■ 第一章 1.引っ越し


アパートの前に車を寄せて止めた。
駐車場はアパートの裏側にあったが、荷物を下ろすのが先だった。
後部座席とトランクが荷物で埋まっている。
荷物はこれだけではなく、後ろに止ったステーションワゴンにも積んである。
運転して来たのは一倉で、車自体は知人からの借り物だった。
室井のセダンより大きな荷物が入るから、テレビや冷蔵庫を積んでいた。
エンジンを切り車のドアを開けると、上がり始めた気温と多少の湿度を感じる。
初夏に差し掛かったばかりでむせ返るほどの暑さはないが、正午を過ぎれば大分気温があがってくる。
上がり切る前に終えてしまいたいなと思いながら車から降りると、一倉も外に出て来た。
「引っ越しくらい業者に頼めば良かったのに」
「大した量じゃないんだ、自分でやった方が早い」
後部座席のドアを開けて、ダンボールを運び出す。
元々余計な物の少ないシンプルな部屋に住んでいたが、今まで住んでいたところよりかなり狭い部屋に移るとあって、更に不要なものを処分してきていた。
ベッドやパソコンラックなどは、無くてもどうとでもなる。
読まなくなった専門書や小説も結構あったから、まとめて古本屋に持って行った。
田舎から出てくる時に持参して来たオーディオ一式もろくに使っていなかったから処分し、代わりに新しく小さなラジオを一つ買った。
食器や調理道具等は、一人暮らしのため元々多くはない。
洗濯機は買い替えたので、後日新居に直接届くことになっている。
その他運び込まなければならないのは、衣類や生活必需品くらいだった。
そしたら、業者に頼るまでもなかった。
一倉の、友人の手を借りるだけで充分である。
一倉にはいい迷惑かもしれないが。
「部屋はどこだよ」
「二階の角部屋だ」
「二階か…」
うんざりした声に室井は苦笑した。
年代物の木造アパートの見た目通り、エレベーターなんてものがあるはずもなかった。
「いい運動になるだろ」
「良く言う」
鼻白んだ一倉の声に被さるように、のほほんとした声が響いた。
「おはようございまーす」
視線を向ければ、アパートの玄関から青島が出て来ていた。
会うのは二度目だが、声を聞くのは四度目だ。
契約は仲介している不動産と行なったが、契約後に入居の打ち合わせのため二回ほど電話で話しをしていた。
「おはよう」
室井が挨拶を返すと、青島はニコリと笑った。
青空に良く映える笑顔。
「ようこそ、湾岸荘へ」
室井は無意識に目を細めて頷いた。
「世話になる」
「こちらこそ」
固まりそうな視線を引き剥がし、一倉を振り返る。
「管理人の青島君だ」
一倉のことも「同僚だ」と簡単に説明した。
「よろしく」
一倉が当たり障りない挨拶をすると、青島はまたニコリと笑った。
「よろしくお願いします。あ、荷物運ぶの手伝いますよー」
言って、室井の手からダンボールを取り上げると、先に玄関に向かっていった。
「若い管理人だな」
「そうだな」
「若いのに働いてないのか?」
「管理人が仕事だ」
「そうだけど、ここの家賃収入だけで食っていけんのか?」
確かに建物が古くワンルームであることを差し引いても、ここの家賃は充分安い。
建物が古い分、管理や維持にも費用がかかるだろうから、家賃全てが青島の収入になるとは思えない。
そうすると一倉の疑問も理解できるが、室井たちが下世話に勘繰ることではない。
「余計なお世話だろ」
室井は違うダンボールを一倉に押しつけ、自分も荷物を手に玄関に向かった。


