室井が喫茶店に着いた時、丁度中から一人の客が出て来た。
大柄な男で、青島よりも更に大きい。
すれ違いさまにじろりと睨まれて、室井は片眉を持ち上げる。
そのまま行き過ぎた男を見送って、室井はドアを開けた。
さっきの男が最後だったのか、店内には他の客は誰もいなかった。
また閉店間際であるから、当然かもしれない。
「いらっしゃいませ……あ」
青島は室井を見て、ニコリと笑みを浮かべた。
「こんばんは、室井さん」
「こんばんは」
室井はカウンターに腰を下ろして、少しドアを振り返る。
「今出て行った客も、常連なのか?」
普段なら他の客のことはあまり気にしないが、今の男が少し気になった。
睨まれたからというよりは、あまり堅気の人間に見えなかったからだ。
まさかと思うが、青島が何か困ったことになっているのではないかと、心配になったのだ。
「そうですそうです。室井さんと重なるのは初めてでしたね〜。あの人、恐い顔してたでしょ」
「…睨まれた気がする」
素直に答えたら、青島は小さく吹き出した。
「多分睨んだわけじゃないと思いますよ〜」
いつも恐い顔をしているが、不機嫌なわけではないようだと教えてくれる。
どうやらあれがあの男の地顔らしい。
室井の眉間の皺と、彼の目付きの悪さは似たようなものかもしれない。
「ほとんど話しもしないんですけどね。たまにコーヒー飲みに来てくれるんです」
「そうか…」
「あ、なんか勘違いしました?地上げ屋とか?」
図星を指されて返す言葉もない。
室井は眉間に皺を寄せた。
「……君が困っているんじゃなければいい」
視線を落としてぼそりと呟いた。
青島は軽く目を見張っていたが、やがて目を伏せて苦く笑った。
視線を逸らしていた室井は、青島の表情の変化に気付くことはなかった。
「ありがとうございます……何飲みます?」
―青島の様子がおかしい?
室井はふと思った。
いつもみたいに笑って話しかけてくれるが、その笑顔がいつもと違う気がするのだ。
明るいのに、どこか暗く見える。
青島の笑顔が好きだったから、気が付いたのかもしれない。
「何かあったのか?」
会話が途切れた瞬間に、思い切って聞いてみる。
「え?」
「表情が暗いから、何かあったのかと思った」
青島がふっと無表情になる。
が、すぐに苦笑いを浮かべた。
余計なことを聞くべきじゃなかったかもしれないと、室井は思った。
何かがあったとして、青島が一生懸命笑っているのだとしたら、きっと室井に触れて欲しく無かったことだろう。
青島に何かしてあげられたらと思うが、青島にしてみれば余計なお世話にすぎないかもしれない。
「無理に話せとは言わないから」
室井がそっと付け足すと、青島は笑みを零した。
そして少しだけ悲しそうな目を、隠さなかった。
「実は、失恋しちゃって」
微笑みかけられて、室井は硬直する。
あれほど避けて通ってきたはずなのに、あっさりと青島の気持ちを知ってしまった。
白くなった頭の片隅で、呆然と思う。
―好きな人が、いたんだ。
当然だとも思う。
恋人がいないことすら、不思議に感じるような男だ。
惚れた相手くらい、いるだろう。
室井が言葉を無くしてしまっているのを、かける言葉がないと受け取ったのか、青島は勝手に話し出した。
「お見合いで、結婚が決まったばかりの人です」
ちらりと視線を向けられても、室井は何のリアクションも返せない。
「…その話しを聞いて、初めて自分の気持ちに気が付いたんですけどね」
自虐的な笑みに、胸が痛くなる。
結婚が決まったと聞いて頭に浮かんだのは、先日この喫茶店で顔を会わせた女性だった。
見た感じ可愛らしい女性だったが、青島と話している雰囲気を見る分には、恋人や恋人未満といった雰囲気はなかった。
パートナーを探しているようだったから、彼女かもしれない。
仲が良さそうで実は初めは少し焦ったのだが、そういう関係ではないというのは何となく感じていた。
それもそのはずである。
本人に自覚がなかったのだから、そんな雰囲気があるはずもない。
「気付いたのはつい最近なんですけど、多分もっと前から好きだったんだろうな」
「……そうか」
やっとのことで声を搾り出すと、青島は一瞬だけ表情を歪める。
泣くんじゃないだろうかとハッとしたが、青島はすぐに笑みを浮かべた。
「でも、どうこうしたいとか言うんじゃないんです。ただ…」
真っ直ぐに見つめてくる青島を、室井はまともに見つめ返すことが出来ない。
「今までと変わらず、ここに会いに来てくれれば、それだけで充分」
ニコリと微笑まれて、室井は出来るだけ力を入れずに、静かに尋ねた。
「君はそれで、辛くないのか?」
自分だったら、誰かを愛している青島に、平気な顔で会いに来れる自信が無かった。
「会えなくなる方が、きっとずっと辛いです」
青島は穏やかに呟いた。
その気持ちも良く分かる。
室井もそう思ったから、青島が自分を好きじゃなくても、会いに来ようと決めたのだ。
―俺が青島を想うのと同じような想いで、青島もあの人を想っているんだな…。
ショックはこの間の見合い話しの比じゃない。
それでも、この前のように、青島を傷付けたりはしたくない。
できたらずっと笑っていて欲しいと思う。
室井は少しだけ微笑んだ。
「君は強いな」
青島は少し驚いた顔をしたが、力の抜けた笑みを浮かべた。
「そうですかね…」
応援はしてあげられない。
伝えてみるだけ伝えてみたらどうだとも、言ってやれない。
当たって砕けることは、自分にだって出来なかった。
