■ 第三章 2.雨漏り


鍋を畳みの上に置いた室井は、溜息を吐いて部屋を眺めた。
部屋のいたるところに鍋やバケツが置いてあり、天井から落ちてくる滴がそこに当たって軽快な音を立てていた。
雨漏りしているのだ。
夕方から振りだした雨は時間が経つにつれて雨脚を強め、もうすぐ日付が変わろうかという時刻になっても、未だに強く降り続いていた。
畳の一部が濡れていることに気付いて突然の雨漏りを知り驚いたが、のん気に驚いている暇はなかった。
雨漏りをしているのはその一か所だけではなかったのである。
慌てて受け皿になるように入れ物を探したが、バケツは一つしか持っていなかったため、鍋やどんぶりを置いて難を凌いでいた。
なんとか畳を酷く濡らすようなことにならずホッとしたが、今度は新たな問題にぶつかる。
鍋やバケツに占領された部屋には布団を敷くスペースはなかった。
ふと気になって押入れを覗くが、押入れの中は雨漏りしていないようで、布団は無事だった。
どちらにせよ、今夜は布団で眠れそうもないが。
青島に老朽化しているから雨漏りすることもあるかもしれないと聞いたばかりだったが、まさかこんなに早く、それもこれほど盛大に雨漏りするとは思わなかった。
後から青島に屋根の修理を依頼することになるだろうが、こんな夜中に騒がすのも気が引けるし、例え騒いだところで今夜中に修理が出来るわけでもない。
青島には明日連絡することにして、今夜は食堂で寝ることにした。
室井はタオルケットだけを手に取ると、部屋を出た。
階段を下りると、タイミングがいいのか悪いのか、青島が廊下にいた。
ビニール袋を下げているから、コンビニにでも出かけていたのかもしれない。
「あれ?室井さん、こんな時間にお出かけ…ではないですね」
青島は室井の手元を見て不思議そうな顔をした。
タオルケットを持って出かけるとも思えなかったのだろう。
室井は苦笑して、ついでだから事情を説明した。
雨漏りで寝る場所もないのだということを知ると、青島は目を丸くした。
「マジですか?うわあ、すいません」
驚き恐縮する青島に、室井は気にするなと告げた。
キレイな畳を見る限り、室井が越して来るまで雨漏りはしていなかったようだし、それを予期できなかったからといって青島の責任ではない。
さすがに少しぐらいの雨漏りではないので修理はしてもらわなければならないが、一晩くらい部屋で寝られなくても問題はなかった。
「世話をかけるが、修理を頼めるか?」
「そりゃあ、もちろん」
青島はこくこくと頷いて了承してから、困った顔をした。
「でも、室井さん、寝る場所もないんでしょ?」
「食堂のソファを借りて寝るから、気にしないでくれ」
宴会でもしていない限り夜中は大抵誰もいないので、朝まで寝ていても迷惑をかけることもないだろう。
そう思ったのだが、青島は頷かなかった。
「ソファじゃ落ち着かないでしょう。そうだ、俺の部屋で寝ませんか?」
良い案だとばかりに目を輝かせる青島に、室井はぎょっとした。
とんでもないと叫びそうになるのをなんとか堪える。
青島の厚意は嬉しいが、さすがにその厚意には甘えられなかった。
青島の部屋で一晩を過ごす。
とても平常心ではいられそうになかった。
「食堂で寝るから大丈夫だ」
「でも、ソファじゃ良く眠れないでしょ?布団さえ持って来てくれたら、俺の部屋で二人くらい寝れますよ」
いや、おそらく食堂のソファで寝る方がまだぐっすり眠れるだろう。
室井はそう思ったが、まさかそんなことを善意しかない青島に言うわけにもいかない。
「そんな迷惑をかけられないから」
動揺と口下手が災いして上手くかわすことも出来ずにしどろもどろに辞退するが、それを単なる気遣いと判断したのか青島はにこやかに微笑んだ。
「遠慮しないでくださいよ、迷惑なんかじゃないですから」
優しい笑顔にそれが彼の本音だと分かる。
嬉しかった。
雨漏りという憂き目にあっているのが店子の誰であれ、青島はそうしてくれただろうが、部屋に泊めてくれようとするくらいだから、きっと嫌われていない。
そんなことが嬉しかった。
「あ、他人と一緒だと眠れないですか?」
「いや、そんなことはないが…」
「じゃあ、俺の部屋に来てくださいよ」
風邪ひいたら大変だと言ってくれる青島からは、どこまでも善意しか感じられず、笑顔を向けられるとこれ以上断り辛かった。
この男に頼まれたら何でもしてしまうのではないかと、我ながら情けなく思いながら、室井は結局頷いていた。
「済まないが、世話になる」
返って来た笑顔に、室井は断らなくて良かったと思ってしまった。


