「あ」
一人のリビングで、青島は思わず呟いた。
手にはアメスピの箱。
中身は一本だけ。
それを手に取って、往生際悪く空箱を逆さまにして振ってみた。
当然何も出てこない。
「しまった…買い置き、もう無いんだよなぁ」
それでも手に取った最後の一本に火をつける。
勿体無いが、大事に取っておいても仕方がない。
ヘビースモーカーの青島だから、一本くらいの煙草ではどうしようもない。
素直に買い出しに行くより他になかった。
「面倒臭いなぁ」
青島は時計を見た。
もう少ししたら日が完全に落ちる時刻。
そしたら、室井が起きてくるはずだ。
そう思うと、今から外出する気もおきなかった。
深い意味などない。
室井がそれを望んでいるわけでもない。
強いて言えば、青島がそうしたいからしているだけのことだ。
室井を一人にしたくないと思うのだ。
室井にしてみたら余計なお世話だろうと思いつつ、彼が一人でいる姿を想像するのはあまり好きじゃなかった。
酷く寂しく感じるから。
青島は室井が望んでくれる限り傍にいるつもりだった。
室井が言葉にして青島を求めるわけはないが、抱きしめる強い腕や冷めているのに暖かい眼差しを信じることにしている。
室井の気持ちは青島の中にあった。
勘違いかもしれないが、少なくとも青島はそう信じていた。
「ま、室井さんの煙草借りればいいか」
青島はアメスピの空箱を握り潰し、テーブルに放った。
「返してくれるのか?」
不意にかけられた声に、青島は小さく笑う。
振り返ると寝室から出て来た室井がいた。
「早いっすね」
「花見に行こうと言ったのは、お前だろう」
青島は目を丸くした。
確かに昨夜、花見に行こうと室井を誘った。
室井の自宅の周辺で、桜が見頃を迎えていたからだ。
夜桜なら室井も見られるだろうと思い、夕べなんとはなしに誘ってみたのだ。
特にどうという返事をもらえなかったので、面倒なのかな?と思い諦めていたのだが、室井はその気になってくれていたらしい。
「なんだ、行かないのか?」
無表情に聞かれて、青島は慌てて首を振った。
「や、いきます、いきたい」
慌てすぎて、つけたばかりのアメスピを灰皿に押し付けてしまう。
「あ、勿体ない…」
自分で消した煙草に思わず呟くと、室井は苦笑した。
「貧乏くさいぞ」
「だって最後の一本だったんですよ」
「俺のを借りるんだろ?」
室井は青島に近付くとポケットから煙草を取り出し、差し出してくれる。
礼を言って素直に受け取った。
「日が落ちたら出掛けるか…」
時計を見遣る室井の横顔に、唇を押し付ける。
時計から青島に視線をずらした室井が変な顔をするから、青島は笑みを零した。
「なんだ?」
「なんでもないです」
本当になんでもなかった。
強いていえばただしたかっただけで、やっぱり意味などない。
訝しげな室井を笑ってやり過ごしていたら、突然ベルが鳴る。
玄関のベルだったのだが、青島は酷く驚いた。
音そのものというより、来客に驚いたのだ。
青島が室井の部屋に住み着いて随分経つが、来客があったのは初めてだった。
玄関のベルの音を聴いたことすら、そういえば初めてである。
青島が外出する時、そのドアは常に開いている。
青島は室井の顔を見て、バカなことを尋ねた。
「誰か来たんですか?」
「ベルが鳴っているんだから、そうだろうな」
少し憂鬱そうな表情になった室井に、青島は首を傾げる。
「出ないんですか?」
動こうとしない室井に再び尋ねるのと同時に、早く開けろと言わんばかりにベルが立て続けに鳴る。
ぎょっとした青島とは対象的に、落ち着いてはいるが不愉快そうな顔で室井は玄関に向かった。
どうしようか迷ったが、青島はリビングからひょいっと玄関を覗き見る。
室井にケンカを売るようにベルを鳴らしている相手が気になったのだ。
「うるさい」
言いながら、室井はドアを開けた。
姿を見せたのは、見た目は室井と同年代の、スーツを着た男だった。
室井の冷たい第一声にも腹を立てた様子はなく、むしろ涼しい顔である。
「お前が早く開けないからだ」
「少しくらい待てないのか」
「美女なら多少待ってもいいが、おっさんなんか二秒と待ちたくないね」
室井は溜め息をつく。
「…何のようだ」
「どうぞお上がりください、くらい言えないのか?」
