「室井管理官の家の隣に引越したぁ?」
すみれが目を丸くして声を上げたから、青島は苦笑した。
昨夜その事実を知った時に青島自身酷く驚いたため、すみれの気持ちが良く分かった。
「何でまた、そんなとこに引越したわけ?」
「何でって言われても、たまたまだよ」
本当に引越してみたらたまたま隣が室井の自宅だったのだから、それ以外に言いようもない。
すみれも青島が好んでキャリアの隣人になったとは思えなかったようで、すぐに納得する。
「それは、災難ねぇ」
「そうでもないよ」
青島が何の気なしに言うと、すみれがまた目を丸くした。
「何でよ?キャリアでしょ、あの人。隣にいたら面倒じゃない」
青島は肩を竦めた。
「別に…あの人そんなに嫌な感じじゃないよ」
「真下君じゃあるまいし、キャリアに魂を売ったんじゃないでしょうね」
いくら社交的な青島だって、もし事前に隣が室井の自宅だと知っていれば、わざわざあの部屋に引越したりはしなかった。
上司と隣り合わせで暮らすなんて、自分で自分の首を絞めるようなものだと思ったはずだった。
ところが、隣に室井が住んでいると知った今現在、青島はそこまでの苦痛は感じていない。
思いの他気さくな人だなというのが、青島の印象である。
室井の部屋に乱入してしまい室井の姿を認めたときには、離れ島の駐在所にでも飛ばされるんじゃないかと一瞬本気で心配したが、事故とはいえドアを勝手に開けて乱入して来た青島に怒ることも無かったし、それどころか心配して手伝ってさえくれた。
それを思うと、捜査で見せる冷たいキャリアの印象が随分薄れた。
キャリアも人間なんだなと失礼にも思ってしまった。
青島はすみれに白い目で見られながら、苦笑した。
「そんなんじゃないってば。つーか、隣人だなんて言ってもそうそう顔を合わせるわけじゃないし、むしろ向こうの方が俺に会いたくないでしょ」
キャリアの室井が所轄の一刑事である青島と交流を持ったところで、室井にとって何のメリットも無いのだ。
そう考えれば、これから室井との接点が増えるとは思えない。
精々出勤時間が重なれば、玄関先で顔を合わせるくらいか。
そう思いながら、青島はすみれに昨日の出来事を掻い摘んで説明した。
室井のキャリアらしからぬ対応にいくらか驚いたようではあったが、すみれにはそれ以上に気になった点があったらしい。
「じゃあ、青島君の家と室井管理官の家って、ドア一枚で繋がってるわけ?」
聞かれて、青島は「うん?」と首を捻った。
口で説明すると、確かにそういう状況にある。
しかも嵌め殺しだったはずのドアが、今は簡単に開くようになっていた。
管理人に頼んでまた嵌め殺しにしてもらわないとダメかなと青島が考えていると、すみれが意味ありげに笑った。
「ふ〜ん」
「…?何さ?」
「何か、イヤラシイ」
「は?」
青島は目が点になった。
「ほとんど、同居じゃないの?それって」
言われて益々呆然とした。
同居……いや、全然違うだろうと青島は思った。
確かにドア一枚でつながってはいるけど、お互いの家は完全に別々で、ただ単に隣に住んでいるだけに過ぎない。
青島は緩く首を振って、呆れた顔をした。
「何言ってんの、全然違うよ。大体イヤラシイって何。隣が女の子だったらともかく…」
「あー実は期待してた?」
すみれが意地悪く聞いてくるから、青島は自分がからかわれていたことに気が付いた。
溜息を吐くと、軽くすみれを睨む。
「んなわけないでしょ」
「こりゃ、失敬」
悪びれずに微笑むすみれに、青島はもう一度溜息を吐いた。
引越してから一週間は一度も会わなかったのに、一度顔を合わせると不思議と会う機会が増えたりする。
帰宅した青島は、自宅の玄関前まで来て「あ」と呟いた。
丁度室井も帰宅したところだったらしく、玄関前に室井が立っていた。
少し驚いた顔をしている室井に、青島はすぐに笑顔を浮かべた。
「お疲れ様です」
明るく挨拶をすると、室井はいささか強張ったままの表情ではあったが、挨拶を返して寄こした。
「お疲れ様」
「あ、昨日、うるさくなかったです?」
夕べは室井の言葉に甘えて、あれから少し片づけをしていたのだ。
大きな音を立てないように気を付けてはいたのだが、やっぱりちょっと気になった。
