■ 第一章 4.朝


目を開けた室井は、見慣れない天井に驚いた。
寝ぼけた頭で見上げた木造の天井は、何故か小学校の教室を思い出させた。
それも一瞬で、すぐに引っ越ししたことを思い出す。
むくりと起き上がると、カーテンを開けて目を細めた。
今日も天気が良い。
視線を少し落とすとアパートの門や前庭が見え、小さな花壇に花が咲いていた。
一本だけ大きな木もあり、それは桜の木のように見えた。
すくすく育った木は室井の部屋の窓から見ると丁度いい高さになる。
春には桜が見られるのだろうか。
そんなことを少しの間考えたが、ぼんやりと外を眺めている時間もない。
室井は窓から視線を逸らすと、布団を畳み押入れにしまった。
食パンを焼いて簡単な朝食を取ると、流し台で洗顔を済ませる。
前に住んでいた部屋には洗面台くらいあったから、流し台で顔を洗い歯を磨くことに多少の違和感があったが、大したことではない。
すぐに慣れるだろう。
押入れの中からスーツを取り出し着替えて身支度を整えると、鞄と革靴を手に部屋を出た。


玄関には、見知らぬ男女の姿があった。
「雪乃さん、帰り待ち合わせしてご飯食べに行きませんか?」
「今日はダメです。すみれさんとご飯食べに行くんです」
「そう…そっか……あ、じゃあ、三人で行こう」
ガッカリした顔をしたが、すぐに改めて誘い直す。
めげない性格らしい。
雪乃と言う名は、昨日青島の口から聞いていた。
二人いる女性の入居者のうちの一人だった。
座ってパンプスを履いていた雪乃が立ち上がると、長身であることが分った。
隣に立つ男とほとんど変わらない。
男の方はスーツ姿だったが、彼女はジーンズにブラウスというラフな格好だった。
髪を後ろで一本に束ねていて、凛とした横顔が見える。
美人と言って差し支えなかった。
「ね、雪乃さん」
「ダメです」
ピシャリと言われて、男が目尻を下げて情けない顔をした。
「なんで?」
「真下さん、この間、遅刻した」
「あ、あれは、仕事でどうしてもっ」
「連絡もくれなかった」
「裁判が長引いちゃってさ、できなかったんだよ」
「真下さんから誘ったのにー」
雪乃がそっぽを向くと、真下は慌てて謝った。
「ごめん、ごめんね、今日は大丈夫だから、絶対っ」
拝むように必死に謝る真下をちらりと見て、雪乃は笑みを見せた。
「冗談です、怒ってません」
ほっとして力が抜けたのか、真下はまた情けない顔をした。
「良かった…」
悪い男ではなさそうだが頼りないのではないだろうか、というのが室井の印象だった。
真下という名も昨日青島から聞いた名だった。
年は青島と同年代だろうが、青島が30歳だというからそれよりはいくらか若いかもしれない。
室井が玄関に近付いていくと、雪乃が振り返った。
「あら…」
二人の珍しいものを見るような視線に気まずくなる。
「あー、新しい入居者の方ですか?」
真下が言うから頷いた。
「室井です、よろしく」
「どうも、真下正義って言います」
「柏木雪乃です。よろしくお願いします」
笑顔を見せる二人に目礼を返す。
真下が身体をずらして、室井に道を開けてくれた。
玄関で靴を履いていると、雪乃が声をかけてくる。
「これからご出勤ですか?」
「ああ、君たちもか?」
「ええ、僕らもです。ね、雪乃さん」
「真下さんと一緒に行くとは言ってないです」
涼しい笑顔で素っ気ない雪乃に頬を強張らせたが、慣れっこなのかすぐに気を取り直して室井を見た。
「あ、歓迎会、歓迎会やりましょうよ、室井さんの」
真下の思い付きに室井は驚いたが、雪乃はすぐに同意した。
「そうですね、折角ですから」
「今夜にしましょうよ、今夜に」
早い方が良いでしょうと雪乃を促しているが、下心が見えなくもない。
真下は雪乃をしつこく食事に誘っている。
歓迎会なら真下も雪乃と食事ができるから、目的が果たせるのだろう。
「じゃあ、すみれさんに伝えておきますね」
雪乃があっさりと頷くと、真下は目を輝かせた。
すみれと三人でという誘いは無下に断られているというのに、特に気にしたりはしないらしい。
案外強いのかもしれない。
それとも鈍いのか。
「室井さんは大丈夫ですか?」
不意に雪乃に聞かれて、室井は顔を強張らせた。
「いや、わざわざそんなことをしてもらうのも…」
彼らとは友人でも顔見知りでもないのだ。
ただ引っ越してきたというだけで歓迎会をしてもらうというのは気が引けた。
だが、真下も雪乃も笑顔で首を振る。
「ご縁があって同じアパートに住むんですし」
「それに、どうせ僕らは何かにつけて酒盛りしてますからね、ついでに」
「真下さん」
そんな誘い方があるかと雪乃が咎める。
青島の言う通り、食堂は有効活用されているらしい。
真下が慌てて付け足した。
「ほら、他の人たちと会っておくのもいいかなって」
「都合が良ければ是非」
室井は逡巡したが、確かに他の住人と顔を合わせておきたいとは思っていたので丁度いいのかもしれない。
「参加しよう」
二人は目を輝かせると、「じゃあ、今夜に!」と約束を交わした。
皆に連絡しなきゃとか、買い出しはどうしようかとか、打ち合わせを始めた二人に目礼をし、室井は先に玄関を出た。


