「…失礼します」
室井は頭を下げて挨拶をすると、退室した。
ドアを閉めてから、深い溜息を吐く。
懇意にしている部長からの呼び出しだったのだが、別にミスをして咎められたわけではない。
むしろ、多分喜ぶべき知らせだったはずだが、室井にとっては一つも有り難くなかった。
―そんなことを言われてもな…。
無理なモノは無理なのだ。
上司にはきっちり断ったのだが、いいから少し考えてくれと言われてしまった。
室井はもう一度溜息をつくと、自分の職場に戻った。
やりかけの仕事を片付けようとパソコンを覗いて、新着メールに気が付く。
受信トレイを開くと一倉からのメールで、何と無く嫌な予感がした。
仕事絡みじゃないとは言い切れないから、読まずに削除もできない。
室井は仕方なく開いてみた。
『見合話だったろ?相手は美人か?』
一倉はもしかして部長のデスクに盗聴機でも仕掛けているんだろうか。
室井は無表情の下で、半ば真剣に思った。
ちらりと離れた席にいる一倉に視線を向けてみるが、一倉は電話に応対中だった。
室井はひっそりと溜息を零し、返信ボタンを押した。
『美人かどうかは見る側の主観によるものだから、一概に判断できないと思われる。』
それだけ送信すると、室井は自分の仕事に戻る。
だが、間を置かずにメールを受信して、目を丸くした。
『主観もくそも、当事者のお前がどう思うかが全てだろうが。で?美人か?好みのタイプか?』
室井はまた一倉を見たが、一倉は相変わらず電話応対の最中だ。
どうやら電話をしながら、メールを寄越しているらしい。
室井は呆れた顔をしつつも、律義に返信した。
『俺は当事者になった覚えはない。いいから、真面目に仕事しろ。』
『お前、まさか断ったのか?そんなに酷い顔だったのか?真面目に仕事してるだろ。』
『お前と一緒にするな。今はその気になれないだけだ。相手は関係ない。電話に集中しろと言ってるんだ』
『お前なぁ、会ってみないとその気になれるかどうかなんか、分かんないじゃないか。お前もしかして、既に相手でもいるんじゃないのか?俺に隠すなんて水臭いぞ。吐け。吐かないなら、意地でも吐かすぞ。』
何が水臭いだ、白々しい。
また一倉に視線を向けると、漸く電話が終わったらしく、真面目臭った顔でディスプレイを見つめていた。
『吐くようなことは、特別何もない。部長には後から正式に断る。それから、私用のメールは控えるように。』
室井はそれだけ返信すると、もう一倉に構わなかった。
きっと良い縁談だったのだろうとは思う。
部長が勧めるくらいだ。
一倉の言う通り、会うだけ合ってみるべきなのかもしれない。
だけど、万に一つも、室井がその女性と結婚するわけがない。
それが室井には分かっているから、断るしか道は無かった。
例えこの先叶うことがなくても、室井が好きなのは青島だ。
青島への気持ちを抱えたまま誰かと結婚することなど、室井にはできそうに無かった。
***
日課と言っても差し支えないほど通い慣れた喫茶店のドアを開けて、室井は硬直した。
「よぉ」
カウンターに腰を下ろした一倉が、片手を挙げて寄越した。
その向こうで、青島が苦笑している。
「いらっしゃいませ、室井さん」
「遅かったな。残業しすぎは良くないぞ」
一倉の白々しい発言に、頭を抱えたくなった。
一倉も室井と一緒に残業をしていたはずだった。
姿を見なくなって先に帰ったもんだとばかり思っていたのだが、何と先回りしていただけらしい。
室井は渋面になった。
「まぁまぁ、室井さんも、どうぞこちらに」
青島に手招きされて、室井は渋面のままだが素直にカウンターに腰を下ろした。
「ほら、やっぱり、室井さんと待ち合わせって嘘じゃないですか」
「俺はそのつもりだったから嘘じゃないさ。ただ室井が知らなかっただけだ」
「そういうのは待ち合わせとは言いませんよ」
青島は呆れたように笑った。
どうやら一倉は室井と待ち合わせだと青島に嘘をついて待っていたらしい。
「何がしたいんだ、お前は…」
溜息をついた室井に、一倉は肩を竦める。
「お前に断らないと、ここに来ちゃだめなのか?」
室井は眉間に皺を寄せた。
本当は駄目だと言ってやりたかったが、青島にしてみれば一倉も一応客である。
多少なりとも売り上げに貢献もしているだろう。
それなのに、関係ない室井が「来るな」というわけにはいかない。
室井は結局何も答えず、青島にコーヒーを頼んだ。
青島は微笑んで頷いてくれた。
「実はな」
一倉が改めて切り出したから、室井は何事かと一倉を見る。
「今日は腹を割って話そうかと思って」
室井は眉間に皺を寄せた。
「何だ、改まって」
薄気味悪いと思ったが、あえて言葉にしなかった。
「お前、何で結婚しないんだ?」
またその話か、と思う。
その話なら、前にもここでしている。
「その気になれないからだと、何度も言ってるだろう」
室井は半ばうんざりしながら、コーヒーをすすった。
「その気にならない理由は?」
「理由…?」
「あんだろ。好きな女がいるとか、人妻と不倫してるとか、実は隠し子がいるとか、借金地獄で結婚してる場合じゃないとか」
