■ (青島視点) 1.見舞い


古い木の板を踏み締める軋んだ音が廊下に響く。
青島が雑巾掛けをしているせいだった。
長い廊下を端から端までするとなると見た目以上に結構な重労働だが、青島には慣れたことだ。
ただ、慣れていても、腰は痛む。
「あー、いたたた…」
たどり着いた廊下の端で、立ち上がり伸びをした。
伸びをしたついでに天井を見上げて、室井さんはどうしているかなと思った。
朝、様子見がてら朝食を持って行ったら、まだ熱が下がらないらしく赤い顔をしていた。
今日は仕事を休んで部屋で眠っているはずだった。
どうしているか気にはなるが、あまり顔を出しても室井の休息の邪魔になってしまう。
昼にまた飯でも作って持って行こうか。
そんなことを考えながら汚れたバケツの水を捨てようと、玄関に向かった。

戸を開けたら、すぐ目の前に男が立っていて驚いた。
急に戸が開いたせいか、青島と同じく驚いた顔をしている男に見覚えがある気がするのだが、すぐには誰か思い出せない。
男は数回瞬きして、笑みを浮かべた。
「青島と言ったか?室井の引っ越し以来だな」
その言葉で青島もはっきりと思い出した。
室井の引っ越しを手伝いに来ていた一倉という友人だ。
「お久しぶりです」
青島は頭を下げて挨拶をした。
一倉がここに来たのは引っ越しの時一度きりだったから、5ヶ月ぶりくらいだ。
「室井が世話になってるみたいだな」
「いえいえ、こっちこそ」
「いいところに越したと、喜んでいたぞ」
友人の口から語られた室井の言葉に、青島は密かに喜んだ。
いいところだと思ってくれているのは本人の口から聞いて知っていたが、第三者を通して言われるとそれが室井の本音なのだと実感する。
室井の言葉を疑ってはいないのに、それでもやけに嬉しかった。
「ボロアパートなんですけどね、そう言ってもらえるのは嬉しいですね」
照れ笑いでそう言うと、一倉は苦笑した。
「確かに、最初にここに住むって聞いた時には本気かと疑ったもんだがな」
何気に失礼な言い草だが、それで普通だろうと思って青島は肩を竦めただけだった。
「結局、馴染んじまったみたいだな」
「一倉さんもどうですか?住めば馴染むかもしれませんよ」
「いや、室井が馴染むなら、俺にはあわんだろう」
「…室井さんと仲悪いんですか?」
思わず馬鹿正直に尋ねたら、一倉が笑った。
「悪かったら、見舞いに来ないだろ」
一倉は手にしていたビニール袋を掲げて見せた。
見舞いの品なのかもしれない。
「あ、室井さんのお見舞いに来たんですね」
言われるまでそうと気が付かなかったが、これまで遊びに来たこともない一倉がこのタイミングで訪れたのだから、他の用事とは考え難かった。
「風邪ひいて寝込んでるって連絡があってな」
だから来たのだと苦笑する一倉に、青島は少なからず驚いた。
一人暮らしの室井が一倉に助けを求めたということだろう。
室井がそういうことをすると思っていなかったから驚いた。
あまり自分から他人に弱音を吐いたり、頼ったり出来る人だとは思えなかった。
だが、よく考えれば、いくら独身の一人暮らしであっても、困った時に頼れる友人の一人や二人いるものだし、当たり前のことだった。
青島は自身の思い込みに、気恥ずかしい思いだった。
別に友人面をしたつもりはないし、辛そうな室井にお節介をやいたこと自体は後悔していないが、自分がお節介であることを自覚しているだけに室井に変な気を遣わせてしまっていたら申し訳ないと思った。
「上がってもいいか?」
物思いに沈んでいた青島は、一倉の言葉に慌てて頷いた。
「はい、あ、スリッパどうぞ…部屋は分かりますよね?」
「ああ、二階の角部屋だったな」
引っ越しを手伝った一倉は、さすがに部屋の位置を覚えていた。
青島が頷くと、一倉は青島に片手を上げて、二階に上がって行った。
それを見送り、青島はそっと溜め息を吐いた。
一倉の見舞いで青島が落ち込む理由もないが、室井の遠慮が遠慮ではなかったとしたらと考えたら、やっぱり落ち込んだ。

