結局、細かい整理は後回しにして、室井は青島と共に階段を降りた。
二階には室井の部屋を含めた貸し部屋がいくつかあるだけだった。
「俺の部屋は分かりますよね?玄関の隣りです」
「ああ」
そこから青島が出てくるのを見たことがあるから、そこが青島の部屋なのだということは予想がついた。
青島の部屋の前を通り過ぎると、玄関の前で足を止める。
「靴箱は共有なんで、良かったら使ってください」
玄関の脇に大きな靴箱があった。
靴箱を借りなければ、都度部屋から靴を持ち運びしなければならない。
親切な配慮ではあるが、下宿だったというから元からあった靴箱を有効活用しているだけかもしれない。
「一人二足までです」
青島が室井に向かってピースをした。
言われるまでもなく、それほど沢山の靴を同時期に履くことはなかった。
室井の気持ちを察したのか、青島は肩を竦めた。
「女の子は放っておくと、靴がいっぱいになるみたいで」
パンプスサンダルスニーカー、それだけでも三足になるが、パンプス一つとってみても衣類や用途に合せて履き替えたりする。
それらの全てを玄関に置かれたら、靴箱がいくらあっても足りないだろう。
そのため、出来た約束が『一人二足まで』なのだ。
「なるほど」
室井が納得すると、青島は苦笑した。
「ちょっと面倒くさいと思いますけどね」
「いや、どうせ普段は決まった靴しか履かないから」
「サンダルはいくつか置いてあるので、適当に履いてください」
「ありがとう」
「ボロですけど」
言われて玄関の石畳に視線を落とすと、年代物のサンダルが三足置いてあった。
「この隣りが、食堂になってます」
玄関を中央に見て、青島の部屋とは逆隣りが食堂だった。
壁を挟んでいて気が付かなかったが、食堂にはドアがなかった。
中に入ると手前に台所の入り口があり、小さなカウンターがあった。
青島の部屋よりも広い食堂には、ダイニングテーブルの他に冷蔵庫やテレビ、ソファーなどが置いてあり、ちょっとしたリビングのようだった。
「ここは自由に使ってください」
冷蔵庫を開けて見せる。
「冷蔵庫の中の物は、名前が書いてあるものには気をつけてくださいね」
見ると、確かに名前が書いてあるお菓子や飲み物が入っていた。
やけに『すみれ』と書いてあるものが目立つ。
「名前がないものもあるみたいだが」
「それは、誰が食べてもいいってことになってます」
食べ切れずに持て余しているものや、最初からお裾分けのつもりで買ったものを冷蔵庫に入れて行く人がいるらしい。
入居者の談話室みたいになっているようだから、皆で食べようという気持ちは分かる。
おそらくここの入居者たちは入居者同士で仲が良いのだろうということも、理解できた。
だが、室井は首を捻った。
「なら、そうでない個人のものは、自分の部屋に置いておけばいいんじゃないのか?」
名前を書いてまで食堂に置いておく意味が分からなかった。
「皆で食べたいけど、勝手に全部食べられるのはいや!」
言いながら、青島はすみれと書かれたワインのボトルを指差した。
「そう彼女が言ったので、必要なものには名前を書いておくことにしたんです」
名前を書いてあるものは、本人がいない時に手をつけてはいけない決まりになっているらしい。
「…なるほど」
言われてみれば分からないこともない気がするが、曖昧に頷いた室井に青島は笑った。
「ま、主にすみれさんの主張なんですけどね」
「他にも女性はいるのか?」
「もう一人、雪乃さんって子が……まだ誰とも会ってないんですよね?」
他の入居者と、という意味だろうと判断して頷いた。
「挨拶に行くべきだろうか」
引っ越してきたら両隣りくらいには挨拶すべきだろうが、ここなら全員にしておいた方が良いような気がした。
人数が少ないし、顔を合わせる機会も多いかもしれない。
「わざわざ行かなくても、すぐに皆と顔を合わせますよ」
時々ここを覗いてみてくださいと言った青島は、何故か嬉しそうに笑った。
「分かった」
「コーヒーでいいです?」
頷いた室井にソファーに座るよう促して、青島は台所に向かった。
お言葉に甘えてソファーに腰を下ろし、辺りを見回す。
ソファーの前にはローテーブルがあり、その上には新聞が置いてあった。
テレビ台の隅に、名前が分からない小さな花の鉢植えがあり、その横の床には大きな盆栽が置いてある。
立派だが、何故ここに。
「それ、和久さんていう人が育てたんですよー。立派だけど地味でしょ?」
カウンター越しに、青島が覗き込んで苦笑している。
「この花もか?」
「そっちは雪乃さん。名前はなんて言ったかな、えーと、忘れちゃいましたけど、可愛いですよね」
あははと笑う青島に、室井も苦笑した。
「皆がなにか持ち込むから、妙に物が増えちゃって」
壁際にある本棚の中身もほとんどが入居者の持ち込んだものだという。
入り切らないのか、漫画雑誌が床に積み上げられていた。
「あれは、真下のだな。いい歳して、漫画が好きみたいで……まぁ、俺も読ませてもらってますけど」
コーヒーのマグカップを持ってやってきた青島は、悪びれずに笑った。
室井の向いに腰を下ろし、クッキーの缶の蓋を開ける。
「これは魚住さんの出張のお土産なんで、食べていいことになってるんです」
言われて見れば、どこにもすみれとは書いていなかった。
「入居者みんな、仲が良いんだな」
「ええ、まぁ、そうかな」
「今時、こういうアパートはちょっと珍しいと思うが」
「付き合いが長いもんでね」
青島は苦笑したが、すぐに「あ」と呟く。
「面倒くさい?鬱陶しい?」
焦ったように聞かれて室井は目を丸くした。
「別に無理に仲良くしなきゃいけないってことはないですからね、仲は良くても干渉はしない人たちなんで、放っておいて欲しかったらそうしてくれますから」
どうやら室井が合わないと感じているのではないかと心配になったらしい。
室井は首を振った。
「そんなことは」
自分からそんな輪に入って行けるほど社交性はないが、関わりたくないと思うほど一人が好きなわけではなかった。
「ただ、変に気を使わせるのも申し訳ない。とっつき難い顔と性格なのは自覚している」
だから相手が近付いてこないのだ。
いつだって、室井と誰かの間には距離ができる。
青島は少し驚いたような顔をしていたが、笑顔を見せた。
さっきのような嬉しそうな笑顔。
「そんなことないですよ、室井さんは」
そういえば、青島とは比較的距離が近い。
最初から、普通に会話をしている。
それは室井がどうとかいうよりも、青島が普通に接してくれているからだ。
よくもこんな無愛想な男にと思うくらい、青島は室井とは対照的に愛想が良かった。
「ほら、俺の相手をしてくれてるじゃない」
だからとっつき難いなんてことはないと言ってくれる。
―それは「君が俺の相手をしてくれている」の間違いだ。
そう思ったが、口にはしなかった。
室井が言うと暗くなりそうだったからだ。
折角の青島の気遣いを無駄にすることもない。
「そのうち皆に会いますけど、きっとうまくいきますよ」
自信ありげに言う青島には半信半疑な視線を向けたが、笑顔を返されれば何も言えなくなる。
「…だと、いいんだが」
「俺が保証しますって、大丈夫」
根拠も何もなさそうだったが、青島の「大丈夫」という言葉が妙にくすぐったく、そして嬉しくもあった。
それを誤魔化すように、室井はコーヒーに口をつけた。
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