「お帰りはそちらです、くらいなら言ってやる」
仲が悪いのか気安いのか知らないが、親しい知り合いなことだけは青島にもわかった。
思えば、室井が自分以外の人と話している姿を見るのも初めてである。
珍しいモノを見るように室井と男を眺めていると、男が半端に身を乗り出していた青島に気が付いたらしく、目があった。
目礼をすると、男は目を丸くした。
「誰だ?アレ」
青島は片眉を吊り上げる。
いきなりのアレ呼ばわりは失礼である。
「青島だ」
室井が酷く簡素でぶっきらぼうな紹介をしてくれるので、一応もう一度頭を下げる。
どこか値踏みするような視線が返ってくる。
「一倉だ」
男は挨拶の変わりか青島に名乗り、室井を見た。
「珍しいな」
「何がだ」
「お前にお友達ができるなんて」
「気持ちの悪い言い方をするな」
室井は露骨に顔をしかめる。
顔を出したらまずかったかな?と青島は思ったが、出てくるなとも隠れていろとも言われていない。
気まずそうに佇んでいると、室井は肩越にちらりと青島を見て、不機嫌そうに言った。
「…ペットだ」
それも随分な言い方だが、そちらは青島も気にしない。
ちょっと肩を竦めただけだ。
ペットと飼い主。
それは事実であって、事実じゃない。
そこにはおそらく室井が到底認められない何かがあって、室井が認めない限り青島は永遠に室井のペットでしかない。
青島はそれでいいと思っていた。
「ペットの青島俊作でーす」
軽く言ったら室井は眉を寄せ、一倉は一拍置いて笑い出した。
「そうか、ペットか」
「なんのようだ」
二度目の問い掛けは、少しイライラしているように見えた。
それは一倉にもわかったのか、一倉は肩を竦めて勝手に靴を脱いだ。
「原稿を取りに来たんだ」
「締め切りはまだだろう」
「お前のことだから、もうできてんだろうと思ってな」
わざわざ取りに来てやったんだと言いながら一倉がリビングに入ってくるから、青島は身体をずらして一倉を通した。
諦めた顔で、室井が一倉の後に続いて戻ってくる。
一瞬目が合ったが、すぐに反らされた。
何となく楽しい感じじゃない。
「あ、俺、煙草買いに行ってきます」
青島は唐突に思い出し、あからさまに席を外すことにした。
「…そうか」
答える室井は無表情であるが、どこかホッとしているようにも見える。
それを少しだけ寂しく感じた。
一倉に小さく礼をして、リビングのドアを閉める。
室井にも知人や友人くらいいるだろう。
会話からいって室井の仕事とも関係があるようだった。
青島が邪魔をするわけにもいかない。
少し外で時間をつぶそうと思い、行きかけた足を止める。
良く考えたら財布を持っていない。
煙草一つ買えない。
苦笑してリビングに戻ろうとして、また足を止めた。
二人の会話が聞こえてきたからだ。
盗み聞きするつもりなどない。
ないが、聞こえてきた声に自然と身体が止まった。
「随分毛並みの良い犬じゃないか」
一倉の声だ。
室井の返事には少しの間が開いた。
「……犬じゃない」
「なら、ネコか」
笑った声が少し下品に響いた気がして、顔を顰める。
「何が言いたい」
「別に。羨ましいと思っただけだ」
「羨ましい?」
「今度貸してくれよ。どんな声で鳴くのか聞いてみたい」
さすがに青島の顔が強張る。
事実室井とはそういう関係なわけだが、一倉の言葉には悪意があった気がした。
冗談なのか本気なのか、一倉を知らない青島には判断のしようもなかったが、不快感に鳥肌を立てる。
大分遅れて、室井の声がした。
「好きにしろ」
低く静かな声。
もう聞き慣れた声だというのに、青島は違う人が話しているのかと思った。
「アレは俺のものじゃない。勝手にしろ」
ぼんやりとした頭で青島は思った。
―その通りだ、室井さん。
青島は室井のモノじゃないし、その逆など言うまでもない。
だからと言って、室井の口からそんな言葉を聞きたかったわけではなかった。
好きにしろ、だなんて―。
青島は踵を反すと、リビングから離れた。
靴を履くと、玄関を出る。
財布はもちろんない。
行く先など、どこにもない。
ただ今は、そこにいたくなかった。
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