経過良好。
順調に行けば一週間程でギプスが取れるだろうというのが、医師の診断だった。
それは不便な生活から開放されるということだから嬉しく思ったが、同時に寂しい気持ちも覚えた。
―青島と一緒に暮らすのも、後少しか。
医師に言われた瞬間に思ったのは、そんなことだった。
診察を終えた室井は、病院から真っ直ぐ会社に向かった。
病院に行くために、午前中は有給休暇を取っていた。
午前中に診察を終えられたため、昼過ぎには会社に着いていた。
入り口で、ばったりと一倉と顔を合わせた。
「おう、お疲れ様。どうだった?」
「順調だそうだ」
「そりゃあ、良かったな」
思うところがないではないが、良いことには違いない。
室井は素直に頷いておいた。
「これから飯に行くんだが、お前も行かないか?」
室井も昼食はこれからで、一倉の誘いを断る理由も無かった。
二人は時々行く蕎麦屋に向かった。
昼時の蕎麦屋は混んでいるが、回転が早い分さほど待たずに食べられる。
今日はタイミングが良かったのか、すぐに席につけた。
注文を終えると、一倉が言った。
「なら、新婚ごっこはもう終わりか」
室井の眉間に皺が寄る。
青島との臨時の同居を指して、新婚ごっこと称しているらしい。
青島と暮らしたこの三週間に甘やかな瞬間がなかったとは言わないが、そんなことを一倉に教えてやる義理はない。
大体青島と過ごす時間が「ごっこ」などであるはずがない。
室井にとっては、それは全て愛しい現実である。
そんなことも一倉に説明する必要はない。
室井は精々冷たく一倉を睨み付けた。
「バカなことを」
「青島はかみさんみたいに甲斐甲斐しかったみたいだし、至れり尽くせりで良い思いしたんだろ?」
一倉はからかい口調だったが、室井は益々顔をしかめた。
「確かに世話にはなっているが、俺はそんなことのために青島と付き合ってるわけじゃない」
青島に身の回りの世話をしてほしいと望んだことはない。
何かをしてもらえば嬉しく思うが、それこそ青島に妻や母の代わりをしてもらいたいと思ったことはなかった。
女性の代わりに愛したわけではない。
「冗談だから、そう恐い顔するなよ」
一倉に困った奴だとばかりに苦笑されて、室井は渋い顔でお茶を啜った。
室井にそんな冗談が通じると思っている方がどうかしている。
「面白くもないものは冗談とは言わない」
室井の冷ややかな台詞に、一倉は肩を竦めるただけで堪えていなかった。
「面倒だからそのまま居すわっちまえば良いのに」
「そんなわけにはいかない」
「恋人なんだからいいじゃないか」
「青島には青島の生活がある」
だからといって、青島の好きなように勝手に暮らせばいいとは思っていない。
青島のことなら可能な限り知っていたい。
できることなら、できる限り青島の生活に、人生に係わって生きていきたい。
それは青島に許されていると思っている。
であれば、室井は多くは望まなかった。
一緒に暮らすことが、青島と共に生きる全てではない。
「そんなもんかね」
淡々としている室井に、一倉は首を傾げている。
室井が強がっているふうには見えないが、室井がいかに青島を想っているかを知っているだけに、理解しかねるといった感じだ。
注文していた蕎麦が出来上がり二人の前に丼が置かれると、室井は箸を手に取り何気なくなく言った。
「大体一緒に暮らさなくたって、いつでも会えるんだ」
カウンターの中で笑う青島を思い出すと、表情が緩んだ。
「青島は必ずあそこにいる」
会いたくなったら、室井は喫茶店に行くだけでいい。
必ず青島に会える場所が、室井にはあった。
「なるほどな」
一倉は納得したように頷き、苦笑した。
「なんだか、盛大に惚気られた気分だ」
それは心外である。
室井は片眉をつり上げ、一倉を見た。
「どこがだ」
「どこもかしこもだよ」
ご馳走様の後すぐに頂きますと言って、一倉は蕎麦を啜り出した。
室井は「だからどこがだ」と思ったが、蕎麦が伸びるのを嫌い丼に箸をつけ、無言で啜った。
「一週間ですか」
着替えを手伝ってくれている青島に診断の結果を話すと、手を止めて室井を見た。
