青島は薄暗い店内に入ると、ブラインドを開けた。
明るい日差しに目を細める。
今日は快晴で、それだけでなんとなく気分が良くなる。
窓を薄く開けると冷たい空気が入りこみ、閉め切っていたせいで滞っていた空気が流れ出した気がした。
「よし」
青島は一つ気合いをいれてモップを握ると、床の掃除を始めた。
青島の喫茶店は、昼過ぎから開店準備を始める。
夜中まで営業しているため、開店は遅めだった。
青島一人での営業では、それも仕方がなかった。
ランチタイムの営業も考えないではないが、そうすると従業員を雇わないと店が回らない。
今のところ、誰かを雇うつもりはなかった。
だからといって、人が嫌いなわけではない。
むしろ好きな方で、接客は楽しく青島の外向きの性格には向いていると言えた。
ただ、店で一人きりでいる時間も好きだった。
今はそれが時々、室井を待つ時間にもなる。
一人が良かった。
それに深い時間にやってくる常連が多いくらいだから、昼にやっていなくても特に問題はないだろう。
とりたてて客を増やそうと思わないあたり、青島はあまり熱心な経営者とは言えないかもしれない。
生きていくために困らない程度の収入があれば、それで良かった。
守るべき家族がおらず、従業員一人という状況も手伝って、喫茶店の経営自体は呑気で気楽なものだった。
床の掃除を終えると、上げてあった椅子を床に下ろして、テーブルを拭く。
キレイに洗った灰皿を置き、申し訳程度に用意されている禁煙席に飾ってある鉢植えに水をあげた。
花きりんというやけに可愛らしい名前の小さな観葉植物は、和久がくれたものだった。
時々水をあげて日当たりの良いところに置くだけでいいと言われているので、そうしている。
窓際にある禁煙席は、店内で一番日の当たる場所だった。
店内の掃除をあらかた終えた頃、不意にジーンズの尻のポケットで携帯が震えた。
着信は室井からで、すぐに電話に出る。
「もしもし、室井さん?」
『おはよう』
既に昼を過ぎていたが、青島の朝が遅いことは室井も知っていた。
「おはようございます」
『今、忙しいか?』
「大丈夫っすよー」
青島はカウンターに腰を下ろし、灰皿を引き寄せた。
「どうかしました?」
平日の昼間に電話が掛かってくることは珍しい。
今日も仕事に行っているはずだから、おそらく昼休みなのだろう。
『今夜飲み会で遅くなるんだが、泊まりに行ってもいいか?』
煙草に火を点けていた青島の目が笑う。
唐突なお誘いだったが、嬉しくないはずがない。
「もちろん。でも明日も仕事じゃないんですか?」
『この間の休出の代休が取れたんだ』
「お、良かったっすね」
明日が休暇なら室井ものんびりできていいだろう。
青島はどちらだって問題はないが、室井が休暇なら長い時間一緒にいられるから単純に嬉しかった。
『遅くなってしまうと思うから、申し訳ないんだが』
「いえいえ、どうせ俺も店がありますし、待ってますから来てくださいよ」
『ありがとう、飲み会がないともっと良かったんだがな…』
あまり飲み会に乗り気ではないことは、室井の声のトーンで分かった。
もしかしたら飲み会自体が不満なのではなく、飲み会に行くより青島の喫茶店に来たいと思ってくれているだけかもしれない。
「接待ですか?」
『いや、同期が結婚するから、そのお祝いなんだ』
「それはめでたいっすね!おめでとうございます」
『…ありがとう、俺がするわけじゃないんだが』
苦笑する室井に、青島も笑う。
「そりゃ、そうだ」
灰皿に灰を落として、頬杖をついた。
「だめですよ、しちゃ」
冗談めかして言うと、電話の向こうで室井がむせた。
『ばか、当たり前だろ、できるわけがない』
青島のために見合いを断った経験の持ち主である。
室井の言葉には説得力があった。
室井がずっと傍にいると約束した相手は青島なのだ。
法律上室井と青島では結婚できないのだから、室井が結婚するはずもない。
どこかで室井に対して申し訳ないという気持ちが湧く。
