■ (青島視点) 1.風邪


その日、青島は珍しく目覚まし時計が鳴るよりも先に目が覚めた。
といってもほんの5分前のことだったが、肌寒くて目が覚めたのである。
半袖のTシャツから伸びた腕を摩りつつ、青島は布団から這い出た。
日中はまだそれなりに温かいが、朝晩の冷え込みはここ数日で一気に厳しくなったように思う。
秋も深まってきたことだし、そろそろ半袖で寝るのは止めた方がいいのかもしれない。
青島はパジャマのズボンを脱ぐとジーンズを履き、パーカーを羽織った。
顔を洗い歯を磨いたら、青島の身支度は終了である。
後は精々寝癖を直す程度である。
朝食代わりにコーヒーを飲み、一服してから、青島は部屋を出た。

昨日は風が強かったせいか、湾岸荘の周辺は飛んできた落ち葉やごみが目に付いた。
外に出た青島は、箒を手に持ち掃き掃除を始めた。
青島本人は特にキレイ好きでも几帳面な性格もしていない。
だが、湾岸荘をキレイにしておきたいと思うのは、湾岸荘を大事に思うからであり、それこそが自分の仕事であると自負しているからである。
自分の両親や祖父母がそうしているのを見て育ったからかもしれない。
それに、例えキレイ好きではなくても、住処はきれいであるならきれいであるに越したことはない。
キレイにすることで誰かが喜んでくれるなら、なおさらである。
青島にとって自分の部屋の掃除は面倒くさくても、湾岸荘自体の掃除はそうでもなかった。
「いい天気だ」
高く澄み切った青い秋空を眺めながら掃き掃除に勤しんでいると、玄関の戸が開きすみれと雪乃が姿を現した。
出勤時刻らしく会社員のすみれはパンツスーツだが、保育士の雪乃はラフなジーンズ姿だった。
毎朝一緒に出勤しているわけではないが、時間があえば駅まで一緒に行っているらしい。
「おはよう」
青島が声をかけると、二人からも明るい声が返って来た。
「今日は良いお天気ね」
昨日の朝はあまりの風の強さに、髪が乱れる!とご立腹だったすみれだが、今朝は彼女も気分が良さそうだった。
「あれ?真下は?」
「急に出張になって、今朝早くに出たみたいですよ」
「あ、そうなの。気付かなかったな」
「2,3日帰れないからって、雪乃さんの写真握り締めて行ったんじゃないかしらね」
「そりゃあ、気持ち悪いね。雪乃さん、ストーカーで訴えちゃえば?」
青島とすみれが好き勝手なことを言うと、雪乃は困ったように苦笑した。
「訴えるもなにも、真下さん、あれでも一応弁護士ですよ」
フォローのつもりか、雪乃は雪乃で失礼なことを言う。
「そうよね、あれでも一応弁護士なのよね」
「しかも、わりと優秀らしいね。前に遊びに来た小池君って後輩の子が事務所のエースだって言ってたよ」
「真下さん、やる時はやるんですけどね…」
言外に平素の真下に文句がありそうな雪乃の言葉に、青島とすみれは笑ってしまった。
真下の恋が成就するのは一体いつになることやら。
案外近そうな気もするが、逆にまだまだ遠い気がしなくもない。
「あ、いけない。真下君の話しなんかしてる場合じゃなかった」
「そうですね、電車に遅れちゃう」
二人は思い出したように時計を見て、慌てて足を動かした。
「行ってらっしゃーい」
青島が後姿に声をかけると、二人とも振り返って手を振って湾岸荘を出て行った。
それを見送り、青島もまた掃除に戻った。

