朝ごはんをご馳走になり、食後にお茶まで出してもらってすっかり和んでいたが、いくら待っても和久が戻って来ない。
「和久さんちって遠いの?」
青島と一緒にお茶を啜っていた真下に尋ねる。
「いえ、そんなことはないんですけど…奥さんに捕まってるんじゃないでしょうかねぇ」
「ああ、そっか。朝帰りだもんね」
怒られていても不思議はない。
大丈夫かなぁと少し心配になるが、真下は苦笑して心配いらないと言う。
「和久さんが酔っ払ってココに泊まって帰るのは初めてのことじゃないんで」
「そうなの?」
「たまーにですけどね。気持ち良く酔っ払ったら、家まで帰るのが面倒くさくなるのか、ここに寝に来るんです」
「困ったオヤジだね」
青島が自分のことを棚に上げて言うと、真下は苦笑を深めた。
「青島さんは怒る人いないんですか?」
からかうような声音に、青島は少し頬を強張らせ、曖昧に笑った。
「怒る人はいないよ」
「一人暮らしなんだ」
「ん、やー、そうじゃないんだけど」
「放任主義な彼女とか?」
「んーーー…まぁ、そんなとこ」
乾いた笑い声を上げると、真下はそれ以上突っ込まず、話を変えた。
「青島さんて、何してる人なんですか?」
これまた答え辛い。
仕事と呼べる仕事は何もしていない。
一倉に宣言したみたいに真下に「ペットやってます」などと言ったら、人格を疑われてしまう。
もちろん、売春しているつもりも、ヒモになったつもりもない。
身体は需要と供給の単なる一致であって、青島が拒んでも室井は青島を追い出したりはしないだろう。
正確に言えば、血を担保に養ってもらっているわけだが、そう言うわけにもいかない。
考えても何も浮かばず返答に困っていると、タイミング良くドアがノックされた。
一瞬和久かと思ったが、そうではなかったようで、ドアの向こうから女性の声が聞こえてくる。
「真下くーん」
「あ、すみれさん」
ぽつりと呟いて、真下は腰を上げた。
ドアを開くと、小柄で美人と言って差し支えない女性が立っていた。
「和久さんからの伝言、二日酔いが酷くて少し遅れるって」
「ええ〜?そんなぁ、困りますよぉ」
「知らないわよ、私に言われても」
ぼやく真下を、彼女は冷たくあしらう。
それから青島の存在に気付いたようで、猫のような瞳を青島に向けた。
軽く頭を下げると、彼女も返礼をくれる。
「あなたが、青島君?」
和久に聞いていたのか、名前を呼ばれる。
「あ、はい」
「私、恩田すみれ。あなたにも伝言、また飲みに行こうって」
懲りないわよね和久さん、と呆れ気味に笑うすみれに、青島も自然と笑みを零した。
また、と誘ってくれる和久の気持ちが嬉しかった。
和久とはたくさん話したが、大して意味のある話はしていない。
二人して盛大に酔っ払っただけである。
だけど和久と飲んで、少し気分がスッキリしたように思う。
楽しかったと思えた。
室井以外の人間と関わってそう思えたのは、久しぶりのことだった。
払う金がないので金は払えないが、せめて礼くらいちゃんと伝えたいと思う。
「恩田さん」
「すみれ」
「…すみれさん」
「なに?」
可愛らしく小首を傾げるすみれに小さく笑う。
動作も物言いもサバサバした人だが、どこかキュートな女性だった。
「ここで待ってたら、和久さん来る?」
「ええ、何時になるか分かんないけど」
青島は苦笑して頷いた。
迷惑かけついでに、和久がくるまでここで待たせてもらおう。
真下にそうお願いしようと思ったら、何故か真下に両手を握られる。
それが力いっぱいらしく、かなり痛い。
青島は驚きつつ、顔をしかめた。
「ちょ、何」
「青島さんっ」
「だから、何さ?い、痛いよ」
「和久さん来るまで、ここにいてくれません?」
それは今青島が真下に頼もうと思っていたことだから構わないが、そんなことを頼まれる理由が分からない。
