■ 第二章 3.失恋


まだ暑さの残る夕暮れ時、室井は湾岸荘に帰ってきた。
仕事が早く片付いたので、いつもより早めの帰宅だった。
門を潜りながら見上げた夕暮れの中の湾岸荘は、一層ノスタルジックに見える。
環境には大分慣れたが、ここで暮らしているのかと思うと、未だに少し不思議だった。
玄関に入ると廊下は静かで、食堂には誰もいないようだった。
誰もいない食堂には室井も用事がない。
階段に向かおうと廊下を歩きながら、ちらりと青島の部屋のドアに視線を投げる。
閉じたドアを見つめたところで青島の姿が見えるわけでもないが、なんとなく視線がいった。
顔が見たいなと思って、室井は失笑した。
室井が帰って来たからといって、青島が一々顔を出す理由もない。
分かっているのに期待してしまう自分が嫌になる。
室井は視線を逸らして、青島の部屋の前を通り過ぎた。
通り過ぎた途端に背後から物音が聞こえた。
振り返ってみると、本当にドアが開いていて驚いた。
物凄いタイミングで願望が叶ったのかと思ったが、中から出てきたのは青島ではなかった。
後姿だけしか見えないが、小柄で髪の長い女性だった。
青島の部屋から出て来たその人は、立ち尽くす室井に気付くこともなく、玄関から出て行ってしまった。
それを呆然と見送り、室井は暗い気持ちになった。
―恋人がいたのか。
男の室井から見ても、青島は整った顔立ちをしているし、長身でスタイルもいい。
性格だって明るくて人当たりもいいし、室井の知る限りでは優しくて大らかだった。
青島が女性にもてないとも思えないから、恋人がいても当然だった。
尤も、仮に青島に恋人がいなかったとしても、男の室井が青島とそうなれるわけではない。
そんなことは分かり切っていて端から期待もしていないが、それでも彼に特別な人がいるのかと思ったら、やっぱり堪えた。
少なからずショックを受けた室井はその場を動けずにいたが、青島の部屋のドアが開いたままで一向に閉められる気配がないことが気になった。
中には青島がいるはずである。
彼女が戻ってくるのを待っているのかもしれないと思いつつ、それでもいつまでも閉じられないドアが不自然に思えた。
室井はそのまましばらく躊躇っていたが、悩んだ末に開いたドアから部屋の中をそっと覗いてみた。
誰もいなければただドアを閉めればいいと思ったのだが、やっぱり中には青島がいた。
窓際に座り煙草を吹かしている。
窓に背を向けていたから、彼女を見送っていたわけでもなさそうだ。
ただ、どこか沈んだ表情で煙を吐いている。
彼女とケンカでもしたのかもしれない。
室井は見てはいけないものを見てしまった気がした。
このまま立ち去るべきかと思ったが、これでは単なる覗きである。
室井は開いたままのドアを軽くノックし、青島の気を引いた。
ハッとして顔を上げた青島が室井を見て目を丸くしている。
「ドア、開けっぱなしだぞ」
室井が気まずさを押し隠して分かり切ったことを口にすると、青島は煙草を消して立ちあがった。
「帰って来てたんですね、おかえりなさい」
「ただいま…大丈夫か?」
余計な世話だと知りつつ、思わず声をかけた。
いつも笑っている男が暗い顔をしているのを見てしまったら、どうしても心配になった。
唐突で不躾な質問だったが、青島は迷惑そうな表情は見せずただ苦笑した。
「なんか、聞こえちゃいました?」
「いや、部屋から出て行く彼女を見かけただけだ」
「そうっすか…」
「ケンカでもしたのか?」
青島は室井を見下ろし、肩を竦めて見せた。
「ちょっと、ふられちゃいまして」
「それは…」
室井はそう呟いてみたものの、予想外の一言に二の句が続かなかった。
青島が振られたところだったとは、考えてもみなかった。
道理で表情が暗いはずである。
恋人がいることを知ってショックを受けた室井だったが、青島の不幸を望むわけではない。
ふられて良かったとは、全く思えなかった。
これで青島が女性だったら、また違ったかもしれない。
青島を口説くことも考えたかもしれない。
だが、室井も青島も男で、青島が恋人と別れたところで自分のものには決してならないことを、室井は知っている。
室井にできることは、精々好きな人の幸せを願うことくらいだった。
帰って行った彼女を追いかけて行って、この男の何がだめなんだと問い詰めたくなったが、もちろんそんなことをできるはずがない。
「あ、大丈夫ですから、気にしないでくださいね」
黙り込んでしまった室井に、青島が笑顔を見せた。
その笑顔が無理をしたふうでもなかったことが救いだった。
「済まない、余計なことを聞いた」
「こっちこそ、変なこと聞かせてすいません」
「いや…」
間の悪さを詫びてその場を去ろうかと思ったが、なんとなく後ろ髪を引かれる。
青島が寂しそうに見えたから、と言ったらただの言い訳になるだろうか。
だが、青島を一人にしたくないと思ってしまった。
それは室井の独り善がりなエゴに過ぎないが、好きな人のために何かをしたいと望むことは当たり前の感情だった。
「自棄酒なら付き合うぞ」
室井が言ったら、青島は目を丸くした。
大きな目で室井を見下ろし、瞬きを繰り返している。
馴れ馴れしかっただろうかと室井が後悔し始めた頃、青島がはにかむような笑みを見せた。
「マジっすか?」
迷惑そうでもなさそうなことに安堵して、室井は頷いた。
「はは…じゃあ、慰めてもらおうかな」
口下手な自分で青島を慰められるのかいささか不安ではあったが、そうできたらと望んだのは室井だった。
「では、食堂に行こう」
「あ、俺の部屋で飲みません?」
部屋を出ようとした室井は、その体勢のまま目を剥いた。
青島の部屋に、青島と二人きり。
酷く魅力的な誘いであるのと同時に、気が退けた。
酒に付き合うと言ったことには何の下心もなかったが、青島のことを好きだという自覚があるだけに、後ろめたいような気持ちになった。
「ほら、あっちで飲むと、皆来ちゃうでしょ?さすがに、ちょっと気まずいし…」
青島が苦笑しながら言うから、なるほどと思った。
確かに、失恋して自棄酒するというのに、ひと目が多ければ気まずいだろう。
それでは、気晴らしにはならないかもしれない。
青島のための自棄酒なのだから、青島の望む形でやらなければ意味がない。
多少の後ろめたさに目をつぶり了承すると、着替えてくると断って一度自室に戻った。