「良かったですね」
嬉しそうに笑う青島を見れば、本当に室井の怪我の回復を喜んでくれているのが分かる。
室井も青島の気持ちは嬉しかった。
「ありがとう」
「これでやっと自由になりますね」
鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気で室井のワイシャツのボタンを外していく青島に、室井は顔を強張らせた。
やはり窮屈な思いをさせていたのだろうか。
いや、実際させてはいただろうが、青島が実感していたのだとしたら申し訳なかった。
室井の心配を余所に、ボタンを外し終えた青島は顔を上げて再び室井を見た。
「もうすぐ腕が自由になりますよ。風呂入るのも、飯食うのも、着替えるのも楽になる」
良かったっすね室井さんと微笑まれて、「自由になる」というのが、室井自身のことを指しているのだと気付いた。
室井は内心で安堵し、青島の気持ちに感謝しつつ、青島の耳元に顔を寄せた。
「君を抱き締めることもできるしな」
目を丸くした青島だったが、わざとらしく真面目な顔を作った。
「それが一番重要でしたね」
言ってから照れたように笑い、室井の腰に両腕を回し寄り添った。
室井が青島の後頭部に手をかけると、引き寄せるまでもなく青島が肩に顔を埋めた。
「後一週間か…」
青島が感慨深げに囁いた。
一週間後、もう一度病院で診てもらい、問題がなければギプスを外してもらうことになっている。
もうじき青島を両腕で抱き締められると思えば待ち遠しいし、別々に暮らしていた元の生活に戻ることを考えれば寂しくもあった。
「随分長いこと世話になってしまったな…」
室井がぼそりと呟くと、青島は室井の肩から顔を上げた。
変な顔をしている。
「ギプス取れたら、すぐに家に戻っちゃうんですか?」
残念そうな口調に嬉しくなった。
青島も室井と似たような気持ちでいてくれているのかもしれない。
「ギプス取れても、リハビリとかあるんじゃないですか?」
「あるだろうが…」
折れた腕がギプスが外れたからと言ってすぐに元通りになるわけではないことは医者に聞いていたが、ギプスが外れるだけで不自由は大分なくなる。
簡単な家事ならなんとかなるし、風呂も一人で入れるようになる。
そしたら、いつまでも青島の部屋に居候する理由がなかった。
いくら、室井がいたくてもだ。
「完治するまで、いてもいいんですよ?」
青島の優しい、室井にとっては甘過ぎる誘いに思わず頷きたくなる。
一日でも長く一緒に暮らせたらどんなにいいだろう。
そう思う半面、数日先延ばしにしたところでいつまでも青島の部屋に居座れるわけではないとも思う。
いずれはここを出て行かなければならないのだ。
ましてや、青島の生活を室井がいくらか邪魔している。
やむを得ない事情が解消されたなら、青島の負担を軽くしてやるべきだった。
室井は緩く首を振った。
「いつまでも世話になるのもな」
「気にしなくていいのに」
「ありがとう」
青島が迷惑に思っていないことは分かっていたから、室井は頷いて見せた。
「でも君には君の生活がある、それは大事にしたい」
青島はじっと室井を見ていたが、視線を少し落として小さく笑った。
「室井さんが大丈夫なら、俺はそれでいいんですけどね」
するりと身体が離れて、何故か妙に悲しく感じた。
「青島…」
思わず引き止めるように名前を呼ぶと、青島はニッコリと笑った。
「さー、飯にしましょう!」
会話が打ち切られてしまったような気分になったが、だからといって話を戻したところで続ける会話がない。
室井がギプスが取れたら自宅に戻るということで話はまとまっているのだ。
だけど、何かが引っ掛かる。
「今夜は豪勢ですよー和久さんに神戸牛貰ったんです」
和久さんも貰い物らしいんですけど、と豪勢なお裾分けについて嬉々として語る青島に、引っ掛かかった何かを問い質すこともできず、室井は結局「良かったな」と頷くしかできなかった。
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