掃き掃除が粗方終わった頃、再び戸が開いた。
玄関を見れば、室井が出てくるところだった。
「おはようございます」
青島が声をかけると室井も挨拶を返してくれたが、その声は少し掠れていた。
夕べ会った時には普通に話していたから、少し驚いた。
「あれ?喉、どうしたんですか?」
青島が自分の喉を指差し尋ねると、室井は眉間に皺を寄せた。
「寝て起きたらこうなっていたんだ、風邪でも引いたのかもしれない」
「あらま…夕べ寒かったですもんね」
湾岸荘は古い木造アパートで、お世辞にも気密性が高いとは言えないし、断熱処置も施されていない。
鉄筋コンクリートのマンションと比べると、寒いはずだった。
しかも、ここ数日で一気に夜間の気温が下がっている。
まだ環境の変化に馴染めず、慣れないアパートのせいで室井が風邪をひいたのなら申し訳ないと思った。
だが、もちろん、室井はそんなことで文句を言う男ではない。
「寝相でも悪かったのかもしれない」
苦笑する室井に、青島も笑みを零した。
「室井さんの寝相が?」
布団を蹴飛ばし、転がりまわる室井の姿は、ちょっと想像がつかなかった。
珍しい室井の冗談だろうと思って、笑っておいた。
「ひき始めが肝心だっていいますし、気を付けてくださいね」
「ありがとう、それじゃあ」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
いつもの挨拶を交わして行きかけた室井だったが、途中で足を止めて青島を振り返った。
「夕べはありがとう」
昨夜、帰宅した室井を誘って、青島の部屋でパスタをご馳走した。
たまたま居合わせたすみれも交えての食事会となったが、青島の作ったキャベツと桜エビのクリームパスタは中々好評であった。
何度かご馳走したことのあるすみれはともかく、和食が多いと言っていた室井の口に合うかが心配だったが、室井は残さず食べてくれて、言葉は少なくとも美味いと褒めてくれていた。
「良かったら、また食いに来てください」
青島が笑って言うと、室井も小さな笑みを浮かべ頷いた。
「楽しみにしている」
そう言い残して、湾岸荘を出て行った。
楽しみにしている、ということは、また誘っても良いということだ。
室井のことだから、社交辞令とは思えない。
室井との付き合いはまだ浅いが、彼の言うことは素直に信用できた。
それは誠実な人柄のせいもあるし、控えめではあれど室井から寄せられる好意を感じるせいでもあった。
生真面目な性格のせいか、不用意に他人の内側に押し入ってくることはしない人だが、青島から近づくことを嫌がりはしなかった。
青島を嫌ってはいないからだろう。
それを、彼の話す言葉や態度で、うぬぼれかもしれないが感じていた。
だからというわけではないが、青島も室井のことが好きだった。
生真面目で口下手な男なのに、一緒にいると何故か楽しいと感じた。
青島にとっては今までの人生で出会ったことのないタイプだったが、物珍しさから興味を惹かれたわけではなかった。
人柄を知れば知るほど好ましく思ったし、一緒にいればいるほど楽しく思う自分を知っていた。
馬が合うというのはこういうことなのかもしれない、青島はそんなふうに思っていたが、それだけではないことにまだ気付いていなかった。


青島は苦しげに眉をひそめ息を詰めていたが、やがて大きな溜息と共に吐き出した。
「参りました」
将棋盤を挟んで向かいに座っている草壁が満足げに口角を上げた。
本日の対戦成績は二勝一敗で、草壁の勝ち越しである。
ちなみに青島も草壁もそれほど強くなく、和久からはどっちもどっちのへぼ将棋という有り難い評価を頂いている。
ただ、低レベルで実力が伯仲しているものだから、二人の勝負はいつも白熱したりする。
青島はへぼな腕前通りそれほど将棋が好きなわけではなかったが、草壁とやるのだけは嫌いではなかった。
和久や真下とやると完敗で、魚住とやっても分が悪く、すみれと雪乃は将棋自体やらない。
室井とはまだやってみたことはないが、なんとなく完敗に終わる気がしてわざわざ誘う気にならなかった。
そんなわけで、草壁が湾岸荘にいる時には、時々どちらからともなく誘って、一局打つという習慣があった。
「もう一戦やりましょうよ」
意地になった青島が誘うが、草壁は首を横に振った。
「今日はもういい」
「ええー?勝ち逃げっすか?」
不服そうな青島に、眉間に皺を寄せた草壁がむっつりと呟く。
「これから仕事なんだ」
「あれ?そうなんですか…なんだ、残念」
もう日は暮れているが、仕事柄夜勤の珍しくない草壁だから、仕事と言われれば納得するより仕方がない。
「なら、ここは片付けておきますから、行っていいですよ」
近いうちにリベンジさせてくださいねと釘を刺すと、草壁は苦笑しながらも頷いて食堂を出て行った。
負けっぱなしは悔しいが他に勝てそうな相手もいないし、そもそも草壁以外は皆仕事で不在である。
和久の場合は町内会の囲碁クラブに遊びに行っているだけだから仕事ではなかったが。
青島は将棋盤を片付けると、草壁と飲んでいたコーヒーカップを洗って食器棚にしまった。
ふと聞こえてくる玄関からの物音で、青島は誰かの帰宅を知った。
働いている人たちが帰宅するには少し早い時間だったから、和久だろうかと思った。
思った途端に、廊下で大きな音が響く。
重たい物が落ちたような音に驚いて、青島は慌てて食堂を飛び出した。
玄関にいたのは和久ではなく室井だった。
大きな音は室井が倒れた音だったのか、廊下の床に膝をついている。
「どうしたんですか?室井さん」
駆け寄った青島が肩に触れると、室井はゆっくりと顔をあげた。
その顔はやけに赤くて、いつもはきりりとしている眼差しにも力がなかった。
明らかに朝よりも辛そうで、風邪が悪化しているように思われた。
「大丈夫ですか?」
身体を支えてやると、室井は思い出したように瞬きをして、ようやく目の前に青島がいることを認識したようだった。
「青島か…」
発熱のせいか反応の鈍い室井を心配しながら手を貸して立ち上がらせる。
「どこかぶつけてませんか?」
「大丈夫だ…みっともないな、段差で躓いてしまった」
力なく苦笑する室井に、青島も少しホッとした。
意識を飛ばして倒れたわけではなく、躓いて転んだだけらしい。
足元がおぼつかないのも、発熱のせいだろう。
「風邪、悪化しちゃったんですね」
「ああ、そうみたいだ」
「病院は?」
「寄って帰ってきた」
いつもより早い帰宅なのは、早退してきたからだった。
幸い午後から講義がなかったため早めに仕事を切り上げ、病院に寄って診察を受けて帰ってきたらしい。
「すまない、もう大丈夫だ」
室井がやんわりと、支えている青島の手を押し返し離れようとしたが、青島は意に介さなかった。
こういう時の青島は押しが強い。
過去にお節介だと言われたことが何度かあったが、あまり気にしていなかった。
困っている人に手を貸すことに躊躇う理由が、青島にはなかった。
青島は床に落ちていた鞄を拾い上げ、室井を支えたまま歩き出した。
「何言ってんですか、部屋まで送りますよ」
「しかし」
「階段でまた転んだりしたらどうするんですか」
「それは…困るな」
渋面になりつつも素直に呟く室井に、青島はついつい笑ってしまった。
反論の言葉が見つからなかったのかもしれない。
「じゃあ、いきましょう」
青島が笑顔で促すと、室井はそれ以上拒まずに礼を言って、支えられたまま歩いた。

