■ 第二章 1.お礼


「室井先生、さようならー」
大学の門を出たところで声をかけられた。
振り返るのと同時に、室井のゼミの生徒が自転車で追い抜いて行く。
「さようなら」
室井が挨拶を返すと、ペコリと頭を下げて帰って行った。
遠ざかっていく自転車を見ながら、室井も帰途につく。
自宅へは歩いて帰れる。
最近になって、歩いて帰れるようになった。


湾岸荘。
古びたアパートの玄関の脇に木製の看板が打ち付けてあり、そう書いてある。
これを書いたのは和久だという。
歓迎会の時にそれを聞き、改めて見れば随分達筆だった。
筆で字を書くのは慣れていなければ難しいから、書道でも習っていたのかもしれない。
玄関の戸は鍵が掛っていなかったので、青島はいるようだった。
住み初めて一週間が過ぎたが、室井が帰宅した時に玄関の鍵が掛かっていたことはないから、青島はあまり外出しないのかもしれない。
玄関の石畳で靴を脱ぎ靴箱に革靴をしまうと、サンダルを履いて廊下に上がる。
濃紺の和柄のサンダルは履き心地が良かった。
食堂から人の気配を感じて、壁に視線を向けた。
誰かいるようで、話し声が聞こえる。
青島の笑い声がしたから、青島がいることだけは分かった。
一瞬顔を出そうかとも思ったが、出したところで話すこともない。
挨拶しかしないのであれば、顔を出すこともないだろう。
結局室井は階段に向かって歩き出した。
乱暴に歩かなくても板の間が悲鳴を上げる。
このアパートに住んでいると、時々自分が通っていた小学校を思い出した。
「おかえりなさい、室井さん」
数歩と歩かずに声をかけられて振り返ると、青島が食堂から顔を出していた。
顔を出したまま、室井の返事を待っている。
「ただいま」
「室井さん、お疲れです?ちょっとこっち来ませんか?」
手招きされて、室井は踵を返した。
誘われれば断る理由はなかった。
室井が食堂に入ると、青島以外にもう一人いた。
話し声がしたからそれは分かっていたが、その人は室井の知らない人だった。
歓迎会の時にいた住人なら、顔と名前を覚えていた。
「初めて会いますよね?」
青島がソファーに座っている男を指した。
「草壁さん、うちの住人の一人です」
草壁は室井と視線が合うと、黙礼を寄越した。
室井も返しながら、人のことは言えないが目付きの悪い男だなと思った。
強面で迫力のある男である。
気が弱い人だったら、目が合ったら視線を逸らしてしまうだろう。
「こちら、新しく引っ越してきた室井さんです」
青島が紹介してくれる。
「よろしく」
「どうも」
短い挨拶を交わすが、それ以上の会話が続かない。
草壁も口数が多いタイプではなさそうだった。
沈黙が気まずいが、青島は気にしたふうではなかった。
「草壁さん、警備会社に勤めてるんですけど、仕事で家を開けることが多いんですよ」
だから、いるうちにと思って室井に紹介してくれたのだろう。
「ちょっと見た目恐いけど、いい人ですから」
青島はそう言うが、その褒めているのか貶しているのか分からない紹介には返事もし辛い。
「悪かったな」
草壁がむっつりと呟くと、青島がのんきに言った。
「いい人だって褒めてるんじゃない」
「褒められてる気がしない」
草壁が腰を上げた。
青島よりも更に背が高く、かなりの長身である。
身体は引き締まっていて、良く鍛え上げられているのが服の上から見ても感じられた。
「あれ?もう行っちゃうの?」
青島が言うと、草壁は頷いた。
「これから出かけるんだ」
「忙しいっすねぇ」
「仕事じゃない、ジムに行くだけだ」
「あ、そう…」
青島は苦笑したが、それ以上は何も言わなかった。
室井に向かってもう一度黙礼を寄越して、草壁は食堂を出て行った。
「あの人、身体鍛えるのが好きみたいで」
青島に言われて、道理でと思った。
仕事柄なのかと思ったが、身体を鍛えるのが好きなら天職なのだろう。
警備員なら、厳めしい顔つきも有効かもしれない。
「室井さん」
呼ばれて視線を向けると、青島が二コリと笑った。
「日本酒、ありがとうございました」
室井さんでしょ?と言って、青島が冷蔵庫をあけた。
中に室井が入れておいた日本酒がある。
勝手に入れておいたのだが、気付いてくれたらしい。
「いや、歓迎会のお礼だ」
冷蔵庫の中に名前を書かずにいれておけば勝手に飲み食いしてくれると聞いていたので、日本酒をいれておけば勝手に飲んでくれると思ったのだ。
「わざわざ買ってきてくれたんですか?」
「実家から送ってもらった」
「わざわざ!?」
青島の声が大きくなったが、対照的に室井の声は小さくなった。
気まずい。
「…誰か言ってなかったか?秋田の酒が飲みたいと」
米の話題も出た気がするが、米を分けて歩くわけにもいかない。
ただの世間話だったことは理解しているが、住人たちが酒好きなのは確かである。
あって困るものでもないと思って酒を用意したのだが、青島が随分驚いているようなので、余計なことをしたのかもしれないと少し後悔した。
「室井さん、律儀ですねぇ」
感心したように言われて、室井は益々気まずくなった。
「迷惑だったか?」
目を剥くと、青島はぶんぶんと首を横に振った。
首と一緒に顔の前で手も振る。
「まさか、なんでっ」
なんでと言われても困るが、力強く否定されてとりあえずはホッとした。
青島が笑みを零す。
「…なんだ?」
どこか嬉しそうな笑みにドギマギしながら、首を傾げる。
青島は笑ったまま今度は緩く首を振り、「ちょっと」と室井に断って戸棚の引き出しからマジックを持ってきた。
再び冷蔵庫を開けて一升瓶を取り出すと、そのマジックでデカデカと「アオシマ」と書いた。
かなり癖の強い字である。
室井が首を傾げたまま青島を見ると、青島は一升瓶を掲げて見せた。
「すみれさんに全部飲まれたら困るからね」
自分がいる時に開けてもらうために名前を書いたのだろう。
青島たちにお礼として差し入れた物だから、皆で飲んでもらえるに越したことはない。
「喜んでもらえたらなら、何よりだ」
「楽しみです。室井さんも一緒に飲みましょうね、てか室井さんの酒ですけど」
悪びれてぺろっと舌を出す青島に、室井は苦笑して頷いた。
差し入れのつもりで用意したのだから自分は参加しなくても良かったが、青島に誘われるとどうしても断りづらかった。
青島と一緒に酒を飲みたい、そんな願望があるからかもしれない。
不意に後ろめたい気持ちになり、室井は表情を強張らせた。
「そろそろ部屋に戻る」
「あ、そうっすか。引き止めてすみませんでした」
「いや」
室井は軽く頷き、青島を残して食堂を出た。
ホッとするのと同時に離れがたい気持ちになるが、その気持ちを抑えて階段を上る。
青島とはほぼ毎日顔を合わせていた。
挨拶するくらいしか会話がない時もあったが、大抵は室井の姿を見かけると青島が声をかけてくれた。
その度、室井はなんとも言えない気持ちを覚えた。
それは随分昔に覚えた感覚で、久しく感じたことのない感覚だった。
声を聞いただけで、胸が疼いて心が騒ぐ。
姿を見れば目が離せず、それなのに顔を見れば直視できない。
傍にいたら、離れたくないと思った。


信じられないことに、室井は青島に惚れていた。










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2011.8.5




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