衣類をタンスや押し入れにしまうと、部屋の中は粗方片付いた。
布団は押し入れにしまわず部屋の隅に積んであったが、もう数時間もしたら使うので出しっぱなしにしてあった。
一部屋しかない引っ越しというのも、利点があるものだ。
片付けに時間がかからなくていい。
さすがに一日かかったが、明日は仕事なので今日中に終えられて良かった。
夕飯は青島に教えてもらったスーパーで弁当を買ってきて済ませたので、後は風呂に行って寝るだけである。
銭湯の場所も、青島に聞いてあった。
室井は着替えや洗面道具等を適当な袋につめると、部屋の鍵を閉めて外に出た。
階段を降りると、玄関のところでぼんやりと煙草を吹かしている青島の姿を見つけた。
傍に寄ると煙草の匂いがしたから喫煙者であることは知っていたが、吸っている姿を見るのは初めてだった。
「あれ?お出かけですか?」
室井に気づいて、声をかけてくる。
「風呂に行ってくる」
「あ、なら一緒に行きません?俺らも今から行くとこだったんです」
俺らと言うわりには、青島の姿しか見えない。
首を傾げた室井に、青島は二階を指差してみせた。
「すみれさんも行くって言うから、待ってるんですよ」
一緒に行くと言っても、もちろん同じ風呂に入れるわけではない。
銭湯まで一緒に行くという意味だろう。
「もう来ると思うんですけど……あ、来た来た」
言って、携帯用灰皿に煙草を捨てる。
「ちょっとー、どこででも吸わないでって言ってるでしょー」
その女性は姿を見せるなり、いきなり青島に文句を言った。
言い方が管理人に向かってというよりは、夫にでも言うような気安さだった。
青島は苦笑している。
「ごめんごめん……コレ、すみれさんです」
室井に向かってすみれを紹介してくれる。
小柄で華奢な身体つきの女性だった。
大きな瞳が印象的で、どことなく猫っぽい雰囲気がある。
彼女が動くと、肩に触れるか触れないかという長さのキレイな黒髪が揺れた。
室井を見上げて、目を瞬かせている。
「あら、新しい入居者の?」
「うん、室井さん。すみれさんのお隣さん」
どうやら室井は、彼女の隣の部屋に入居したようだった。
「室井です、よろしく」
小さく頭を下げて挨拶をすると、すみれもぺこりと頭を下げてくれる。
「恩田すみれです、よろしく」
歯切れのいい口調が、耳触り良かった。
「室井さんもこれから風呂だっていうから、一緒にって誘ったんだ」
「そう、じゃあ行きましょうか」
靴箱からサンダルを取り出し先に外に出たすみれを追って、青島も室井も外に出る。
室井は青島に勧められて玄関に置いてあったサンダルを借りた。
「なんでこんな時期に引っ越しを?」
青島を挟んで銭湯までの道程を歩きながら、少し身を乗り出し室井の顔を覗き込むようにしてすみれが聞いてくる。
初夏という半端な季節の引っ越しを、不思議に思ったらしい。
特に変わった理由があるわけではなかった。
「職場が変わったせいで、通勤が不便になったんだ」
室井の職場は大学で、現在は准教授という肩書だった。
昔世話になった教授に呼ばれて、この春に大学を移っていた。
元の住まいからでも、新しい大学に通って通えないことは無かった。
そのためしばらくは頑張って通ってみたのだが、教授の研究に付き合い残業をしていて一週間ばかりまともに自宅に帰れない日々が続いた結果、大学の近くに部屋を借りた方が都合がいいという結論に達した。
こういう時に融通が利くのが独身のメリットである。
だからこそ、気軽に風呂なし木造アパートに引っ越せたともいう。
生活が苦しいのならともかく、室井の生活水準では有り得なかった。
「ここからは職場が近いんですよねー」
青島が言うから頷いた。
管理人である青島には勤務先を知らせてあった。
「歩いて行ける距離だな」
「いいなぁ」
何故か不服そうなすみれに、青島は苦笑した。
「すみれさんの勤務先も電車でたった二駅じゃない」
電車で二駅ならすみれの勤務先も十分近いと言えたが、それでもすみれは不服そうだった。
「一駅でも近い方がいいに決まってるでしょ。通勤する必要のない青島君には分かんないでしょうけど」
「人をニートみたいに言わないでくれる?」
唇を尖らせた青島に、すみれは悪びれた様子もなく舌を出してみせる。
「こりゃ、失敬」
本当にそう思っているのか分からないすみれを指差し、青島は室井を見た。
「こういう人です」
「指差さない」
軽く手をはたかれた青島は情けない顔ですみれを見て、室井の耳元に顔を寄せた。
「すみれさんには逆らわない方がいいですよ」
吐息が耳に触れる。
何故か肌が粟だった。
「初対面の人に変なこと吹き込まないでよ」
「大丈夫大丈夫、事実しか言ってないから」
「なに?」
ぎゃあぎゃあとじゃれあう二人を横目で見ながら歩く。
とりあえず、二人の仲が良いことだけは良く分かった。
銭湯は本当に近かった。
駅に行くよりも近いくらいで、歩いても三分とかからなかった。
玄関で靴を脱ぎ中に入ると、券売機があった。
そこで券を買い受け付けに渡し、男風呂女風呂と書かれた分かりやすい暖簾の前ですみれと別れる。
「まぁ、俺たちの方が早いと思うけど、すみれさんの方が早かったら待っててね」
青島が言うと、すみれは肩を竦めた。
「帰りは別でいいわよ、すぐそこだし。一人で帰れる」
「野郎二人で帰るのも寂しいでしょ」
ふざけたように言って、いいから待っててと念を押すと、すみれは少し照れくさそうに笑った。
「んー、うん、分かった。じゃあ、また後でね」
