■ 第二章 4.二日酔い


遠くから何か耳障りな音が聞こえる。
その音が目覚まし時計の音だと気付いて、室井はのっそりと腕を伸ばした。
枕元に置いてあった目覚まし時計を止めて、重たい瞼を持ち上げる。
時間を確認するまでもなく朝だった。
起きようとして、ずきりと痛むこめかみに眉を顰めた。
軽い二日酔いを感じていたが、朝一から講義があるからいつまでも寝ていられなかった。
布団から這い出ると、カーテンを開けて、眩しい光にもう一度眉を顰めた。
いい天気だった。


顔を洗い、スーツを着て支度をすると、コーヒーを一杯だけ飲んで部屋を出た。
夜中まで飲んでいたせいか、食欲は無かった。
階段を下りて、青島の部屋の前を通り過ぎる。
静かな青島の部屋を一瞥し、青島は大丈夫だろうかと少し心配になった。
夕べは結局、青島はかなりの量の酒を飲み、最後には半ば潰れていた。
畳みに転がる青島を放置するわけにもいかず、今にも寝そうな青島を敷いてやった布団に押し込み、室井は自室に引き上げていた。
付き合っていた室井も軽い二日酔いを感じていたくらいだから、恐らく青島はもっと酷いことになっているではないだろうかと思った。
だが、まだ寝ているだろうし、二日酔いの時はあまりかかわってやらない方がいい。
室井は青島を気にかけつつも、そのまま玄関を出た。
玄関を出たところで、和久に会った。
湾岸荘の庭の一画には、和久の育てている盆栽が置いてあり、その世話をしていたようだった。
「おう、おはようさん」
室井の顔を見て、声をかけてくれる。
「おはようございます」
「早い出勤だな、先生は大変だ」
「ここは大学から近いから、随分楽です」
湾岸荘から通うようになり、通勤に時間が掛からなくなったため、前よりも随分と楽になっていた。
「そうかい、そりゃあ良かったな」
笑顔でいってらっしゃいと送り出されて、室井は目礼を返したが、和久に一つ頼みごとを思い付いた。
「和久さん、昼過ぎに一度青島の様子を見てもらえませんか」
「青島?あいつどうかしたのか」
「いや、夕べ飲ませ過ぎてしまって」
「なんだ、二日酔いの心配か、あいつもだらしねえなぁ」
呆れながらも、和久は苦笑して引き受けてくれた。
和久はなんだかんだと青島に説教をしているようだったが、説教もコミュニケーションの一つのようで仲は良さそうだった。
二日酔いの時に他人がしてやれることなど大してないが、和久が気にかけてくれていると思えば、室井は安心出来た。
「よろしくお願いします」
律儀に頭を下げて、室井は湾岸荘を後にした。


チャイムが鳴ると、教室内の空気がなんとなく緩む。
それを察して、室井は切りのいいところで講義を終えた。
「今日はここまで」
緊張から解放されたように教室内が騒がしくなり、室井は教壇から降りた。
室井の講義では学生たちの私語が少なく、比較的真面目に講義を受けていた。
それは、室井が口うるさいからではなく、室井の試験が難しいことで有名だからだ。
真面目に講義を受けなければ、単位が取れないのである。
だが、簡単に不可もつけない。
努力している学生は見捨てず、追試やレポート提出等でなんとか救済した。
だから室井の講義は学生に人気があった。
室井が自分の研究室に戻ると、ほどなくしてドアがノックされた。
失礼しますと断って入ってきたのは、室井の講義を受けている生徒の小原久美子だった。
彼女の名前を知っているのは、小原が時々質問をしに来るからだ。
教室内で聞かれることもあったが、話しやすいのか研究室まで来ることもあった。
室井は彼女のことを熱心な学生だと感心していた。
「どうした」
「教えてもらいたいことがあるんですが…」
やはりと思いながら頷いて、小原の質問に応じる。
黒板やホワイトボードがないから、メモ用紙にいくつか単語を走書きしながら丁寧に説明した。
小原は納得すると、室井に丁寧に礼を言った。
室井の印象では、彼女はとても勉強熱心で礼儀正しい生徒だった。
「あの、これ貰って行ってもいいですか?」
そう言って差し出されたのは、室井が走書きしたメモ用紙だった。
今の説明を思い出すのに必要なんだろうと思い、室井は頷いた。
「構わない」
「ありがとうございました!」
元気に礼を言うと、小原は退出して行った。
室井が一息吐いて椅子に座ると、またドアが開いた。
今度は突然開いたが、入って来たのが一倉なので驚かない。
驚かない代わりに、室井は嫌そうな顔をした。
「ノックぐらいして入ってこい」
「急に入られて困るようなことしてたのか?今の生徒と」
一倉がニヤニヤ笑いながら聞いて来るから室井の眉間に深い皺が出来るが、一々一倉の戯言に付き合ってもいられない。
「なんか用か」
素っ気ない室井に苦笑し、一倉は肩を竦めた。
「お前、最近忙しくないんだろ?久しぶりに飲みに行かないか」
そういえば湾岸荘に越して来てからというもの、一倉と飲みに行っていない。
一倉は学生時代からの友人であり、今は同じ大学に同じく准教授として勤めている。
いわば腐れ縁だった。
毎日顔を突き合わせるのはごめんだが、たまになら付き合うのも悪くない。
だが、今日はそんな気分にはならなかった。
他に気になることがあるからだ。
もちろん青島のことだった。
例え二日酔いになっていたとしても、二日酔いは時間が経てば治るが、心までは元気になるかは分からない。
失恋したての青島のことがどうしても気になった。
「今日は予定があるからやめておく」
室井がそう言うと、一倉は器用に片眉を持ち上げて見せた。
「最近付き合い悪いな。女でも出来たか?」
「そんなんじゃない」
「違うのか?それならそれで、寂しいヤツだな」
確かに34歳の独身者は、世間一般的に見れば、寂しいヤツだと思われるかもしれない。
それでも、室井は問題を感じていない。
ましてや、今は想い人がすぐ近くにいる毎日だ。
成就する見込みはなくても、傍にいられることは幸せだと感じていた。
だから、一倉に何を言われても痛くも痒くもなかった。
「余計な世話だ」
淡々と応える室井を、一倉は面白くもなさそうに見ていた。


