■ 明日も一緒に(10)


―失敗したな。
青島はフライパンを見つめて、思った。
目玉焼きを焼き過ぎた。
いつの間にか黄身が固まってしまっている。
フライ返しで底を覗けば、食べられない程ではないが焼け焦げていた。
「失敗したなぁ」
今度は口から出た。
無精して二つの玉子を一度に焼いてしまったため、室井の分の玉子まで焦がしてしまった。
仕方がないから室井の分だけ焼きなおそうかと考えていると、着替えを終えた室井が台所に姿を見せた。
「何が失敗したって?」
青島は苦笑してフライパンを差し出した。
「目玉焼き、焦がしちゃった」
フライパンを覗き込み、室井も苦笑する。
「これくらいなら食える、気にするな」
「室井さんもこれでいい?」
「ああ」
「ありがと」
青島はフライ返しで二つの目玉焼きを適当に切って、別々の皿に乗せた。
その皿を室井がテーブルに運んで行く。
朝も夜も室井の姿のある生活というのが、初めは多少不思議な感じもしたが、今はなんの違和感もなかった。
毎日一緒なのだから、慣れて当然だ。
決まって朝は一緒に台所に立ち、夜は眠くなるまでリビングで二人で過ごした。
数日だけだが、同じベッドで眠った夜もあった。
互いに働いている時間以外は、一緒に過ごした。
だが、そんな毎日も後少しだった。
焦げた目玉焼きを食べながら、青島は謝った。
「ハムもベーコンもなくてごめんなさい」
「いや、問題ない」
「店に行けば、少しあるんだけど」
「店のがなくなると困るだろ」
「ハムとベーコン、どっち好き?」
「どっちでもいいが」
「強いて言えば?」
「…ハム」
「じゃあ、明日はハムエッグにしよーっと」
「だから、気にしないでいい」
室井が箸を止めて、小さく笑みを漏らした。
味も素っ気もない、焦げ目だけはある目玉焼きが気になったのだが、室井は全く気にしていないようだった。
もっとも、室井が人様に提供された食事に文句を言うはずもない。
だからこそ、焼け焦げた失敗作の目玉焼きが少しだけ気になった。
明日リベンジしようと思いながら、柔らかい表情の室井を盗み見る。
柔らかいとはいえ、平素が硬過ぎる室井の表情だから、それほど崩れているわけではないが。
機嫌が悪くないことは見て取れる。
青島は内心ほっとした。
夕べ、室井とぎこちなく離れていたので、気になっていたのだ。
「おやすみ」と言って寝室のドアを閉めた室井の素っ気なさが気になっていた。
あからさまに不機嫌だったわけではないし怒っているというほどの激しさはなかったが、いつもの室井とはどこか違っていたように思う。
室井の不機嫌の理由はなんとなく分からないではない。
自分に置き換えてみれば分かる。
もしも室井が誰かに告白されたと知ったら、青島だって嫉妬するだろう。
室井の浮気を疑う気はないが、不安にくらいはなる。
室井にとって自分より素敵な人が現われない保証はどこにもない。
室井の恋人である自分を卑下するつもりはないが、何があっても気にならないという程自信があるわけでなかった。
室井が青島と似たようなことを考え、嫉妬してくれているのなら、不謹慎だが嬉しく思う。
ただ、青島はそれが理由で自分たちの間に波風が立つことを嫌った。
恋愛において嫉妬や駆け引きが重要な意味を持つことがあるのは知っているが、室井との間にそんなものが必要だとは青島は思っていない。
出来ることなら、余計なことに囚われず相手だけを見つめて恋愛していたかった。
青島には室井だけで良かった。
だから、彼女から告白されたことを室井に伝えるつもりはなかった。
室井に知られてしまったのは偶然で、手紙を見られなければ室井が知ることはきっとなかった。
少し苦味のある目玉焼きを咀嚼しながら室井を見れば、室井は眉間に皺を寄せて自分の腕を見下ろしていた。
ギプスをしている腕を睨みつけている。
「どうしました?痛い?」
青島が心配そうに尋ねると、室井は苦く笑った。
「いや、ちょっと痒いんだ」
「ああ…」
青島は納得した。
ずっとギプスをしていると、蒸れて痒くなると聞く。
ギプスの中では掻くこともできないから、我慢するより仕方がなかった。
室井が不愉快そうに、溜息交じりに呟いた。
「早く外してしまいたいな…」
青島はドキリとした。
不自由を強いられている室井にとっては当たり前の感情だが、鬱陶しげに吐き出された言葉に少しだけ悲しい気分になった。
何故かといえば、ギプスが取れる時は室井がこの家を出て行く時だからだ。
それは納得しているくせに、現実味を帯びてくるたび心が動揺してしまう。
だが、室井に悟られたくはない。
青島は慰めるように笑った。
「もう少しの辛抱ですよ」
「そうだな」
苦笑して顔を上げた室井が、怪訝そうに青島を見た。
「どうかしたか?」
「どうかって?」
「いや…」
聞き返したら、口ごもった。
何がどうとは言えない程度に、青島の寂しさを感じとってくれたのかもしれない。
大事なことは、こういうことだと思った。
いつも青島を気にかけていてくれるから、小さな違和感に気付いてくれる。
こんなことでも室井の愛情が感じられて幸せだなと思う。
しかし、室井の気遣いを感じたら、尚更青島のくだらないマイナス志向を説明できない。
こんなに想われていて何が不服で、何が心配なんだと自分でも思う。
青島は意識せずとは明るく笑って、箸を動かした。
「早く食べないと遅刻しますよー」
思い出したように、室井も食事を続ける。
ご飯を口に押し込みながらちらりと室井を見ると、まだ気になっているようで室井も同じように青島を見ていた。
それがおかしくて箸を咥えたまま目だけで笑うと、室井は照れたように視線を落とした。