幾分沈んだ気持ちのままバケツを片付け、部屋に戻り煙草を咥え一服していると、尻のポケットで携帯が鳴った。
夕べは一度も無かった室井からの着信で驚く。
驚きつつも慌てて通話ボタンを押した。
「はい、青島です」
『室井だが…今大丈夫か?』
電話越しの声はまだ掠れていた。
「大丈夫ですよ、どうしました?」
『いや、一倉が…一倉のかみさんが見舞いにと、メロンをくれたんだが』
一倉が下げていた見舞いの袋には、メロンが入っていたらしい。
『その…食べに来ないか?』
遠慮がちに誘われて、青島は少し戸惑った。
一倉がまだ居るはずで、友人の見舞中にお邪魔していいものだろうかと思ったのだ。
「ええと…俺もいいんですか?」
『一人じゃ食いきれなくてな…メロン嫌いか?』
「いえ、好きです」
つい遠慮も何もなく返事を返したら、電話の向こうで室井が小さく笑った。
『良かったら、今から来ないか』
青島に否やはなかった。


メロンを切り分けてテーブルに置くと、一倉が悪びれずに笑った。
「悪いな、任せて」
「いえ、切るだけっすから」
家庭科の授業でしか包丁を握ったことがないという一倉を見兼ねたらしい室井が台所に立っていたのだが、そこに誘いに乗って現われた青島が交代を申し出たのだ。
20年ぶりに包丁を握るという一倉も危なっかしいが、発熱している室井に包丁を持たせるのも危なっかしい。
「残り冷蔵庫にいれておきますね」
室井に断って冷蔵庫にメロンを仕舞った。
「ありがとう…良かったら、後で恩田君に持って行ってくれないか」
「すみれさんに?」
青島が布団の上に座っている室井を見ると、室井は真顔で言った。
「君だけにやると、怒られそうだ」
本来なら怒られる筋合いもないだろうに、すみれに気を遣う室井がおかしい。
青島は笑って頷いた。
「じゃあ、後で少し置いてきますよ」
「そうしてくれ」
「恩田さんっていうのは、室井の彼女かなんかか」
唐突に一倉が言うから青島は目を丸くした。
思わず室井を見ると、青島よりも驚いたらしく目を剥いている。
そして、何故か青島を見た。
視線が合うと気まずそうに逸らす。
どうやら動揺しているようだった。
「馬鹿、違う。恩田君はアパートの住人だ」
「アパートの住人と付き合ってんのか」
「違うと言ってるだろ」
「なんだ、お前の片思いか」
今時メロンでつれる女なんかいないぞもっと積極的にいけうんぬんと語る一倉に、室井は眉間に深い皺を作った。
強く否定するだけの体力がないのか、気力がないのか。
どちらにせよ、熱が上がるのではないかと心配になり、青島は横から口を挟んだ。
「いや、あの、恩田すみれさんて言うんですけどね、彼女。物凄い食い意地張ってまして、彼女のいないところで美味いものを食うと、ここの住人なら誰であろうと怒られるんですよ」
改めて説明してみると物凄く理不尽だなと思いつつ、すみれさんだから仕方がないかとも思う。
一番新しい入居者の室井も既にそういう境地でいるらしい。
「それだけか?なんだ、つまらん」
本当につまらなそうに鼻で笑う一倉に、青島は苦笑して室井は溜め息を吐いた。
青島は気分を変えるように畳に腰を下ろしてメロンを手に取った。
「いただきます」
青島が食べ始めると、つられたように二人ともメロンを食べ始めた。