湾岸荘に帰って来た室井は、古びた門のところで立ち止まった。
青島が玄関先でホースを持ち、打ち水をしながら煙草を吹かしていたからだ。
その姿を見る限り具合が悪そうでもなく、室井は安心した。
それにしても、本当にヘビースモーカーなんだなと思った。
何かをしながらでも、煙草を咥えていることの多い男だ。
青島の部屋にも随分と買い置きの煙草があったから、かなりの愛煙家であると予想がついた。
室井も喫煙者だから青島の煙草の匂いが気になるということはなかったが、青島の健康は気になった。
突っ立ったままそんなことをぼんやりと考えていたら、水を撒いていた青島が室井に気付き笑顔を見せた。
「おかえりなさい」
すぐに水を止めてくれるから室井と話しをするつもりであると察した。
そんなことがいちいち嬉しいだなんて、どこの中学生だと内心で自分に呆れながら、室井は青島に近づいた。
「体調は大丈夫か?」
「おかげさまで、午後になってやっと二日酔いから醒めました」
青島が肩を竦める。
つまり、大丈夫ではなかったということだ。
室井の予想通り二日酔いに見舞われていたらしい。
「飲ませ過ぎてしまったな」
「俺が勝手に飲んだんですよ。まあ、飲み過ぎには違いないですけど」
苦笑した青島が軽く頭を下げた。
「昨夜はすいませんでした。迷惑かけたんじゃないですか?」
「そんなことはない」
「布団敷いてくれたりしたの、室井さんですよね?良く覚えてないけど」
一応青島に断って布団を敷いたのだが、半ば酔い潰れていた青島が覚えているわけもなかった。
大したことはしていないと室井は言ったが、青島は面目なさそうに頭を掻いた。
室井に迷惑をかけたと反省しているようだったが、そんな必要は全くなかった。
「自棄酒に付き合わせて、すみませんでした」
「俺が好きでしたことだ」
そう答えると、青島は目を瞠った。
可笑しなことを言っただろうかと思ったが、本音だった。
青島を一人にしたくなくて自棄酒に誘ったのは室井だったし、青島が酔い潰れるまで付き合ったのも室井の意志だ。
謝ってもらう必要はなかった。
青島がじっと室井を見つめてくるから、居心地の悪さに室井は顔を強張らせた。
青島は人の顔をじっと見つめるくせがあるようだった。
好きな人に見られることに文句があるわけではないが、落ち着かないのも事実だった。
「な、なんだ」
室井が聞くと、青島は笑って「何でもないです」と首を振った。
「中で、お茶でもしません?」
ホースを仕舞いながら青島が誘ってくれる。
見たところ、青島は普段と何も変わらなかった。
結局のところ、失恋で青島の胸がどれだけ痛んでいるのか、室井には分からなかった。
青島にとっての彼女がどんな存在であるかなど知りようもなかったから、それで当然だった。
それでも、酒を飲んだくらいで失恋をすっかり忘れたわけではないだろうが、日常を当たり前に過ごそうと思えるくらいの元気はあるようでホッとした。
そして、その日常にいられることを、室井は嬉しく思った。
喜色を浮かべられるほど感情表現が豊かではない室井だが、青島の誘いには素直に頷いた。
二人揃って玄関に向かう。
先に立って戸を開けると、青島が振り返って少し顔を近付けてきた。
どきりとする室井に気付くこともなく、青島は微笑んだ。
「今度は、楽しい酒飲みましょうね」
自棄酒ではなく、楽しい酒を。
「…ああ」
できたら二人きりがいいなと思ったが、もちろん口には出せなかった。










END

2011.8.20




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