男に惚れるなど、生まれて初めての経験だった。
そのせいか自覚するのに少々時間がかかったが、今から考えてみればほとんど一目惚れだったように思う。
青島に惚れたから、湾岸荘に住むことを決めたのだ。
このアパートに住みでもしなければ、どこにも接点のない青島とは二度と会うことがない。
住人になってしまうことが、唯一青島と繋がりを持つ方法だった。
室井は自分の気持ちを理解しないままそれを選択し、結果現状に満足していた。
湾岸荘は古いが居心地は悪くなかった。
古い木の匂いも、畳みの上の生活も、歩くと軋む廊下も、慣れてしまえば気にならない。
壁が薄く隣の生活音が漏れ聞こえたりはするが、隣のすみれの生活音は静かだった。
住人たちは確かに賑やかだったが、常に騒がしいわけではなく、今のところ睡眠を妨げられるようなこともない。
青島と一緒にいたいがために借りたアパートだったが、思ったよりも快適で室井は気に入り初めていた。
仕事から帰宅した室井がドアを開けると、玄関にすみれがいた。
彼女も帰宅したところなのか、靴を脱いでいるところだった。
「あ、どうも」
すみれが小さく頭を下げてくるから、室井も返した。
「今帰りですか」
「ああ、君もか」
「ええ、お使いの」
「お使い?」
首を捻った室井に、すみれが手にしていた袋を差し出す。
中から何か良い匂いがしてきて覗き込むと、ケンタッキーフライドチキンと書かれた箱が入っていた。
「青島君に、帰りに買ってきてって頼まれちゃって」
青島と聞き内心ドキリとするが、すみれはそんなことにはお構いなしで、何やら憤慨している。
「仕事帰りの私をパシリに使うなんて、青島君のヤツ」
「…そう言うわりに、ちゃんと買って来てるじゃないか」
思わず突っ込むと、すみれがニコリと笑った。
「だって、私の分もご馳走してくれるって言うから」
「…そうか」
半ば呆れ気味ではあったが、室井は素直に頷いておいた。
すみれがかなりの食いしん坊であることは、室井の歓迎会の時に見て知っている。
すみれを動かすのには食べ物が有効であるという、一ついらない情報も得た。
先に廊下に上がったすみれだが、すぐに立ち去らず室井を待っていた。
「室井さんもどうですか?」
すみれに誘われて、室井は驚いた。
一緒にフライドチキンを食べないかと誘われているのだ。
青島といい、何故自分に声をかけてくれるのか不思議であった。
顔は怖いし面白みもないと室井は自覚しているが、このアパートの住人たちはそんなことを気にかけない人ばかりだった。
それを嬉しいと感じないわけではなかったが、戸惑いも大きい。
なんせ、室井はこういう扱いに慣れていなかった。
返事を待っているすみれに、室井は言葉を探した。
「…しかし、君の分が減るだろう」
「大丈夫です。山程買ってきたから」
だって青島君のお金だもんと言い放つから、若干青島に同情した。
そもそもそれだけの量を二人で完食する気だったのかと思ったが、すみれならやれそうな気もした。
「無理にとは言いませんけど、どうします?」
すみれに返事を促されて逡巡したが、結局室井は頷いた。
今朝は青島に会えなかった。
今から会えるなら会いたかった。
それが理由だった。
「おいしー」
それはそれは幸せそうな顔で、青島はチキンに齧り付いていた。
思わず、室井の手が止る。
「感謝しなさいよねー、私のおかげなんだから」
すみれが偉そうに言いながら、青島の奢りのチキンに手を伸ばす。
チキンはすみれの言った通り山程あった。
フライドチキンなど滅多に食べない室井からすると胸悪くなりそうなくらいだ。
チキンの他にはフライドポテトとコールスローサラダがあった。
「感謝してるってば。なんか急に食いたくなってさー」
青島が肩を竦める。
昼中に唐突に食べたくなって、すみれの携帯にメールし、お使いを頼んだらしい。
そういうことが室井にもないわけではないから気持ちは分かるが、その食べ物がフライドチキンであるということに、青島が自分よりも若い気がした。
「室井さん?食わないんですか?」
ふと気付けば、手を止めた青島が室井を見ていた。
室井は無意識に眉間に皺を寄せ、フライドチキンを齧った。
「たまに食べると、凄い美味しいわよね」
「すみれさんは他人の奢りだから余計じゃないの?」
「それもある」
にっこり笑うすみれに、青島は苦笑した。