「かみさんが心配してたぜ、お前一人暮らしだしな」
「礼を言っておいてくれ」
「室井君は結婚まだなのとも心配していたが」
むっつりと押し黙った室井に笑い、一倉は青島に話を振った。
「うちのかみさん、俺と室井の大学の同級生でね」
「ああ、そうなんすか…」
だから、奥さんからの見舞いなのかと納得した。
台所に置いてあった袋にレトルトのお粥や雑炊が入っているのが見えたが、独身の室井を気遣っての見舞いだろう。
聞けば、一倉は室井に呼ばれたわけではなく、室井が風邪で寝込んでいると聞いた奥さんに派遣されたらしい。
室井は仕事の用事で一倉に電話をしただけで、頼ったわけではなかった。
「俺は風邪くらい寝てれば治るって言ったんだけどな」
「それが友人の台詞か」
「お前も見舞いなんかいらないって言ってたじゃねーか」
「見舞ってもらうほどじゃない」
メロンを食べながら淡々と言い争う二人に、青島は笑いを噛み殺した。
性格も気性も波長も違うのだろうが、やはり仲はいいのだろうと思った。
「まあ、飯は青島に世話になってるそうだから、本当に心配いらなかったな」
室井に聞いたのか、そう言って煙草を咥えた。
風邪をひいてる室井に気遣ってか、細く窓を開けて火を点けた。
「大したもん作ってませんけどね」
「それでもレトルトよりはマシだろ」
レトルト以下だと言われたら悲しいところだが、もちろん室井はそんなことは言わない。
一倉に頷いて「美味かった」と言ってくれるから、青島は照れ笑いを浮かべた。
「かみさんには、室井には手厚く看病してくれるいい人がいるから心配するなと言っておくよ」
一倉の戯言に室井がむせた。
メロンの果汁が気管に入ったらしい。
身体を折って咳き込む室井に、青島は慌てて室井の背中を撫ぜた。
「大丈夫ですか?」
火照った熱い背中を擦っていると、室井の呼吸が落ち着いてきた。
青島が顔を覗きこむと、微かに涙目になっていて、余程苦しかったとみえる。
平素の冷静で落ち着いた室井の様子と違って、ちょっと可愛くておかしい。
だが、どこか気恥ずかしそうな室井を見れば笑うわけにもいかないので、青島は優しく背中を撫ぜながら、一倉を睨んだ。
「一倉さんが馬鹿なこと言うからですよ」
「いい人には違いないだろ」
遠慮なく笑う一倉に嘆息した。
「いい人の意味が違うでしょうが」
人がいい人と言いたいのだろうが、一倉の言葉ではニュアンスが違っている。
それではまるで、青島が室井の恋人のようだ。
何を馬鹿なことをと青島は内心で笑った。
男同士だ、恋人になどなれるはずがない。
そう思ってしまって、今度は顔に苦笑を浮かべた。
これでは事情が許せば恋人になりたいと思っているようだった。
馬鹿なことだと、もう一度思い直した。
室井に対しては好意を持っているが、それは恋人になりたいと思うような恋愛感情ではない。
同性相手にそんなことを思うわけがないと、青島は思っていた。
「ゆっくり呼吸した方がいいですよ」
青島が言うと、呼吸が落ち着いてきた室井がやんわりと青島の手から逃れた。
「すまない…もう大丈夫だ…」
合わない視線に室井が照れているのだと感じた。
一倉にからかわれて動揺したことが恥ずかしかったのだろうと判断し、青島もそれ以上は触れずに離れた。