改めてお邪魔した青島の部屋は、室井の部屋となんら変わりがなかった。
管理人の部屋も店子と間取りは変わらないらしい。
若干室井の部屋より狭く感じるのは、室井の部屋より家具や雑貨が多いからだ。
部屋の隅に大量のアメリカンスピリッツの買い置きと、ミリタリー系の雑誌が積み重なっているのが目に付いた。
そういう趣味があるとは知らなかったが、その話題はまた今度にしようと思った。
今日は青島に気晴らしをしてもらうのが目的である。
とはいえ、自棄酒に付き合うとは言ったものの、誰かを慰めるという行為は室井の得意とするところではなかった。
何と声をかけたら良いのか分からないのだ。
余計な口を出すのは気が引けるし、元々誰かを元気づけてやれるような明るい性格もしていない。
室井と飲んだところで青島が益々暗い気分になってしまったらどうしようかと心配もしたが、強がっていないとは言い切れないまでも、少なくても目の前で酒を飲む青島は普段通りに見えた。
「この漬物、美味いっすね」
漬物をつまみに日本酒を飲みながら青島が言った。
どちらも室井の部屋から持参したものだった。
遠慮する青島に、誘ったのは俺だからと押しつけたものである。
「いぶりがっこというんだ」
「へえ。秋田の郷土料理ですか?」
「ああ、実家から送ってもらったものだ」
先日、実家に頼んで日本酒を送ってもらった時に、一緒に送られてきた漬物だった。
囲炉裏の上につるして燻製にした大根を、糠と塩で漬けた漬物である。
そう説明すると、青島は驚いた顔をした。
「室井さんのご実家、囲炉裏があるんですか?」
室井の実家は数年前に立て直され新しくなっていたが、年老いた両親が好むので囲炉裏は残されていた。
「じゃあ、囲炉裏で熱燗したり、魚焼いたり、きりたんぽ焼いたりするんですか?」
妙に食いつく青島に苦笑いして、室井は頷いた。
「たまにはな」
「わーいいなあー、囲炉裏できりたんぽとか、美味いんだろうなあ。焼くのもいいですけど、鍋もいいっすね」
青島もすみれほどではないにしろ食いしん坊なのか、囲炉裏端の料理をやけに羨ましがった。
その姿が微笑ましくて、思わず食わせてやりたい気持ちになったが、まさか実家に誘うわけにもいかなかった。
「囲炉裏は無理だが、きりたんぽなら作れるから、今度食わせてやる」
「室井さん、きりたんぽなんて作れるんですかっ」
目を丸くして大袈裟なリアクションを見せる青島に、慌てて付け足す。
「そんなに難しいものじゃないぞ」
「えー、凄いじゃないですか!」
素直に感心されて、室井は眉を寄せた。
好きな人に褒められれば室井だって嬉しいとは思うが、それより照れの方が勝る。
誤魔化すように酒を呷った。
「室井さんて…」
「…?」
グラスに口を付けたまま視線だけ向けると、青島は酒で少し上気した顔をやんわりと綻ばせた。
「優しいですよね」
室井は吹き出しそうになった酒をなんとか飲み干し、益々眉間の皺を深くした。
何故そんな話になるのか分からないが、いよいよ仏頂面になった室井に、青島は笑い声を漏らした。
室井の照れが伝わっているのかもしれない。
「別に、俺は優しくなど…」
「いぶりがっこ分けてくれるし、きりたんぽ作ってくれるって言うし、振られた俺のこと慰めてくれるしね。優しいですよ」
ちらりと青島を見ると、少しだけ寂しそうに笑っていた。
普段と変わらないような態度に見せていたって、失恋が心に痛くないわけがない。
青島が悲しいのかと思うと、何故だか室井も悲しかった。
きっと、結局のところ、室井は青島に何もしてやれない。
少しくらいの気晴らしになれればいいと、願うしかなかった。
「…飲め」
飲ませてやることしかできない自分を不甲斐なく思いながら、青島に一升瓶を差し出す。
青島は室井の気持ちを汲んでか、笑いながらそれを受けてくれた。


