遅くに喫茶店のドアが開いて、青島はハッとした。
「こんばんは〜」
姿を見せたすみれに、青島は落胆しないように気をつける。
すみれの来訪が嬉しくないわけがない。
だけど、待っていたのは別の人だった。
青島はやんわりと微笑む。
「いらっしゃいませ、すみれさん」
「大分、寒くなってきたね〜」
寒そうに腕を摩りながら入ってくる。
確かに薄手のカーディガンでは、もう寒いかもしれない。
「朝晩は特にねぇ……今日は遅いね」
どうしたのかと聞くと、飲み会の帰りだと言う。
言われてみれば、少し酒臭かった。
「なんか、甘いの飲みたいなぁ」
「モカジャバにする?ココアも作れるけど」
「えっと…ココアがいいな」
「かしこまりました」
青島が準備をしていると、すみれは飲み会の話しを始めた。
どうやら接待だったらしく、美味いモノが食べられたようだ。
すみれの口から出るのは、あれが美味かったこれが美味かったということばかり。
青島は思わず笑った。
ちゃんと接待はできたんだろうかと思いながら、すみれの前にカップを置いた。
「…青島君、なんかあった?」
「え?」
鍋を洗おうとしていた青島は、手を止める。
すみれを見ると、少し眉をひそめた。
「なんか元気ない」
「そんなこと」
「無理して笑ってる」
ぴしゃりと指摘されて、頬を強張らせる。
―室井さんといいすみれさんといい。
青島は苦笑した。
「俺ってそんなに分かりやすいの?」
「青島君とどれだけの付き合いだと思ってんのよ。ずっと見てれば、分かるわよ」
意味無く胸を張ってみせたすみれに、青島は苦笑を深める。
すみれとの付き合いは、10年にもなる。
青島にだってすみれの感情の波は、何となく感じられるのだ。
お互い、それだけずっと近くにいたということだろう。
「そっかぁ…」
いつも気に掛けてくれているすみれの優しさが嬉しかった。
「室井さんと何かあった?」
さらりと言われて、青島は目を見張る。
そんな青島を見つめて、すみれは小さく笑った。
「違ったらごめん。何と無く、そう感じたから」
「……もしかして、気付いてた?」
何がとは言わなかったが、すみれが頷いてみせたから、言う必要もなかった。
「そうかなって思ったんだけど、聞くに聞けないし。もしかしたら、青島君自身気付いてないんじゃないかなぁとも思ったし」
「凄い。なんで分かるの」
すみれに知られた気まずさよりも、驚きの方が勝る。
すみれは肩を竦めた。
「青島君が珍しくお客さんに執着してたから……でも青島君が中々それ認められないことも知ってるしね」
すみれは家族を亡くしてからの青島のことを良く知ってくれている。
人とあまり深く関わろうとしない青島を、心配してくれてもいた。
青島はふっと笑みを零した。
「そういえば、すみれさんに隠し事を隠し通せたことって、無かったなぁ」
すみれもつられたように笑う。
「あったりまえでしょ〜。青島君、単純なんだから、隠そうとすること自体、無理があんのよ」
「ひでぇ……でも、その通りだなぁ」
青島は笑ったまま、少しだけ目を伏せた。
「結婚するんだって、室井さん」
すみれが息を飲む音が響く。
「お見合いが上手く行ったらしくて」
「…そう」
カップを両手で握り込むと、心配そうな眼差しをくれた。
「青島君は?それでいいの?」
「気持ちなら、伝えたよ。けじめだけは付けたくてね…ちゃんとマスターでいられるように」
「そっか、頑張ったね」
すみれに褒められて、青島は苦笑した。
「でも、室井さんは二度と来ないと思うから、意味は無かったかもしれないね」
あの日以来、室井はピタリとここに来なくなった。
室井は青島にまた来てくれると約束してくれたが、これが室井の答えなのだろう。
気持ち悪がられても、迷惑がられても、文句は無かった。
それをすみれに伝えると、すみれは眉を吊り上げた。
「会社まで押しかけて、ぶん殴ってやる」
それなりに本気だと分かるから、慌てて宥める。
「室井さんは悪くないんだ、全然。お客さんに、しかも同性に惚れちゃった俺が悪い」
「でも、だからってっ」
「室井さんは優しい人だよ。ここに来ないことも、あの人なりの優しさかもしれないし……これ以上迷惑掛けたくないんだ」
穏やかに告げると、すみれは押し黙る。
青島は微笑んで見せた。
「俺にできることは、あの人の幸せを祈ることぐらいなんだ」
「青島君…」
室井が結婚して、幸せになってくれれば良い。
もう会えないし話せないだろうから、青島はそう願うしかなかった。