軽口を叩きながらも室井を気遣ってか、一倉はまだ仕事があると言って長居をせずに帰って行った。
青島は使った食器などを片付けるために、そのまま室井の部屋に残った。
「寝ててください、あんまり起きてるとまた熱上がっちゃいますよ」
そう声をかけ、室井を布団にいれて、青島は台所に立った。
食器を洗っていると、掠れた室井の声が聞こえる。
「すまないな、面倒をかけて」
「おとっつあん、それは言わない約束でしょ」
芝居がかった口調で応じると、振り返ってはみなかったが、背後で室井が小さく笑った音が聞こえた。
うけたと思って、青島も嬉しくなり笑みを浮かべた。
本当に気にしてもらうほどのことはしていない。
面倒だと思ってもいなかった。
縁あって同じアパートに暮らしているのだ、困った時はお互い様だ。
それに、室井には青島も世話になっている。
それが、親切の押し売りになっては困るが、出来ることがあるなら何かしたかった。
シンクに置かれている、一倉の見舞いのレトルト食品が視界に入った。
これがあったら、青島が食事を用意する必要はないかもしれない。
だが、あるからといって、いきなりレトルト食品任せにするのは気が引けた。
誰の助けも期待できない孤独な一人暮らしではないのだ。
大きな意味では共に暮らしている人間がいるのである。
青島にしても貸せる手があるのに、何もしないでいるのは好むところではない。
病人に侘しい食事を勧めたくはなかった。
だけど、折角の見舞いの品だし、室井が自分で出来ると言えば、青島が口を出すのも気がひける。
それこそ、お節介な気がした。
恋人や家族ではないし、友人と思ってもらえていたら嬉しいが、はっきり言えるのは同じアパートに住んでいる仲間だというだけの関係である。
どこまで図々しくなっていいものか、わりと図々しい性格だと自負している青島だが、悩む。
だが、延々と悩むことも性に合わない。
食べるものはあっても困らないだろうと自分の価値観のみで判断し、後から食事を運んで来ようなどと勝手に決めた。
食器を片付けた青島が振り返ると、室井は瞼を落としていた。
眠っているのならそっと帰ろうと思ったが、物音がしなくなったせいか室井が目を開けた。
ぼんやりした視線とぶつかり、相変わらず力のない眼差しに室井さんらしくないなと内心で思った。
病人なんだからそれで当然だが、早く元気になってもらいたい。
そして、眼差しに見える意志の強そうな光りを好ましく思っていたことに、今気が付いた。
時々、それが柔らかく綻ぶ。
口数は少ないが、目は口程に物を言うという例え通り、あからさまではない彼の優しさを含んでいる気がした。
「ありがとう」
ぼんやりした室井の目を、ぼんやりと眺めていた青島は、思い出したように笑って室井の隣に腰を下ろした。
「こっちこそ、メロンご馳走さまでした。美味かったです」
「そうだな…メロンなんか久しぶりに食った」
「そういや、俺も久しぶりでした。一人暮らしだと、一玉買うの抵抗ありますよね」
あ、でも、スイカは買うなと付け足したのがおかしかったのか、きょとんとした室井が笑みを零した。
「スイカ、好きなのか」
「好きですね。室井さんは?」
「好きだが、スイカもしばらく食べてないな」
「ああ、じゃあ、来年の夏は一緒に食べましょうよ」
一人暮らしにも関わらず、青島は毎年スイカを丸ごと買って来る。
大抵は一人で食べきれるが、すみれたちと一緒に食べることもあった。
一人が苦手というわけではないが、誰かと一緒に何かをするのも好きだった。
それに、ついつい室井をも巻き込んでしまうのは、長くここに居てくれたらいいなと思っているからかもしれない。
住みやすい場所、楽しい毎日、そう思って貰えたらと思う。
青島の懐っこい性格は、人によっては馴々しすぎて鬱陶しく思われることがないわけではない。
室井がそう受け取っていないのは、青島に対する態度でなんとなく伝わっていた。
全く匂わせずに上手に本音を隠せるほど器用な性格もしていないだろう。
室井が青島の誘いに一々付き合ってくれているということは、迷惑ではないということだ。
優しい人だから気を遣わせていることはあるかもしれないが、ある程度の甘えは許されている気がした。
好意はきっと伝染する。
室井からの好意を感じるせいだけではないが、青島も室井に好意をもっていた。
「来年か…楽しみにしている」
室井が呟くから、青島は笑って頷いた。
青島を見上げていた室井の瞬きの間隔が少し長くなった。
疲れたのかもしれない。
そろそろ部屋に戻るべきかなと考えていると、目を開けた室井がテーブルを指差した。
なんだ?と思って視線を向けたら、灰皿が置いてあった。
一倉の吸い殻が一本だけ捨ててある。
「煙草、吸ってもいいんだぞ」
青島がヘビースモーカーであることは室井も知っている。
その青島が煙草を吸わずにいるのを気にしてくれたらしい。
「あ、いや、煙草、部屋に忘れてきちゃって」
室井の部屋で吸う気がなかったから置いてきていた。
室井はむくりと起き上がると、テレビ脇の引き出しから煙草を取り出し、青島に差し出した。
「俺の煙草で良ければ」
もう帰るからと言えば良かったのだが、わざわざ煙草を手渡してもらったらそうも言い辛い。
いつまでもいたら休養の邪魔なんじゃないかと思ったが、邪魔であればわざわざ自分の煙草をくれはしないだろう。
長居してもいいと言っているようなものだ。
もしかしたらずっと一人で寝てばかりいて、室井も暇なのかもしれない。
そう思って、青島は笑って室井の煙草を受け取った。
「じゃあ、遠慮なく…ありがとうございます」
窓際に移動し腰を落ち着けた青島に、室井が微かに嬉しそうな顔を見せたが、青島は気が付かなかった。


結局、青島は体力の限界か室井が寝てしまうまでそこにいた。










END

2012.8.24




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