二人に手を振り、すみれは暖簾の向こうに消えて行った。
「さて、俺たちも行きましょうか」
「ああ…」
頷きながら、青島はフェミニストなのだろうかと思った。
夜道を女性一人で歩かせることが好ましくないのは分かるが、この距離では少し過保護な気がした。
それとも、もしかしたらすみれは青島の特別な女性なのだろうか―。
「タオルとか持ってきてますよね?なければ受け付けでも買えますけど、シャンプーとかなら貸せますよー」
脱衣所でロッカーの前に並んで立った。
青島はロッカーの中に荷物を適当に押し込み、無造作に着ていたシャツのボタンを外し始める。
今更だが、気が付いた。
一緒に銭湯にくるということは、一緒の風呂に入るということだ。
「室井さん?」
固まっていた室井に、青島もボタンを外す手を止めて不思議そうな視線を寄越した。
室井はハッとして、首を振った。
「いや、大丈夫だ、タオルも全部持ってきている」
青島から視線をそらし、ロッカーを開けて着替えを始めた。
「そうすっか」
青島も特に気にしたふうもなく着替えを続ける。
―裸になることが、なんだというのか。
内心で自分に突っ込みをいれながら、機械的に手を動かした。
銭湯にくれば、裸になることは当然である。
男相手に妙な意識をする方がおかしい。
黙々と着替える室井の横で青島はさっさと裸になると、「先行きますねー」と断って風呂場に向かって行った。
「ああ」と返事をしながらも、何故かそちらを見ることができなかった。
室井が湯船に浸かっていると、青島が隣にやってきた。
「あー気持ちいい」
と呟いてタオルで顔を拭う。
額が全開になり、また若く見える。
見るともなしに見ていたら、青島の視線がこちらを向いた。
「室井さん、ご家族は?」
「独身だが、両親は秋田にいる」
「へぇ、秋田の生まれなんですか」
「ああ、大学までは秋田にいた」
「秋田かー、秋田…秋田って雪降るんですよね?」
子供みたいな質問に、思わず笑ってしまった。
「ああ」
青島は室井の顔を見てきょとんとしたが、すぐに笑みを見せた。
「いいなぁ」
うらやましいですと言いながら、広い浴槽の中で手足を伸ばす。
「場所に寄っては酷い豪雪だぞ」
「俺、ずっとここだから、雪ってスキー場くらいでしかほとんど見たことないんですよねー」
「ここって…あのアパートにずっと住んでるのか?」
年代物のアパートだからそうであってもおかしくはなかった。
「ええ、湾岸荘は元々うちの祖父さんのやっていた下宿だったんですよ」
青島の両親の代で下宿からアパートに変わり、青島たち家族もずっとこのアパートで暮らしてきたのだという。
「今はご両親は?」
青島が大家をやっているくらいだから、両親が湾岸荘にいないことは想像がついた。
不用意なことを聞いてしまっただろうかと思ったが、意外な返事が返ってきた。
「ハワイにいます」
「ハワイ?」
目を丸くした室井に、青島は苦笑した。
「祖父さんが何故かハワイにも土地持ってて、湾岸荘を早くに親父に預けてそっちに移ってたんです。祖父さんが死んだ後、今度は親父たちが俺に湾岸荘を預けて、ハワイに」
それで青島は若くして管理人に収まっているらしい。
土地を売るという選択肢は、なかったようだ。
「ハワイで、何を?」
「あっちでもアパートの管理人やってますよ」
ふと、そしたらいつかは青島もハワイに移住するのだろうかと思った。
思ったら、なんとなく嫌な気分になった。
そんなことは青島の勝手で、室井にはなんの関係もない。
管理人がいなくなれば、青島が土地を売ってしまえば、湾岸荘はなくなってしまうだろう。
そういう意味では無関係ではないことだが、まだ一泊もしていないアパートにそこまでの思い入れがあるわけではなかった。
では、何が嫌だったのか。
良く分からないまま、青島の話に耳を傾ける。
「うちの両親、湾岸荘よりずっと新しくてきれいだぞーなんて喜んでましたけどね」
「湾岸荘と比べれば、たいていの建物は新しいんじゃないか?」
冷静に突っ込むと、青島は一瞬考えるような顔をして、すぐに笑みをこぼした。
「そういや、そうっすね」
青島の笑顔につられて、室井の表情が和らいだ。
何かを発見したように、青島の目が輝く。
「髪下りてると、若く見えますね」
いつもオールバックにしているが、今は濡れたせいで髪が下りていた。
大きな目でまじまじと見つめられて、室井の眉間に皺が寄る。
顔を強張らせた室井に、青島は慌てて伸びきっていた身体を縮こませた。
体育座りになり、室井の顔を覗き込んでくる。
「あ、なんか気に障りました?すみません、俺はただ…」
「いや、別になんでもない」
青島の言葉を遮り、室井はタオルで顔を拭った。
ついでに眉間を伸ばす。
「これは癖だから、気にしないでくれ」
短い説明だったが眉間の皺のことだと分かってくれたのか、青島は何度か瞬きをしてから笑った。
「そうっすか」
何がおかしかったのか分からないが、何故か楽しそうに笑っている。
その顔を見ていたら、理由などなんでもいいかと思った。
青島がもう限界と言って浴槽から出ていくまで、とりとめのない話しをして過ごした。
一番衝撃的だったのは、青島の年齢が室井と4つしか違わないことだったくらいだから、本当にとりとめのない話ししかしていない。
だけど、たまには誰かとこういう時間を共有するのも悪くない、そう思えた。
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