「俺ってそんなに八方美人ですかね」
ぶつぶつと零す青島に、飲ませ過ぎただろうかと室井は少し心配になった。
別に室井が無理強いして飲ませたわけではないが、室井が注いでやると、青島は拒まずに杯を重ねた。
また、青島自身飲みたがっているようにも見えた。
酒が何かを解決してくれるわけでもないが、誰にでも考えることを放棄したいことくらいあるだろう。
現実逃避ともいう。
逃げ続けることは良しとしない室井でも、振られた時の心情くらいは察することができた。
だから、青島の飲みたいだけ飲ませてやろうと思ったのだが、段々と座ってくる青島の目を見ていると、このまま飲ませてもいいものだろうかと悩んでしまう。
「室井さん、聞いてます?」
酔いで少しゆるんだ眼差しに見つめられて、室井は頬を強張らせながらも頷いた。
「聞いている」
「俺、いっつも同じこと言われて振られるんですよね」
そんなにふられているのかと意外に思いつつ、室井が首を捻った。
「八方美人と、言われるのか?」
「誰にでもいい顔しないでとか、誰にでも優しくしないでとか……優しいところが好きって言ってた子が、最後にはそう言うんですよ」
女の子は訳が分からないとぼやく。
青島は優しいと、付き合いの短い室井でも思う。
引っ越して来たての室井に何かと気を使ってくれるし、住人たちと早く馴染めるようにと心を砕いてくれていたことも知っている。
すみれや雪乃とのやりとりを見ていれば、なんだかんだと軽口を叩きながらも、彼女たちに気を配り親切にしていることが分かる。
フェミニストなのか、特に女性に対しては優しいように見えた。
付き合う前の女性にとって、そうした青島の態度が魅力的に見えるのも当然だろう。
だが、恋人になると、その優しさが自分だけに向かないことが気に入らなくなるのかもしれない。
「誰にでもいい顔をしてるつもりはないんですけどね…」
溜息交じりに呟く青島は落ち込んで見えた。
室井がじっと見ていると、視線に気付いた青島が苦笑した。
「あ…すいません、変な愚痴を聞かせて」
ふと素面に戻ったのか詫びてくれるが、そんな必要もなかった。
「いい、そのための自棄酒だ」
飲ませ過ぎてはいけないと思いつつも、青島の空いたグラスに酒を注いだ。
口下手な室井には、上手に青島を慰めることなどやっぱりできない。
だからといって酒を飲ませておけばいいと思っているわけでもない。
傷心の青島を癒す言葉など持ち合わせてはいないが、伝えておきたい言葉ならあった。
「俺は君の優しさを不快に思ったことは一度もない」
青島は黙って室井に満たされたグラスを眺めていたが、ちらりと上目遣いで室井を見た。
「そう、ですか?」
まるで室井が本気で言っているのかどうかを窺うように確認してくる青島に、室井は深く頷いた。
室井も少し酔っ払っているのか、本音が口を吐く。
「君のおかげで、引っ越して来て良かったと思っている」
そこに含まれる深い意味など、青島は考えもしなかっただろう。
だけど、青島が心底嬉しそうに笑ったから、室井にはそれで十分だった。
青島が少しでも元気になってくれれば、室井がここにいる意味もあるというものだ。
しかも、
「俺も室井さんが来てくれて良かったです」
そんなことを満面の笑みで言うから、尚更だ。
室井が勢いよくグラスを呷って中身を空にすると、青島が酒を注いでくれる。
「今日はとことんやりましょうね」
青島の誘いを、室井が断れるわけもなかった。










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2011.8.14




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