それを無責任に青島に勧められないし、そうじゃなくたって言葉に出来そうになかった。
結果がどうなるにしろ、青島の恋の応援は、やっぱりしてあげられない。
その変わり、青島の幸せを祈ってあげることくらいはできる。
好きな人にはいつだって幸せでいて欲しい。
例え、幸せの瞬間に、自分が隣にいなくても。
室井は漸く青島の目を見つめ返して、言葉にした。
「君が笑って待っていてくれたら、きっと会いに来るだろう」
彼女だって、青島の笑顔は好きなはず。
室井が惹かれたように、きっと。
青島が笑顔で出迎えてくれるなら、きっと彼女はずっと通ってくれるはずだ。
室井はそう思ったから、青島にそう告げた。
室井にできる精一杯の励ましである。
「…はいっ」
青島は恐らく全力で笑ってくれたのだろう。
嬉しそうに笑っているのに、室井の目には今にも泣き出しそうにしか映らない。
それだけ彼女が好きなのだろうと、室井は切なく思った。
***
「最近、青島んとこ行ってるか?」
残業終わりに、一倉にそう声を掛けられた。
室井は緩く首を振る。
「いや。少しの間、行かないことにした」
そう言ったら、一倉は目を丸くした。
「なんでまた……青島と何かあったのか?」
一倉が気にするのは事の成り行き上、室井の気持ちを知ってしまったから。
室井はそう判断したから、素直に頷いた。
今更一倉に隠したって仕方がない。
「好きな人がいるそうだ」
「何?」
「青島にそう言われた」
だからもう、青島のことなどどうでも良くなったわけではない。
変わらずに好きだと思うし、会いたいと思う。
だけど、平気な顔で会えるようになるまでには、もう少し時間が掛かりそうだった。
「落ち着いて、ちゃんと青島の顔を見られるようになったら、また会いに行く」
それまでは、しばらく喫茶店に行かないと決めていた。
一倉は少し考えこんで、溜息をついた。
「そうか…意外だったなぁ。あてが外れた…」
室井は首を傾げた。
「何の話しだ?」
「いーや、何でもない。よし、飲みに行くぞ」
いきなり張り切りだした一倉に腕を掴まれる。
「お、おい、娘さんが待ってるんじゃないのか?」
「この時間ならもう寝てるさ。いいから、少し付き合え」
室井は苦笑した。
これも一倉なりの慰め方だ。
「…たまにはいいな」
「よし、行くぞ」
「お前の奢りだぞ」
「…可愛くないぞ」
「俺が可愛くてたまるか」
室井は小さく笑いながら、腐れ縁も悪いことばかりじゃないと思った。
『見合い、上手くいったみたいだぞ』
一倉が嘘をついたのは、青島の気持ちの有無を確かめるためだった。
正直なところ、見込みがないなら、室井にさっさと諦めて欲しかったのだ。
もちろん嫌がらせでそんなことを考えたわけではない。
一倉なりに室井を思ってのことだった。
室井が青島に本気で惚れていることは分かる。
だからこそ、心配でもあった。
両思いならまだいい。
普通の関係ではないから手放しに喜べはしないが、結局は当人同士の問題で二人が幸せならそれで良いと思う。
だが、室井の片思いで、青島にはなんの脈もないのであれば話しは別だ。
青島と友人という関係を築いていけるのなら、それに越したことはない。
一倉だって青島のことは嫌いじゃないのだ。
だが、室井はバカみたいに青島を大事に思いながら、しばらくは過ごすだろう。
友人としては、それが我慢ならなかった。
言葉は悪いが、さっさと見切りを付けて、先に進むべきだと思ったのだ。
だから、青島を試すようなことを言った。
だが青島に好きな人がいるのなら、それ以前の問題である。
―あの時の様子なら脈アリと思ったんだけどなぁ。
一倉は室井に酒を注いでやりながら、青島に嘘をついた時のことを思い返していた。
あの時はかなりショックを受けているように見えたのだ。
だが今になると、ただ驚いていただけにも思える。
青島の気持ちは青島にしか分からないし、その青島が他に好きな人がいると言うのならそういうことなのだろう。
どこかぼんやりとしながら酒を口に運ぶ室井に、一倉は笑った。
「男はアイツだけじゃないぞ、室井」
わざとカンに障るように言うと、室井は眉を寄せた。
「俺は別に男が好きなわけじゃない」
「あ、すまんが、俺はダメだぞ?愛する嫁と娘がいるからな」
「頼まれたっているか」
「何?わりと性能はいいんだぞ?」
「気色が悪いから、俺に売り込むな」
室井は眉間に皺を寄せて言ったが、やがて呆れたような笑みを零した。
「……お前にまた慰められるなんて、不覚だ」
苦笑しながら、目を伏せた。
暗い表情は、酒を飲んだくらいで晴れるわけがない。
分かっているが、一倉にしてやれることは精々この程度である。
後は勝手に立ち直ってもらうしかない。
一倉は室井の前に空のグラスを突き出した。
「崇め奉ってもいいんだぞ?」
失笑しながら、室井は一倉のグラスを満たした。
***
翌日は久しぶりに二日酔いになった。
酒を飲んだからといって、すぐに忘れられるわけじゃない。
一倉には少しだけ恥ずかしい本音を零したが、だからといって心がキレイに晴れるわけでもない。
眩しい太陽に顔をしかめながら、室井は思った。
―いつになったら、忘れられるんだろうな。
何となくそれが遠い気がして、酷く切ないのに、少しだけ嬉しいと感じた。
恐らく室井の予感は外れない。
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