目を白黒させている青島に、真下は縋るように言う。
「今日デートなんですよ〜」
「あ、それで和久さんが来ないと困るんだ」
納得して、納得している場合じゃないと気が付いた。
「まさか、おまわりさんの代わりにココにいろって言うんじゃ…」
和久が来るまで留守番していてくれと言われているらしい。
「大丈夫です、何も起こりませんから」
真下が自信たっぷりに言った。
さすがに青島もちょっと焦る。
「いや、そんな問題じゃなくて」
「道を聞かれるとか落とし物が届くとか、精々それくらいですから」
「いや、だからそんな問題じゃ」
「誘い続けてようやくデートに漕ぎ付けたんですよっ」
真下には中々危機迫る勢いがあった。
夜勤明けにデートしようと思うくらいだから、気合いの入り方が違うのかもしれない。
軽く引き気味の青島の手を握ったまま、真下は深々と頭を下げた。
「お願いします」
「て、言われても…」
困った顔ですみれを見たら、すみれは肩を竦めて苦笑してみせた。
「まぁ、本当に何もないのは事実だけど」
この辺本当に平和なのよ、とすみれが言う。
そして青島は激しく今更なことに気が付いた。
「そういえば…この辺て、どこなの?」
すみれが呆れた顔をしつつ教えてくれた地名は、聞き覚えがあるような無いような。
室井の部屋から出ても、せいぜい近所に買い物にしか行かない青島だから、地理に疎かった。
青島がどこだか分かっていないということを悟ると、真下は言い募った。
「後から僕が家まで送りますからっ」
「…とか言って、朝まで帰らなかったりするんじゃないの?」
デートならそういうこともあるのではと思ったのだが、それにはすみれが首を振った。
「それはないから大丈夫。絶対に無理だから」
「すみれさぁん」
自信たっぷりなすみれと情けない顔の真下を交互に見遣って、青島は溜息をついた。
どうしたって、世話になっただけに、断り辛い。
最後の悪あがきと思って、すみれに振ってみる。
「すみれさんは?すみれさんの方がこの辺詳しそうだし」
「私はこれから仕事に行くの。残念でした」
聞けば新聞社で働いているらしい。
「ま、早く帰れたら、様子見にきてあげるわよ」
和久さんも気になるしとあまり慰めにならない言葉を聞きながら、青島は溜息をついた。
誰が1番早く帰ってきてくれるのか。
二日酔いが治った和久か、仕事帰りのすみれか、デートが無事に終わった真下か。
それが問題だった。
***
真下やすみれの言った通り、事件どころか迷子一人現れず、日が暮れた。
だけど、和久も真下も戻って来ない。
青島が留守番できるくらいなのだから、この駐在所に留守番など不要な気もするが、約束した手前勝手に帰るわけにもいかない。
「はぁ…本当に誰も来ないんだなぁ」
駐在所の中にいても暇なので、青島は外に置いてあった水色のベンチに座っていたのだが、目の前の道すら誰も通らない。
道の向こうは田んぼで、駐在所の裏手が住宅地になっていた。
あの中に室井の家もあるのかもしれないと思ったが、青島には正確な位置はわからなかった。
青島は元々この土地の人間じゃない。
元いた場所を訳あって追われ、この地にたどり着き、室井に拾われたのである。
室井の部屋の外にそれほど興味が無かったので、青島はこの土地に詳しくない。
そして、そのことに今になって気が付いた。
室井の家の住所すら知らないのだ。
和久に昨日の公園への行き方を教えてもらえば、そこからなら帰れる。
どちらにせよ、誰かが戻ってこないと帰れないのだ。
だらし無く両足を投げ出して、青島は溜息をついた。
ふと気付くと、こちらに向かってくるシルエットがある。
小柄なそれは、すみれだった。
1番のりはすみれだったらしい。
よっと片手を挙げて挨拶を寄越すすみれに、青島は少し口角を上げて応じる。
