「ありがとうございました」
客を笑顔で見送る。
忙しい時でも、それは欠かしたことがなかった。
それが礼を言う時の礼儀だと思っているが、ご馳走さまと言って笑顔が返ってくると嬉しくなる。
客が出て行くとすぐにカウンターの中に戻り、落としたばかりのコーヒーをカップに注ぎ、カウンターに座る客に差し出した。
「お待たせしました」
青島がニコリと笑うと、強面な客が頷いた。
常連客の一人、草壁だった。
「久しぶりっすね、草壁さん」
顰め面と言っていいくらい難しい表情でコーヒーに口をつける。
不機嫌なわけではなく、これが地顔だ。
しかも無口だから、より一層不機嫌に見える。
初めは青島も戸惑ったが、今はもうすっかり慣れっこだった。
「忙しかったんすか?」
「やってなかった」
低くぼそぼそした声で喋る。
「え?」
聞こえなかったわけではなく、意味が分からなかったから聞き返した。
じろりと睨まれるが、これも別に悪意があってではない。
目付きも悪いのだ。
「閉店時間が早くなったのか?」
「あー、申し訳ないです。ちょっと事情があって、最近は閉店が早くなってるんです」
「そうか。この前来た時には閉まっていたから、つぶれたのかと思った」
「失敬な」
思わず憮然となったが、そう思われても仕方ないかと思い、苦笑した。
「なんとかつぶさずにやってますよ」
「…そうじゃないと、俺も困る」
厳めしい顔つきでコーヒーをすする草壁を凝視する。
「な、なんだ」
照れているのか動揺し、語尾が掠れる。
顔も怖いし愛想もないが、話してみれば愛想がないのはシャイであるからだと分かる。
青島は草壁のそういうところを好ましく思っていた。
少し室井に似ていなくもない。
青島は微笑むと首を振った。
「いーえ、嬉しいなと思っただけですよ」
草壁が勢いよくコーヒーを飲むからカップが空になった。
「あ、熱くない?」
「…もう一杯くれ」
驚く青島に空いたカップを差し出してくる。
青島は苦笑して頷いた。
照れるなら言わなければいいのにと思ったが、草壁の言葉は嬉しかったから余計なことは言わなかった。
新たにコーヒーを落としながら、カップも新しいものを用意した。
「ま、一か月くらいしたら、営業時間も戻ると思いますから」
「何かあったのか?」
青島は話そうかどうしようか少し考えたが、別に隠し立てすることでもなかった。
「友人がね、腕を骨折しちゃって。一人暮らしで不便だろうから、しばらくうちに泊めることにしたんです」
妙に「友人」と言う単語に力が入ってしまったが、草壁は気にしたふうではない。
さすがに和久に紹介したように、恋人だと言うわけにはいかなかった。
「そうか…大変だな」
「大変?」
俺が骨折したわけでもないしと首を傾げた青島に、草壁も不思議そうだった。
「お前が世話をしてるんだろ?」
友人の世話をしている青島の苦労を指して、大変だと言ってくれているらしい。
青島は頭を掻いた。
「あー…いや、そうでもないっすよ。世話ったって大したことしてるわけでもないし」
好きでしていることだし、なんなら楽しいし、とはさすがに言えない。
いくらなんでも友人の世話が楽しいというのは不自然だ。
そんなことはわざわざ伝えなくても、青島がイヤイヤ友人の世話をしているわけではないことは草壁にも伝わったらしい。
納得したように頷いた。
「親しい人間なんだな」
「…まぁ、そうっすね」
青島は曖昧に笑って煙草を咥えた。
「大事な人っすよー」
何の気なしに言ったら、草壁は少し笑った。
「その友人、女なんじゃないのか」
いくら困っているからといって、一人暮らしの男の友人の家に泊り込みで世話になる女はあまりいない。
友人と偽り実は相手は恋人なのではないかと疑われたのだ。
実際のところ恋人で間違いないが、女ではない。
青島は大袈裟に目を丸くした。