確かに滅多に食べない室井でも、久しぶりに食べたフライドチキンは美味く感じた。
だが、油っぽいせいか、そんなには入らない。
途中からは、どんどんチキンが吸収されていくすみれの胃袋に驚かされていただけだった。
室井よりも食べてはいたが、最終的には青島も呆れ半分感心半分ですみれを眺めていた。
「良く食うね…」
「二人とも、もういらないの?」
「俺はもういいや、満足したし」
「俺もいい」
「室井さん、少食ねぇ」
君が食い過ぎなんだとは言えず、曖昧に頷いておいた。
代わりに青島が言う。
「すみれさんに比べれば、大抵の人は少食だよ」
すみれにジロリと睨まれて、青島は肩を竦めて室井を見た。
「30超えると、そんなに食えないっすよね」
「若い頃に比べたら、食う量は減るな」
「二人ともおじさんね」
一人20代のすみれが意地悪く笑う。
室井とすみれではそれなりの年齢差があるから、多少の違いがあっても仕方がないが、すみれの食欲はまた別問題のような気がした。
「油断してると、今に太るよ」
青島がいらぬ忠告をするが、すみれは涼しい顔だ。
「お生憎さま、太らない体質なの」
確かに大食らいのくせに、すみれは華奢だった。
太らない体質というのは本当なのかもしれない。
「室井さんも細いわよね」
「そうか?普通だと思うが」
「室井さんはねー、着痩せするタイプっすよね」
青島に言われて、ぎょっとした。
「ほら、風呂に一緒に行ったでしょ?あん時見たけど、結構筋肉質でしたよね」
引越し初日に、一緒に行った銭湯で見ていたらしい。
そんなふうに見られていたと思うと、なんとも気恥ずかしい。
青島の言葉に深い意味などないことは分かっているが、好きな人の視線はやっぱり気になった。
無表情の下で室井が地味に動揺していることなど気付くこともなく、すみれが茶化した。
「青島君はどうなのよ」
「俺?俺だってそれなりに…ねえ?」
室井に振られてもすこぶる困る。
正直、ろくに青島の身体など見ていなかった。
その時は好きだと気付いていたわけではなかったが、変に意識していたせいで直視できなかったのだ。
ただ、痩せていたと言うほど華奢な印象はなかったが、すらりとした身体つきをしていたように思う。
思うが、脳裏に浮かびかけた映像を、室井は慌てて打ち消した。
おぼろげな記憶でも、思い出せば身体に悪い。
「…太ってはいなかったぞ」
極力平常心を意識して室井が言うと、青島が「ですよねー」と笑った。
先ほどの仕返しか、すみれが意地悪く笑う。
「油断してると、太るわよ。ただでさえ、青島君は毎日家にいるんだし」
「仕方ないでしょ、俺、管理人が仕事だし」
いじけたように言って、青島は唇を尖らせた。
「まあ、管理人だなんつっても、特別なことしてるわけじゃないんだけどさ」
「玄関も廊下もここもいつもキレイだ。何もしていないということはないだろう」
思わず室井が否定すると、青島は少し驚いた顔をした。
各自の部屋はもちろん自己責任だが、共有スペースはいつもキレイに掃除されている。
それをしているのはもちろん青島だ。
古い建物だが、立てつけの悪いドアや痛んだ床がないのは、青島がこまめに手入れをしているからだろう。
建物の中だけではなく、アパートの敷地内もいつもキレイだった。
敷地内の雑草を抜いている姿を見かけたこともある。
青島が手をかけてくれているおかげで、湾岸荘の生活環境が良いものになっているのだと思った。
証拠にすみれも付け足した。
「花壇もキレイだしね」
玄関の前には、青島が植えた花が咲いている。
住人にわざわざ好みを聞いて種を巻き、水をやって、丁寧に育て上げているのも青島である。
「ちゃんと管理人の仕事をしていると思うぞ」
室井が真面目な顔で言ったら、青島は照れくさそうに、だけど嬉しそうに笑った。
「それなら、いいんですけどね」
このアパートの魅力は安い家賃でも駅から近いことでもなく、住み心地の良さだ。
それを作っているのは、間違いなく青島である。
室井が引っ越してきて良かったなと思うのは、青島と毎日会えるからというだけではなかった。
「チキン、奢ってくれるしね」
それが管理人の魅力だと茶化すすみれの言葉に、三人で笑った。
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