「結局…お祝いも言えなかったなぁ…」
青島はそっと目を閉じる。
瞼の裏には、まだ確かに室井が存在していた。
室井が一倉のついた嘘を知っていれば、青島の失恋した相手が誰か分かったはずだった。
青島が室井を好きだとはっきり言えていれば、二人は擦れ違わずにすんだはずだった。
2人の気持ちは、未だに平行線だった。
***
残業していた室井は、携帯電話が鳴って仕事の手を止めた。
ディスプレイを見ると、見知らぬ番号だった。
仕事に使っている携帯だから良くあることなので、さして気にもせずに通話ボタンを押す。
「はい、室井です」
『恩田すみれです。覚えてる?』
一拍置いて、すぐに思い出す。
「喫茶店で会った青島の…」
―好きな人。
心臓が締め付けられるような思いがした。
今が残業中で、他に誰もいなくてよかったと思う。
自分の顔が強張っていることくらい、鏡を見なくても分かった。
『名刺に携帯番号も書いてあったから、電話させて頂きました』
「……何か、用だろうか」
室井にはそれしか言えることが無い。
すみれが室井に電話をしてきた理由が分からなかった。
『青島君から話し聞いた』
何の話しだろうと思う。
もしかして青島が彼女に告白でもしたのだろうかと思ったが、それなら室井にわざわざ報告する必要はない。
迂闊なことを言えば青島を傷つけると思い、室井は言葉を返せずにいた。
すみれは室井の反応など構わずに続ける。
『酷いじゃない』
なじられて、室井は目を丸くする。
「何がだ?」
酷いのはむしろ君じゃないかと、思ったが口には出せなかった。
だって青島の気持ちに気付かずに、他の男と結婚するというのだ。
室井からしてみれば、すみれの方がよっぽど酷い。
本来ならすみれには何の非もないが、酷く切なそうな顔をしていた青島を思い出すと、どうしてもすみれに好意的にはなれなかった。
『喫茶店に全然行かなくなったんですってね』
室井は憮然としつつも首を傾げる。
喫茶店に行かなくなったことを「酷い」と言われているのだろうか。
『青島君のこと、嫌いになった?気持ち悪い?』
たたみかけるように言われて、室井は目を剥く。
いよいよもって、話しが見えない。
そんなわけあるかと叫びたいのを何とか堪える。
「待て、君は一体何の話しを」
『貴方は青島君なんかどうでもいいのかもしれないけど、私はあんな青島君見てられないっ』
怒鳴られて、室井の表情が変わる。
「青島に何かあったのか?」
『毎日辛そうにしてるわよ』
「なん…っ」
『アンタが行かなくったせいよっ』
「…俺が?」
『頻繁に通ってたくせに、この薄情モノっ』
乱暴な言葉だったが、半泣きのような気がした。
―俺が行かなくなって、青島が困っているということは…。
室井は沈黙し考え込んで、携帯を握り締めると決意した。
「分かった、これから行ってくる」
『え?……本当に?』
すみれの不安そうな声に、室井は力強く頷く。
「ああ、青島が困っているなら当然だ。それにしても…そんなに経営状態が悪かったのか」
少し間が開いたが、室井は気が付かなかった。
『は?』
「俺一人じゃたかがしれているとは思うが、毎日通えば違うだろうし」
『ちょ、ちょっと…?』
「一倉にも、知人にも通うように伝えておこう」
常連が来なくて青島が困っているということは、経営状態が悪化したということだろう。
あの時の男は、やはり借金取りか何かだったのかもしれない。
自分の事情がどうであれ、青島が困っているなら放ってなどおけない。
何としても助けたい―。
などと思った室井は激しく的が外れていたのだが、本人はどこまでも真剣だった。
しばらくの沈黙の後、すみれが深い溜息をついた。
何て察しの悪い男だと思ったことだろう。
『もう……何でもいいから、行ってあげて』
疲れたような声のすみれに、室井は青島のことですみれも胸を痛めているのだろうと、勝手に解釈した。
「俺にできる限りのことはするから」
『ありがとう……ごめんなさい』
そう言って、電話は切れた。
すみれの謝罪の意味が分からなかったが、青島のことで頭がいっぱいになった室井は気にも止めず、パソコンの電源を落として帰る支度を始めた。
暫くは会わないと決めていたのに、会いにいけることを喜んでいる自分がいた。
青島のために何かが出来るかもしれないということが、嬉しくて堪らないのだ。
バカなことをしているのかもしれない。
自分が辛くなるだけかもしれない。
それでも室井は躊躇わなかった。
―青島が笑ってくれるなら……それでいい。
NEXT