―こんなに幸せだと思うのになぁ。
青島は自分自身のことなのに不思議に思いながら、グラスを磨いていた。
「なんか浮かない顔ね」
いつものようにカウンターに座ったすみれが言った。
青島にも自覚があったから苦笑するしかない。
「ちょっとね」
「なんかあった?室井さんと」
「なんで限定?」
「顔に書いてある」
にこっと微笑まれて、そんなはずもないのに頬を撫ぜた。
本当のところは、あまり悩まないはずの青島が思い悩んでいればその原因は恋人の室井だろうというすみれの予想である。
とはいえ、すみれが覚えている限り、室井と付き合い出してから青島が思い悩んでいる姿など、ほとんど見たことがなかった。
「何もないよ」
青島は肩を竦めて磨いたグラスを片付けながら言った。
本当に何もない。
ケンカしているわけではないし、室井に不満も不服もない。
それなのに、どこか気持ちが浮かないのも確かだった。
一緒にいる時はまだ良かった。
室井と一緒にいれば楽しいし幸せだった。
だが、一人になると、ふと寂しさが襲ってくる。
今までにはないことだった。
室井が泊まって帰った翌日は確かに寂しかったが、それが尾をひくことはなかった。
またすぐ会えるという思いがあったからだ。
だが、今は、それが慰めにならない。
室井が自宅に戻るまでのカウントダウンをしている毎日だから、それも当然かもしれない。
室井のことを想う時、どうしても別れのことが頭を過ぎった。
贅沢になっているのかもしれないと思った。
室井がいることに慣れ、傍にいることが当たり前になって、それでも満足出来ずにもっともっとと望んでいるのかもしれない。
それなら嫌だなと思った。
「また何か悩んでる」
怖い顔だとすみれに指摘されて、青島は笑顔を作ってみた。
「嘘臭い」と一蹴されれば、苦笑するしかない。
「本当に何にもないんだけどね」
「そのわりに元気なさそうだけど」
「そうかな」
「そうよ」
「うーん…」
すみれに話そうかどうしようか迷った。
聞いて貰えば多少すっきりするかもしれないが、一緒に暮らそうと誘えばいいじゃないと言われて終わるだけのような気がしなくもない。
それが出来れば、青島も苦労はしていない。
それに女々しい自分を知られる気がして、いくらすみれ相手でも言い出し辛かった。
青島の躊躇いを感じたのか、すみれはそれ以上聞かなかった。
代わりに助言をくれる。
「何悩んでるのか分かんないけど、一人で悩まないで室井さんも巻き込みなさいよ」
青島は上目遣いですみれを見た。
「巻き込む…」
「室井さんは恋人でしょ?」
一人で悩んでいなくても、青島の声を聞き一緒に悩んでくれるはずの恋人がいるのだ。
遠慮していないで相談でもなんでもしてみればいいのだとすみれは言う。
青島は少し困った顔で、本音を零した。
「でも、重たいと思われるのも嫌なんだ」
すみれは目を丸くしたが、したかないわねという風に微笑んだ。
「人を想うって、元々重たいものじゃない?」
言われてみれば、そうかもしれないとは思う。
少なくとも、青島の室井に対する想いは軽くはない。
それを室井に重たいと思われたくなかったのだが、すみれは笑い飛ばした。
「あの人のことだから、重たいとは思わないと思うけどな」
「…そうかな」
すみれの後押しに、少し心が動く。
言ってみても、いいのだろうか。
一緒に暮らしませんかと。
室井を困らせることにはならないだろうか。
気まずくなったりしないだろうか。
なにより、室井を失うようなことになるのが、一番怖かった。
だが、室井の深い愛情を信じていないわけではない。
勇気がでなかっただけだ。
その背をすみれが押してくれる。
「青島君のことなら、喜んで一緒に悩んでくれるわよ」
ずっと傍にいたいと言えば、やっぱり困らせるかもしれない。
それでも、言ってみるだけ言ってみてもいいのかもしれない。
願いが叶えられるかどうかは別にしても、室井なら青島の全てを受け止めてくれるような気もした。
何より、やっぱり何度考えても、室井と離れていたくない。
一緒に暮らしたい、その想いが強かった。
「ありがと、すみれさん」
はにかむように礼を口にした青島に、すみれも照れたように小さく微笑んだ。










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2010.8.28





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