室井を部屋まで連れて行くと、室井に断って青島も部屋に上がらせてもらった。
「布団敷きますから、室井さんは着替えてください」
「いや、自分で出来るから…」
「いいからいいから、遠慮しないで」
ちょっと図々しかっただろうかと思ったが、しんどそうな室井を見れば放ってはおけない。
また、青島も室井と同じく独身の一人暮らしだから、病気の時の辛さと心細さは経験済みだった。
一つ屋根の下に暮らし知らない仲ではないのだから、助けになれることがあるなら何かしたかった。
「すまない、ありがとう」
断る元気も沸かないのか、室井は苦笑ぎみに青島の厚意を受け入れた。
「押し入れ開けますね」
室井に断り、押し入れを開け布団を取り出す。
青島が布団を敷く背後で、室井はごそごそと着替えをしていた。
緩慢な動作で着替える室井を見れば、余程身体が怠いのだと分かる。
それでも脱いだスーツをちゃんとハンガーにかける辺り、具合が悪くても室井は室井だった。
青島なら脱ぎっ放しにするところである。
パジャマに着替えた室井を布団に押し込めると、青島は腕捲りした。
「じゃあ、飯作ってきますから、寝ててくださいね」
遠慮しても青島が聞かないと諦めたのか、室井はもう必要ないとは言わなかった。
少し困ったように眉をひそめたが、結局小さな笑みを浮かべた。
「すまない…」
「食欲はあります?」
「あまり無いな」
「うどんくらいならいけそう?」
「ああ…」
「じゃあ、ゆっくりしててください」
青島が見下ろすと、室井は小さく頷き瞼を落とした。
目を開けているのもしんどいのかもしれない。
青島はそっと室井の部屋を後にした。


青島は簡単にうどんを作ると室井の部屋に戻り、ついでに自分の分のうどんも持ち込んで室井と一緒に食事を済ませた。
別に青島は後から自分の部屋で食べても良かったのだが、どうせなら一緒に食べた方が気分的に美味いだろうと思ったからだ。
食欲がないであろう室井もそうであればいいなと思った。
室井が食べ終わるのを待って台所を借りて食器を片付けると、青島は長居をしないことにした。
青島がいつまでも居れば、室井はゆっくり休めないだろう。
「なんか欲しいものあります?して欲しいこととか」
布団の中からぼんやりと見上げてくる室井に尋ねると、室井は少し考えるような素振りを見せた。
が、しばらくして「大丈夫だ」とだけ言った。
青島は首を傾げた。
「なんかあるなら、遠慮なく言ってくださいよ」
「いや、本当に大丈夫だ」
「本当ですか?」
疑わしい視線を向けたが、室井は首を横に振るだけだった。
青島はそれ以上追求するのを諦めた。
ただ、思い立って、室井に携帯電話の在処を尋ねた。
鞄の中だと言うから、鞄ごと室井の枕元に置く。
「なんかあったら電話ください、番号分かりますよね?」
室井が越して来る前に、連絡先として番号は交換してあった。
「ああ…登録してあるから」
「良かった。じゃあ、遠慮なく電話してくださいね、何時でもいいから」
室井は青島を見上げて、少しだけ目を細めた。
「…ありがとう、世話になる」
室井のことだから、余程のことがない限り青島には電話をして来ないかもしれない。
それでも約束しておけば、もしもの時には自分がいると思い出して貰えるだろう。
「独り者同士、困った時はお互い様ですよ」
屈託無く笑った青島に、室井も小さな笑みを浮かべた。










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2012.7.25


どうでもいいですが、物語の季節がちょっと変にズレこんでしまっていたので、
ちょこっと書きなおして修正しました。
室井さんが引っ越してきたのが5月頃、現在10月くらいなイメージです。


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