外に出ると、青島がいて驚いた。
こちらに背中を向けているが、何をしているのかは分かった。
門の前にある小さな花壇に、ホースで水を撒いているらしい。
青島の頭の上に白い煙が立ち上っている。
咥え煙草で水やりをしているくらいだから、もしかしたらヘビースモーカーなのかもしれない。
室井が砂を踏んで近づくと、その音で気が付いたのか青島が振り返った。
「おはようございます、室井さん」
「おはよう」
「良く眠れました?」
「ああ、お陰様で」
「そりゃあ、良かった」
咥え煙草のままニコッと笑う青島に目を細める。
別に眩しかったわけではなかったが、何故だか自然とそうなった。
室井は青島の隣に立つと、花壇に目をやった。
「こういう手入れは君がしているのか?」
「ええ、まあ。俺、管理人さんですから」
どこかおどけたように言う。
室井の部屋の窓からも見えた花壇には、コスモスが植わっていた。
ちゃんとレンガのようなブロックで囲われていて、小さいながらも立派な花壇だった。
「花は毎年すみれさんと雪乃さんのリクエストで植えてるんですけどね」
「そうか」
一人暮らしの殺風景なマンションではあまり意識したことがなかったが、緑が視界にあるというのはいいものだ。
「悪くないな」
本心から出た言葉だったが、口に出してしまって少し後悔した。
随分と偉そうな評価になってしまった気がした。
褒めるのであればきちんと「いいものだ」と褒めれば良いものを。
「そう言ってもらえると、嬉しいっすね」
青島を見ると、屈託なく笑っていた。
「正直、花なんて柄じゃないんだけど」
花壇に視線を落とした青島につられて、室井も花壇に視線を落とす。
「誰かの目に止まって、喜んでもらえるっていうのは、やっぱり嬉しいな」
少し弾んだ声に、素直な男だなと思った。
馬鹿にしたわけではなく、どちらかといえば感心するような思いだった。
青島に視線を向けると、青島は相変わらず花を見下ろしていた。
不意に青島が顔を顰めた。
「…煙い」
咥え煙草の煙が目に入ったらしく、顔を顰めたまま瞬きを繰り返すから、室井は思わず笑ってしまった。
煙草を手に持ち、照れ笑いを浮かべた青島が室井を見た。
見られて笑みが引っ込む。
笑い返す。
そんなことができなかった。
「…もう、行かなければ」
慌てて視線をそらし、時計を見た。
その仕種が時間がなくて急いでいるように見えたのか、不自然ではなかったようで、青島も納得したように頷いた。
「あ、足止めしてすいませんでした」
「いや、俺が勝手に止まったんだ」
律儀に訂正する室井を青島が凝視していたことに気づくこともなく、室井は「それじゃあ」と歩きだした。
背中に「いってらっしゃーい」という青島の声が聞こえる。
いってきますというべきかどうか。
どうでもいいことを逡巡し、結局振り返って小さく頭を下げた。
青島が手を振っているのを視界に入れ、室井は背を向けた。










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2008.10.20




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