自室から運んで来た布団を青島の布団の隣に並べて敷くと、室井は改めて今夜は眠れないだろうなと覚悟した。
隣に適当に敷いてくださいと言われて、既に敷いてあった青島の布団の隣に自身の布団を敷いた。
さすがに並んだ布団を見ると、好きな人と一晩過ごすのだという生々しさを実感する。
だが、理性には自信があった。
青島の厚意を裏切るような真似をする気はないし、そもそも出来る気もしない。
長い夜に挑む覚悟さえあれば、問題はない。
自身の布団に腰を下ろし、硬い表情の下で修行僧のように「平常心」を心がけている男が目の前にいることなど、青島の知るところではなかった。
「室井さん、軽くやりません?」
そう言って差し出してくれたのは缶ビールだった。
酔っ払ってしまうと理性が緩くなってしまうからいただけないが、少しのアルコールは緊張をほぐすのに有効かもしれない。
室井はありがたく受け取った。
「こんなものしかないんですけど…」
青島が申し訳なさそうに柿の種を出してくれる。
つまみにと用意してくれたのだろう。
「食堂に行けば、なんか食い物あるかも」
「いや、気を遣わないでくれ。これで十分だ」
不可抗力とはいえ、夜中に押し掛けて酒をご馳走になっておきながら、贅沢を言うはずもない。
室井が缶を開けると、青島も室井の向かいに腰を下ろした。
「雨、酷いですね」
ばらばらと響く雨音に青島が溜息を吐いた。
室井が越して来てからだと、一番の大雨だった。
「明日には止むといいな」
「そうっすね。じゃないと、室井さん、いつまでも部屋に帰れないや」
バケツや鍋が転がる室井の部屋の惨状を確認していた青島は、それを思い出したのか苦笑した。
このまま雨が止まなかったら、明日も青島の世話になることになるのだろうか。
嬉しい半面困りもするような、微妙な心持ちだった。
一緒にいられるのだとしたらそれは嬉しいことだが、青島に対する良からぬ感情を自覚しているだけあって、厚意に甘えることに後ろめたい気持ちもある。
室井の葛藤に気付くこともなく、青島は屈託ない。
「ボロ家ですみません」
管理人自ら遠慮のない言い草に、室井も苦笑した。
「好きで住んでるんだ、気にするな」
慰めでもない室井の言葉に、青島は嬉しそうに笑った。
どこまでも素直な男だと思う。
感情が素直に面に出ることは、大人になればいいことばかりではないはずだが、そこが青島の魅力でもあると感じていた。
室井と正反対だから余計にそう思うのかもしれない。
室井に好かれているのが家だけではないと知ったら、この男はどんな顔をするのだろうか。
告白する気などさらさらないが、それを考えると少し憂鬱だった。


二缶ずつビールを空けると、二人は就寝することにした。
外に働きに出るわけでもない青島はともかく、室井は明日も仕事でいつまでもだらだらと起きて酒を飲んでいるわけにもいかない。
もっとも、寝られるかどうかは別問題だが、それは室井の問題で青島の知ったことではなかった。
青島は室井を気遣い、早めにお開きにしてくれたようだった。
「じゃあ、電気消しますね」
「ああ」
室井が布団に横になると、青島も電気を消して布団に入った。
暗くなった部屋に、カーテンの隙間から微かに街灯の光が漏れていた。
急に空気が重たくなったように感じたが、それは室井が勝手に感じているだけだろう。
否が応にも感じてしまう夜の空気を無視するように、室井は目を閉じた。
「おやすみ」
青島に声をかけ、眠る努力をしてみようかと思ったが、それを引き止めたのは青島だった。
「室井さん」
声をかけられて、室井は目を開けた。
反射的に青島の方に目を向けると、表情までは見えないが青島がこちらを向いているのがそのシルエットで分かりドキリとした。
返事をするにも、緊張が声に出てしまわないように気を遣わなければならなかった。
「どうした?」
「なるべく早く、屋根直してもらいますから」
改まって青島が言うが、そんなに気にしてくれていたのかと思うと、逆に申し訳ない気持ちになる。
湾岸荘は古い建物だから、ある意味雨漏りぐらいあって当然だし、その程度で目くじらを立てるようならわざわざ湾岸荘に住んだりはしない。
青島が湾岸荘を大事にし、手入れをこまめにしていることも知っている。
部屋で眠ることが出来ないという憂き目にはあったが、寝床も提供してもらっているし、惚れた相手と一夜を過ごすということ以外は、特に困ってもいなかった。
意外にもと言ったら失礼だろうが、管理人としての責任感が強いらしい青島に感心しつつ、室井はなるべく穏やかな声で応じた。
「そんなに気にしなくていい」
「あの…」
「うん?」
「これに懲りて、出て行っちゃったりしないでくださいね」
暗闇の中で室井は目を剥いたが、もちろん青島には見えておらず、その衝撃が伝わらずに済んだ。
例えそれが店子が減ることへの恐れから来る願いだったとしても、青島にいて欲しいと願われていることが嬉しかった。
「…好きでここにいると、言っているだろう」
照れや喜びを押さえたせいで、ひどくぶっきら棒な口調になってしまったが、青島は安心したように笑い声をあげた。
「でしたねっ」
青島は満足そうに、そうだったそうだったと繰り返し、「おやすみなさい」と言って寝がえりを打った。
室井ももう一度おやすみなと声をかけ、青島に背中を向けた。


その夜、室井は中々眠れずに雨音を聞いて過ごすことになったが、不思議とそう辛くは感じなかった。










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2012.5.14




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