有り難く青島の手も借り、荷物を全て部屋に運び込んだ。
一番重かった冷蔵庫を運び終えると、三人とも少し息が上がっていて、軽く汗ばんでいた。
真夏の引っ越しではなくて良かったかもしれない。
「悪かったな、手伝わせて」
謝ったのは、何故か一倉だった。
額にうっすらと浮かんだ汗を手の甲で拭い、青島は首を振った。
「いえいえ、いい運動になりました」
「だってさ、似た者同士で良かったな」
「…うるさい」
室井が眉間に皺を寄せると、一倉は笑って、青島は不思議そうに首を傾げた。
なんでもないと言って青島の肩を叩くと、一倉は腰に手を当て伸びをした。
「さて、俺はもう行くぞ」
「ああ、ありがとう」
一倉は午後から娘とプールに行くらしい。
まだ夏休みでもなく焦ってプールに行かなくても良さそうなものだが、「いつまで一緒にプールに行ってくれるか分からない」というのが一倉の言い分で、行けるうちに行っておきたいそうだ。
先のことは分からないという意味では同意するが、事が娘とのプールであることには苦笑してしまった。
それでも、時間を作って引っ越しの手伝いをしてくれたことには素直に感謝していた。
「今度飯奢れよ」
一倉は二人に片手を上げて挨拶を寄越し、帰って行った。
パタンとドアが閉まると、なんとなく青島に視線を向けた。
きっと同じようになんとなくだったのだろうが、こちらを向いていた青島と目が合い、内心驚く。
咄嗟に言葉を探したが出てこない室井の代わりに、青島が口を開いた。
「荷物少ないっすね。いや、まぁ、部屋が狭いから当たり前でしょうけど」
狭いことを申し訳なく思っているのか、気まずそうに頭を掻く。
室井は首を振った。
「すっきりした部屋の方が好きなんだ」
処分してきたものは、無くても困らないものだけである。
思えば、室井が生活していく上で本当に必要なものは、それほど多くない。
ものにこだわりはないし、心骨を注ぐような趣味もない。
引っ越しの際には不要物だと割り切って処分できてしまうような物に囲まれて生きている。
それも少し寂しい気がした。
「ああ、いいっすね、俺はそういう生活に憧れるな」
そう呟いた声に、少しだけ室井よりも長身な彼を見上げた。
「俺は駄目ですね、物が中々捨てらんなくて。何でもかんでも溜め込んじゃうんです」
「別に悪いことでもないだろ」
「んー、でも、必要ないものはいっぱいあるんですけど、必要な物が必要な時にはないんですよねー」
つまり物が多いことではなく、片付けられないことが問題なのでは。
さすがに失礼かと思って言葉を飲んだが顔に出ていたのか、青島には伝わってしまったらしい。
「あ、だらしないヤツだって思ったでしょう?」
じっと見つめられてたじろいだが、否定もできない。
嘘が苦手だった。
「ちぇ…余計なこと、言わなきゃ良かったな」
そう言うが気分を害しているふうではなく、室井が苦笑すると、青島もはにかむような笑顔を見せた。
笑うと一層若く見えるが一体いくつなんだろうかと思った。
「なんか手伝うことあります?」
室井が余計なことを考えていると、青島が聞いてくれた。
「いや、大丈夫だ」
青島と一倉に手伝ってもらって重たいものは片付いたし、後は一人でもできる。
「ありがとう、助かった」
「いえいえ…ああ、そうだ」
思い出したように呟いてジーンズのポケットに手を突っ込むと、鍵を二本取り出し室井に差し出した。
「室井さんの部屋の鍵と、表の玄関の鍵です」
このアパートの玄関は共同で、室井の部屋には玄関はない。
アパートというより下宿や寮といった風情だった。
「表の玄関は俺がいる時は開けっ放しになってます。なんで、普段は出掛ける時に鍵をかけなくていいですから」
「了解した」
鍵を受け取ると、青島が室井の手の中の鍵を指差して教えてくれる。
「こっちが表の玄関で、こっちが室井さんの部屋ね」
玄関の鍵の方が若干大きく、見間違えることもなさそうだ。
「もし出掛ける時に玄関の鍵が閉まってたら、俺は多分いないんで、お手数ですけど鍵かけてってくださいね」
内側からドアが開かなければ、青島は不在ということだろう。
大家とはいえ24時間このアパートにいるはずはない。
防犯のための約束事があるようだったが、それを特に面倒だとは思わなかった。
そういうルールがあって当然と思わせる、ノスタルジックな建物のせいかもしれない。
「分かった」
「夜は12時くらいには鍵閉めちゃってます」
「門限があるのか?」
「まさかっ」
弾かれたように青島が笑った。
良く笑う男だと思った。
室井とは正反対な男だということになるが、不快ではなかった。
「遅くなったら鍵開けて入ってくださいってだけです」
「なるほど」
いくら雰囲気があっても、寮ではなくただのアパート。
さすがに門限などはあるはずなかった。
「とりあえず、そんなとこかな…分かんないこととか困ったこととかあったら、何でも言ってくださいね」
ニコリと微笑まれて微笑み返すこともできないまま、室井は頷いた。
「よろしく」
「じゃあ、片付け頑張って」
サンダルを履いて出て行く青島を見送る。
呼び止めたい気分になったが、呼び止めたところで話すことはない。
黙って見送るしかなかった。
だが、呼び止めるまでもなく、閉じたドアがすぐに開いて、青島が顔を出した。
「後でちょっと、お茶でもしませんか?」
突然のお誘いに驚いたが、それ以上に嬉しく感じて、そのことに尚更驚いた。
「一階に食堂があるんです」
「食堂…?」
「このアパート、元々下宿として作られたもんなんですよ。だから食堂もあるんです」
青島の説明を聞いてすぐに納得した。
むしろそうでなければ不自然な作りの建物だった。
「もちろん、食堂としては今は使ってないんですけどね。台所もあるし、テーブルもテレビもあるから、皆の談話室みたいになってて」
入居者が自由に使えるように開放してあるということか。
そして、入居者同士にも交流があるということなら、益々今時珍しいアパートだと言えた。
「あ、忙しいっすかね?片付けもあるし…」
青島が遠慮がちに言うから、室井はすぐに首を振った。
「いや、平気だ」
「そうっすか?」
「ああ」
俺も君と話がしたいとは言えず、素っ気なく返事をしてしまう。
社交性に欠ける自分に腹立たしくなるが、青島は気にしたふうもなく室井の返事にただ嬉しそうに笑った。
やっぱりうまく笑い返すことはできなかった。










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2008.8.23




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