「違うったら」
「どうだかな」
「そんな隠してもばれるような嘘は吐きませんよ」
「ばれない嘘なら吐くのか」
「揚げ足取らないー」
妙なところが素直で嘘など吐かないという嘘は吐かなかった青島に、草壁は笑った。
「早く治るといいな」
青島の友人を思いやった草壁の言葉に、青島は顔を強張らせた。
それはほんの一瞬で、すぐに笑みを浮かべる。
草壁に礼を言って、使用済みの食器を洗い始めた。
青島が仕事に手をつけると、草壁は黙ってコーヒーに口をつけた。
―早く治るといい。
もちろん、青島もそう願っている。
命に別状がないとはいえ時々痛むようだし、不便な日々を強いられている室井を思えば可哀相だった。
青島自身のことを言えば抱き合うことすらままならないのも切ない。
一日も早い完治を願う気持ちはもちろんあった。
しかし、腕が治るということは、この同居もどきが終わるということでもある。
室井が自宅に帰ってしまう。
勝手で、薄情な言い分だと分かっているが、その日が来るのは嫌だった。
来なければいいとは思わない。
室井の怪我が治らなければいいなどと、思うわけがない。
ただ、一日でも長く室井にここにいて欲しいという気持ちは確かにあって、早く怪我が治ればいいと願う気持ちと相反していた。
そして、そんな自分が青島には腹立たしかった。
手を動かしながらも悶々と考え込んでいた青島だったが、店のドアが開く音には敏感に反応し顔を上げた。
いらっしゃいませと言いかけて、言葉を飲み込む。
入ってきたのは室井だった。
「あ、おかえりなさい」
青島がそう声をかけると、草壁が振り返った。
三角巾で左腕を釣った室井を見れば、一目瞭然で青島の家の居候だと分かる。
青島に視線を向けると、草壁は真顔で頷いた。
「女じゃなかったな」
「だから、そう言ったでしょ」
青島は草壁に苦笑しつつ、きょとんとしている室井にカウンターの席を勧めた。
勧められるがままに腰を下ろした室井は、気になるのか草壁にちらりと視線を向けた。
「会うの初めてでしたよね。こちら草壁さんで、こちら室井さん」
右手で草壁を指し、左手で室井を指し、お互いに相手を紹介した。
紹介された二人は互いに目礼をしたが、「どうも」「よろしく」と言ったきり会話がない。
こうなることは予想通りだった青島は、内心で笑った。
室井と草壁で話が盛り上がるわけがなかった。
閉店後、後片付けをしている青島を待ちながら、室井はカウンターで煙草を吹かしていた。
青島のようにヘビースモーカーではないが、室井も時々煙草を吸う。
「そういえば、一度だけ会ったことがあったな」
青島は食器を布巾で拭きながら、首を傾げた。
「なんの話?」
「草壁君のことだ」
「あれ?そうでしたっけ?」
「会ったというか、見掛けただけだが」
何かを思い出したのか、室井が苦笑した。
「あの強面は、見覚えがある」
室井の目から見てもやっぱり怖い顔なのかと思いつつ、青島も思い出した。
まだ二人が付き合うようになる前のことだが、青島の喫茶店が経営難なのだと思い込んだ室井が、借金取りと勘違いした男がいたらしい。
青島も後からその目撃談を聞き、風体から草壁のことだと気付いて笑った覚えがある。
本人の預り知らぬこととはいえ勘違いされた草壁は不憫だが、その勘違い自体は面白かった。
もちろん、室井の誤解は解けている。
誤解は突拍子もなかったが、その誤解が青島と室井を結ぶ一因になっていたと言えなくもない。
それを思い出し、なんとも照れくさい気分になった。
「そんなこともありましたね」
「彼も常連だったんだな」
「ええ」
「そのわりに店内で会ったことが無かったな」
室井ももちろん常連である。
閉店ギリギリになることも珍しくないが、今となっては誰よりも喫茶店に通ってくれていた。