「いや、大丈夫だ…少しは片付いたのか?」
「ええ、おかげさまで。ようやく着替えは皆出せました」
「そうか」
「あ、と。それから、すいませんでした、ドア…」
「気にしないでいい」
昨日の様子から怒っていないとは思っていたが、そう言ってもらえると青島も安心できる。
「ありがとうございます」
ホッとして礼を言うと、鍵を開けて玄関のドアを開ける。
室井に挨拶をしようと思って振り返ると、ドアの前で室井は難しい表情で立ったままだった。
「室井さん?入らないんですか?」
「いや…」
眉間に皺を寄せたまま、青島を軽く見上げた。
「鍵を、落としたらしい」
青島は驚いた。
―意外だ。
室井さんのような人でも鍵を落としたりするのかと思っていると、室井は溜息を吐いて回れ右をした。
「管理人の所に行ってくる」
「あ、室井さん」
呼び止めると、室井が怪訝そうに振り返った。
青島はニッコリと笑って、開いた自分の部屋のドアを指差した。
「入れるじゃないですか」
室井の部屋に入るための鍵の開いたドアならあるのだ、青島の部屋の中に。
わざわざ管理人に鍵を借りに行くよりも、青島の自宅を通り抜けた方が早かった。
意図を察した室井が、目を剥いた。
「しかし…」
「どうぞ、どうぞ」
躊躇う室井を、部屋の中に入るように勧める。
不慮の事故で開いてしまったドアは、どうせこんな時くらいにしか役には立たない。
室井に迷惑を掛けたのだからこれくらいの役には立たないとと、青島は思った。
「汚いところですけど」
再三勧めると、室井は眉間に皺を寄せたまま、青島に小さく頭を下げた。
「…すまない」
青島はまた驚いた。
キャリアに頭を下げられたのでは、いくら青島でも居心地が悪い。
「い、いえいえっ、どうぞどうぞ」
青島は慌てて部屋に入るように室井を促した。
「お邪魔します」
きっちり挨拶をして部屋に上がる室井に、青島は本当に変わったキャリアだなぁと思った。
もちろん悪い意味で思ったわけではない。
苦笑すると、青島も靴を脱いだ。
案内するまでもなく、室井の部屋と繋がっているドアはすぐそこだ。
まだまだ散乱しているダンボールを避けて、ドアの前まで行く。
ドアを開けて、室井は振り返った。
「ありがとう」
またきっちりと礼を寄こすから、青島は笑って首を振った。
「役に立って良かったです。あ、でもちゃんと管理人に頼んで、元に戻してもらいますから」
慌てて付け足した。
青島は細かいことを気にしないたちなので、このままでも構わなかった。
ドアの前にタンスやラックを置いてしまえば、その存在さえを忘れてしまうだろう。
だが、室井はきっとそんなわけにいかない。
いくら同業者とはいえ、ドア一枚で繋がっている部屋に他人がいると思えば落ち着かないだろう。
室井は少し青島を見つめて、呟いた。
「急がなくても構わない」
「え?あ、でも」
「君の部屋が片付いて落ち着いてからにしたらどうだ?」
言われて見れば、青島と室井の部屋に業者が入るわけだから、ダンボールがごろごろしている部屋ではまずいかもしれない。
とっとと直せと言われても青島には文句も言えないが、室井は親切にも待ってくれるという。
青島は風変わりなキャリアを見つめて、微笑んだ。
室井の気遣いが嬉しかったのだ。
「ありがとうございます」
素直に礼を言うと、室井の表情が強張る。
恐らく人付き合いが得意ではないのだろう。
短い付き合いだが、青島にもそれくらいは分かった。
「いや…じゃあ」
「あ、はい。おやすみなさい」
「…おやすみ」
パタンとドアが閉まる。
青島はドアを見つめて、小さく笑った。
すみれに言った台詞じゃないが、室井の隣はそう悪くないかもしれない。
少なくても、青島にとって室井は顔を合わせて苦になる相手ではない。
もう少し話してみたいとさえ思った。
青島はドアに向かって呼びかけた。
「室井さーん」
「…何だ」
「今度、本当に月見酒しましょうね!」
「…………ああ」
室井の返事が少し笑ったように聞こえたのは、青島の気のせいだろうか。
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