室井だったら、素敵な女性と結婚して幸せな家庭を築くこともできただろう。
一見取っ付きにくく不器用な男だが、生真面目で優しい男である。
口数は少なめだが、大事なことを伝える時には言葉を惜しまない。
それなりの時間を共に過ごせば、愛情が深い人であることも実感できる。
愛する女性と結婚すれば彼女を守り、子供が生まれれば何より大事にするだろう。
良い夫で良い父になったのではないかと思った。
だが、そんな未来よりも、室井は青島を選んでくれた。
結婚してやることも子供を産んでやることもできないが、そんなことは室井には関係がないのだ。
青島とは結婚できないのだから室井が結婚することはない、それを当たり前だと言ってくれる室井の気持ちが、青島には嬉しかった。
できることなら、ずっとそう思っていてもらいたかった。
「冗談ですよ」
『君もだからな』
照れているのか、低い声で釘をさされる。
―君も結婚したらだめだからな。
そういう意味なのだろうが、言われるまでもなかった。
青島は穏やかに微笑んだ。
嬉しかった言葉をそのまま返す。
「当たり前でしょ」
それから二三言葉を交わして、電話を切った。
元々室井と長電話をすることはまずないのだが、会社にいると分かっているから余計に早めに切り上げた。
これから室井も仕事に戻るという。
青島も頑張らなければと思った。
煙草の火を消し、再び開店準備の続きを始めた。
先ほどよりも身体が軽くなり仕事が捗る気がしたが、きっと気のせいではない。
現金なもので、楽しみができると分かりやすく仕事にハリができる。
室井が泊まって行くことは、それほど珍しいことではない。
仕事が忙しい人だからしょっちゅうというわけにはいかないが、時間ができればどこか遠慮がちに泊まって行ってもいいかと聞いてくれるし、青島がお誘いして泊まって行ってもらうこともあった。
滅多にないことでもないのに、それでも青島にとっては仕事にやる気がでるくらいに嬉しいことだった。
開店前の静かな店内には、青島の鼻歌が響いていた。
携帯電話の着信音で目覚めて、青島は自分が寝ていたことに気がついた。
室井が来るのを待っていて、いつの間にかソファーで転寝していたらしい。
時計を見ると、二時近かった。
室井はまだ来ていなかった。
すると、電話は室井からか。
青島は起き上がり、テーブルの上で鳴り続ける携帯電話を慌てて手に取った。
やはり室井からの着信だった。
「はい」
『青島か?俺だ』
返ってきた声は室井の声ではない。
青島は驚いた。
「一倉さん?」
『おう、夜中に悪いな』
そんなことは別に構わなかったが、何故一倉が室井の携帯電話から電話をしてくるのか。
室井と一緒にいたからだろうが、それなら室井はどうしたのか。
ほんの一瞬だったが、青島の脳裏に暗い記憶が過ぎった。
『室井がちょっと怪我してな』
息を飲んだ青島に、一倉が苦笑気味に続ける。
『大袈裟に話すと室井に怒られるから先に言っとくが、室井は元気だから心配はいらないぞ』
怪我をしていて元気という言い方はおかしいが、命に別状があるわけではないと言いたいのだろう。
青島は無意識に詰めていた息を吐いた。
「怪我の具合は?室井さんはどうしてるんです?」
『今、病院で治療中だ。本人は元気だが、腕を骨折したらしい』
「骨折…」
青島の眉が寄る。
確かに命に別状はないが、骨折と言えば結構な大怪我である。
『あいつ、今日お前のとこに行く予定だったんだろ?夜中に悪いが治療終わったら連れて行ってもいいか?』
「それはもちろん…ああ、待って、病院教えてください、今から行きますから」
治療を終えた室井が来るまで、一人家で待っているのは落ち着かない。
病院に行ったところで何ができるわけでもなかったが、とにかく顔が見たかった。
携帯を片手に立ち上がり、上着と車の鍵を掴む。
『そうしてもらえると助かるな』
一倉から病院の名前と場所を聞き出し、青島は家を飛び出した。
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