その室井と草壁が顔を合わせたことがなかったのは、たまたまとしか言い様がなかった。
「草壁さんは頻繁に来るってわけでもないし、長居もしませんからね」
時々コーヒーを飲みに来て、青島と短い間会話を交わして帰っていく。
だが、付き合いは随分と古かった。
「そういえば、つぶれたんじゃないかって心配されてました」
草壁の言葉を思い出して、青島は苦笑した。
「急に閉店が早くなりましたからね、無理もないけど失礼な話しっすよね」
それで気分を害しているわけではないので青島の口調は至って軽かったが、室井は眉をひそめた。
「どうかしました?」
「すまない、俺のせいで迷惑をかけてるな」
室井の謝罪に、青島は慌てて首を振った。
そんなつもりで話したわけではなかった。
「謝んないでくださいよ」
「しかし…」
「迷惑なわけないでしょ?室井さんのことだもん」
「しかし、俺のせいで客が減ったら困る」
室井が困った顔で言うから、青島は苦笑した。
「心配ありませんって、閉店時間が早くなったって言っても一時のことだし」
その一時の間に経営不振に陥るほど業績が悪くなるとは思えなかった。
草壁のように夜中に好んで来る客も多いが、閉店時間が戻ればまた来てくれるだろう。
青島は呑気に構えていたが、室井は複雑な表情で黙ってしまった。
そんなに気にされては、青島も困る。
「そんなに簡単につぶれそうですか?うちの店」
わざとに膨れっ面を作ると、室井は青島を見て小さく笑った。
「いや、そんなことはない」
「なら気にしないでくださいよ」
「ああ…」
頷きはしたものの室井はまだ何かを気にかけているようだったが、後片付けを再開した青島は気付いていなかった。
一時のこと―。
その通りだった。
室井が青島の部屋で暮らすのは一時のことなのだ。
青島の口からはっきりと言われたことが、室井にはいくらかショックだった。
それは事実であり、当たり前のことである。
室井だってそのつもりでいたし、青島がさっさと出て行ってくれと冷たく言ったわけでもない。
それなのに少なからずショックを受けたのは、室井がここに、青島の家にいたいと願う気持ちがあったからだ。
室井は溜息をつき、片手で湯船の湯を掬い、顔を濡らした。
青島に髪や身体を洗ってもらい湯船に浸かっていた。
世話をかけている。
世話をかけているどころか、仕事の邪魔までしていた。
青島が邪魔だと思っていないことは良く分かっているが、結果的に邪魔をしていた。
あの喫茶店は、青島が守り続けている大事な場所だ。
それを奪うようなマネはしてはいけない。
なるべく早く青島を日常に帰してやらなければならない。
室井はそう思った。
そのためには早く腕を治し、一人で生活できるようにならなければならなかった。
「室井さーん」
ドアの向こうから青島の声がして、揺れる水面を眺めていた室井は顔を上げた。
「どうした?」
ドアが薄く開き、冷気と一緒に青島が顔を見せる。
室井を見ると、何故かにこりと笑った。
「あ、無事ですね、なんか静かだったから気になって」
様子を見に来てくれたのだろう。
室井は苦笑した。
「大丈夫だ、生きてる」
青島が弾かれたように笑い声を上げた。
「なら良かった」
ごゆっくりと言って、ドアをしめる。
青島の気配が消えて妙に寂しく感じたが、胸に温かい気持ちが広がっていた。
青島といるといつもそうだった。
多分幸せだからなのだと思う。
こんな気持ちは、何も一緒に暮らさなければ味わえないものではない。
青島と気持ちを通わせていられる間は、ずっと抱えていけるはず。
それなら、同居にこだわる理由はなかった。
青島の生活を、時間を尊重した付き合いが、大事だった。
そう思うことで、室井は自分を納得させた。
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