけどねー」
雪乃がからかうように言うから、室井は密かに硬直した。
硬い表情が益々強張るが、幸いなことに表情のレパートリーが少ないため、室井の動揺は誰にも伝わらなかっただろう。
「出会いってわけじゃないよ、行きつけの寿司屋の娘さんだし」
青島が肩を竦め苦笑した。
相手は良く行く寿司屋の大将の娘で、元々面識のある女性だという。
青島を気に入った大将が、青島に娘を紹介したという話だった。
大将の勧めで昨日食事に出掛けていたらしい。
そういえば、昨夜は顔を合わせていなかった。
「デートしといて良く言うわ」
すみれが鼻で笑うと、青島は言い訳めいた口調になった。
「あれは断り切れなかっただけで…」
「でも、美人でしたよね」
どこか羨ましそうな真下に、青島はまた肩を竦めた。
「大将に似ずね」
美人と認める青島に、室井は胃の辺りに鉛を押し込められたような気分になっていた。
まだ恋人になったようではなかったが、青島は少なからず彼女に好意を持っているのだろう。
そうでなければ、いくら断れなかったとはいえデートには至らなかったはずだ。
そして、そのデートは、室井が勝手にそうと認識していたデートとは違い、正真正銘のデートだ。
青島には、彼女と共に有るという未来の可能性がある。
室井には絶対に有り得ない未来だった。
「食事して帰ってきただけ?」
すみれにからかわれた青島が嫌な顔をした。
「当たり前でしょ」
「なんだ、青島さんも意外とだらしないですね」
「お前にだけは言われたくないよ」
「本当ですね」
青島に同調した雪乃にまで笑われて、真下は肩を落とした。
そんな彼らを、室井は近くにいながら、どこか遠くから眺めていた。

それから少ししてから、室井は席を立ち部屋に戻った。
着替えもせずに上着だけ脱いで、窓際に腰を下ろす。
薄く窓を開ければ、秋の夜の冷たい風がするりと顔を撫ぜる。
頭を冷やすには、丁度良い。
室井は煙草を咥えて火を点けた。
青島に恋人が出来たわけではない。
むしろ青島の口振りではあまり乗り気ではなく、寿司屋に行き辛くなったと困っていたようだった。
青島が彼女とどうにかなる可能性はないのかもしれない。
だがそれは、たまたま今回の出会いが恋に発展しなかっただけに過ぎないことくらい、室井も分かっている。
青島が女性にモテないとは到底思えない。
明るいし人当たりもよく、基本的には優しい性格であり人と交わるのを好む。
話をすれば機転のきく賢い男だと分かる。
容姿も整って、背も高くスタイルも良い。
欠点がないわけではない。
時々子供っぽく、ムキになりやすい。
考えるより動いてしまうたちで、思慮深いとは言えなかった。
それに、重度のヘビースモーカだ。
だけど、そんなことが気にならないほど、多くの魅力を持った人だった。
室井以外に彼に惚れる人間がいないわけがなく、青島はいつかまた恋をして誰かを愛すだろう。
そんな当たり前のことは分かっていたつもりだった。
その上で、室井は青島を想っているつもりだったのだ。
告白する気などさらさらない。
ゲイではない青島と室井とでは、うまくいく可能性などないからだ。
ふられて、湾岸荘にいられなくなるくらいなら、ただの住人として接している方がいい。
そうすれば、青島は室井に笑ってくれるし、時々は一緒に食事をし酒を飲んで、時々は先日映画に出掛けたようにどこかに連れ立って出掛けることもできるだろう。
それで十分だった。
多くは望んでいないつもりだった。
だがそれは、これから先、青島が新たに恋をするのをずっと見続けることになる。
いずれは結婚するかもしれない。
それを間近で見続けて、室井は平気でいられるだろうか。
耐えるつもりでいたのは、傍にいたかったからだ。
欲を出さなければ、今と同じ距離でならば、ずっと側にいられると思っていた。
だが、青島が誰かと恋をすると思うだけで、こんなにも胸が痛かった。
見ているだけでいい傍にいるだけでいい、その気持ちに嘘は無かったが、無理はあったのかもしれない。
他人に対して特別な好意を寄せるのは久しぶりであり、ましてやこんなにも心を揺さぶられる存在に出会ったのは初めてのことだった。
一目惚れしてその衝撃に任せて、迷うことなく一つ屋根の下での暮らしを選んだ。
そもそもの始まりからして、室井にとってみればらしくないことばかりだ。
室井は自身を優柔不断だと思ったことはない。
何らかの帰路に立った時に悩むことはもちろんあったが、悩んだ末に出した答えに迷うことはなかった。
心を決めれば意思は固く、二転三転させるようなことはなかった。
だが、今はどうか。
青島に想いを告げずに傍にいることを選んだくせに、青島が誰かとデートをしたと聞いただけで動揺して、このまま湾岸荘にいても良いのだろうかと悩んでいる。
どうせ出て行くのなら告白してからにしようかなどと、端から言い逃げするための道すら探す始末。
そのくせ二度と会えなくなるのかと思えば、寂しくて堪らないのだ。
真下を煮え切らないなどとは、室井に笑う権利は全く無かった。
自分はこんなに情けない男だっただろうか。
自身の進退を自分で決められないことなど、初めての経験だった。
室井の吐く溜め息が煙と一緒に夜空に消える。
「室井さん」
小さく呼ばれた気がして、幻聴かとさすがに自分の正気を疑ったが、視線を落とせば外に青島の姿があって驚いた。
「青島…?」
「室井さんも一服中?」
「ああ…皆は?」
「解散したんで、俺も一服中です」
室井が席を立って間を置かずに解散したようだ。
青島が室井を見上げて、煙草を掲げて笑う。
「仲間ですね」
嬉しげな笑みの理由は、喫煙者の少ない湾岸荘において、室井は数少ない喫煙仲間だからだ。
ただそれだけ。
分かっているのに、自身に向けられる屈託ない笑顔が愛しくて堪らない。
室井は無意識に開きかけた口に無理矢理煙草を押し込むと、深く煙を吸った。
吐き出す呼吸は僅かに震えたが、それで息が整った。
「薄着で外にいたら風邪をひくぞ」
何気ない言葉を、普通にかけられただろうか。
「一本吸ったら戻ります」
相変わらず屈託のない青島を見れば、室井の態度に不審な点は無かったようだ。
それに安堵し、同時に自嘲した。
衝動に任せて想いを告げる勇気さえ出なかった自分を笑った。
室井は灰皿に煙草を捨てると、青島を見下ろした。
「じゃあ」
「おやすみなさい、室井さん」
「おやすみ」
名残り惜し気に青島を見つめる視線を無理矢理引きはがし、室井は窓を閉めた。
カーテンを閉めて、窓に寄り掛かる。
頭を抱えるようにして蹲り、閉じた瞼の裏に青島を求めた。
女々しくて嫌になる。
だけど、これが恋をするということなのかと、他人事のように思った。
「好きだ」
口に出して言ってみた。
届かぬ声に意味などないが、元より届かぬ想いである。
声に出そうが胸に秘めようが、同じことだ。
そう思うのに、閉じた窓をもう一度開いて青島にそうと叫ぶことも出来ない自分をもう一度笑った。


室井はこの日、珍しく自棄酒を煽り酔い潰れて眠った。










NEXT

2013.5.27


室井さんが可哀想になってきた…

仲良し室青を書くのが好きなのになー!
早くくっつけたい!


template : A Moveable Feast