和久でも真下でもないが、すみれが来てくれて嬉しかった。
ここで一人でいると、まるで他に誰も人がいないような気になってくる。
「なーに、黄昏れてんの」
「だって、誰も帰って来ないんだもん」
すっかり日暮れ時だ。
いい加減帰りたいが、そうもいかない。
「和久さん、大丈夫かなぁ」
余程具合が悪くて来れないんだろうか。
二日酔いが原因とはいえ、心配にはなる。
「案外、奥さんの機嫌とってるだけかもね」
隣に腰を下ろし、すみれがクスクス笑う。
青島は少し首を傾げた。
「すみれさんと和久さんて、どういう知り合いなの?」
仕事の同僚ではないし、単なるお友達としては年が離れ過ぎている。
「お家がご近所で、子供の頃から知ってるの」
「ああ、なるほど…」
だから和久の家庭の事情に詳しかったり、伝言を預かってきたりするのだろう。
「青島君は行きずりだって聞いたけど」
「その言い方、やめてくれる?」
行きずりには違いないが、そう言われると何となくいかがわしい。
「公園で声かけられてね、酒飲みに行こうって」
「和久さん、若い人に説教するの好きだからなぁ」
「あ、そうなの?」
「趣味みたいなもので、たちが悪いってほどじゃないけどね。若い人を見ると何か言いたくなるみたいよ」
「ははっ…だからか」
「なんか言われた?」
「浮気はいかんって」
和久に繰り返し言われた台詞を言ったら、すみれは目を丸くした。
それから尤もらしく頷く。
「浮気はいけないわよ」
「いや、だから、俺はしてないってば」
そもそも青島が誰とどうしようと、浮気とは呼べないのだ。
しつこいが、繰り返すたび虚しくなるが、青島と室井は恋人じゃないのだ。
ただ青島と室井の気持ちに、どうしようもない憤りは生まれる気がする。
室井が他の人に触れるとしたら、少なくとも青島は傷付く自信があった。
室井もそうであれば良いと思う。
「でも、思い出しちゃう誰かさんはいるみたいね」
室井のことをふっと思い出していると、すみれに突っ込まれた。
すみれを見ると、からかうような眼差しとぶつかり、苦笑する。
「ま、多少はね」
「帰らなくて、心配されてるんじゃない?」
真下にも似たようなことを聞かれたなぁと思いつつ、青島は肩を竦めた。
「さぁ…どうかな」
「どうかなって、随分薄情ねぇ」
それとも彼女が薄情なのかしらと呟くすみれに、曖昧な笑みを返すだけで答えなかった。
きっと気にはかけてくれているだろう。
丸一日家を空けている。
もしかしたら今頃はもう、室井の中では青島が出て行ったことになっているかもしれない。
多少なりとも寂しいとか、悲しいとか、感じてくれているだろうか。
室井のことだから青島が出て行って三日も経てば、それを仕方のないこと、当然のことと割り切って、無かったことにされてしまいそうだ。
室井はそれで良くても、青島は良くない。
室井が出て行けと言わない限り、室井が本気で青島を厭わない限り、傍にいるつもりだった。
青島がその気なら、室井はおそらく青島が死ぬまで傍においてくれるはず。
自惚れでも勝手でも、青島はそう思っている。
「そろそろ帰らないと、忘れられちゃうかも」
冗談まじりに呟くと、すみれが笑った。
「随分忘れっぽい人なのね」
「忘れることに慣れた人なんだ」
長く生きるなら忘れることが上手くないと、辛い記憶が溜まっていくばかりだ。
自分の心を守るなら、忘れていくより他にない。
すみれには意味が分からなかったようで、首を傾げている。
青島は苦笑して首を振り、何でもないと伝えた。
すみれから視線をそらし、太陽が沈んだ空を眺める。
―室井さん、どうしてるかな。
無性に室井の顔が見たかった。
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