室井も、話しを聞いていた青島も、目を丸くする。
最初の理由以外は酷いものである。
「まさか室井さんがありえませんよ」
苦笑しながら、青島が突っ込んだ。
「わからんぞ。こういう男に限って、好きになっちゃいけないような相手に惚れるもんだ」
一倉の主張もあながち間違いじゃなくて、室井は内心焦った。
渋い顔をしている室井に、何を思ったのか青島が救いの手を差し延べてくれる。
「でも結婚って、無理にするもんでもないでしょ?」
「おっ、若造のくせに言うじゃないか」
一倉が茶化すように言うと、青島は膨れっ面になる。
「俺、もう29なんですけど」
「何?……サバ読んでないか?」
「誰が上にサバ読むんですか」
むうっと膨れている青島に、室井は苦笑を噛み殺す。
一倉は肩を竦めた。
「そりゃあ、悪かったな。若造扱いは」
自分たちと四つしか変わらないのだと知ると、一倉はあっさりと謝罪した。
「まぁ、青島の言う通りでもあるんだがな。したがらないこいつにも問題がある気がしてね」
一倉が話しを戻して、ちらりと室井を見てくる。
「お前には向いてると思うぜ?結婚」
余計なお世話だ、とは言い辛かった。
一倉が本気で心配してくれていることは、分かっているからだ。
一倉は常々室井に「さっさとパートナーを見つけろ」と言っていた。
多分何でも一人で抱え込みやすい室井を心配してのことだろう。
―気持ちは有り難いが…。
室井はふっと青島を見た。
青島は気まずそうな困った顔で、佇んでいる。
―結婚はやっぱり出来そうにない。
室井は一度目を伏せて、一倉を見た。
「今のままで、いいんだ」
結婚のことだけじゃない。
室井にとっては今のまま、今が一番幸せだった。
一倉は黙って室井を見つめて、やがて深い溜息をついた。
「何でそう頑ななんだか」
「別に頑ななわけじゃない。今に満足しているだけだ」
「折角、いい縁談だったのに」
一倉がぼやくと、青島は目を剥いた。
室井はしまったと思う。
別に知られて困ることではないが、青島に知っていて欲しいことでもなかった。
「もう片付いた話しだ」
「…室井さん、お見合いしたんですか?」
驚いている青島に、室井は慌てて首を振った。
「違う。上司からそんな話があっただけだ」
「それがこいつ、会いもしないで断るっつーんだよ」
「もう黙れ」
言ったところで、一倉が黙るわけがない。
「実際、いい話だったんだよ。相手はべっぴんのお嬢さんだし、程よく良家で堅苦しいことにならずにすみそうだし、しかも相手は乗り気だったそうじゃないか」
「お、お前はなんでそんなことを知ってるんだっ」
室井は目を向いて一倉を見た。
確かに部長にはそんなことを言われた。
室井の人となりを説明したところ、会ってみたいと先方から言われたらしい。
だが、そんな話を室井の口から一倉にするわけもなく。
「吉田部長から直接聞いた」
吉田部長とは室井の上司で、縁談を持ってきた張本人だ。
「余計なことを聞くなっ」
「吉田部長の顔を立てれば覚えも良くなるし、出世もできるかもしれないじゃないか」
余計なことは聞くくせに、室井の話は聞いてくれないらしい。
「だから、もう終わった話だと言ってる」
部長には「やはりお受けできません」と伝えてある。
室井の中では既に終わった話だった。
「へぇ…」
黙って話を聞いていた青島が、微笑みながら呟いた。
「見合い、するだけしてみたらどうです?」
室井は無意識に眉を顰めた。
そんなことにはお構いなしに、一倉が勝手に話を進める。
「だろ?お前もそう思うよな」
青島は肩を竦めた。
「ええ、会ってみないと始まりませんしね」
「そうなんだよな、せめて会ってみてから答えを出せと、何度も言ってるんだけどな」
「……答えなら、とっくに出てる」
低い声で、ぼそりと言った。
これでこの会話を終わりにしたかったのだ。
いつもなら人の心の機微に敏感な青島だから気付いてくれたはずだったが、この時はそれに全く気が付かなかったようだ。
「どうしてです?会ってみたら好きになれるかもしれないし」
「食わず嫌いは良くないぞ、室井」
「会うだけ会ってみてから決めたら良いじゃないですか」
「大体えり好みしてるから、いまだに独身なんだよ」
「良いお話みたいですし…」
室井は席を立った。
「君には関係ない」
吐き捨てるように言うと、室井は二人の反応など見向きもしないで、店を後にした。
絶句してる青島に、一倉もちょっと戸惑いながら、財布から適当に金を差し出した。
「…虫の居所でも悪かったかな」
差し出された金に気付いていないのか、青島は手を出さずに呆然と室井の出て行ったドアを見つめている。
一倉はカウンターの上に金を置いた。
「悪いな。まあ、気にするな」
そう言うと、一倉も室井の後を追って、店を出て行った。
ドアが再び閉まる音で、青島は漸く意識を取り戻す。
―室井さんを怒らせた…?
確かに余計なことを言った。
自分でもなんで室井に見合いを勧めたのか良く分からなかった。
最初は、結婚は無理をしてするものではないと思った。
室井が「今に満足している」と言ったから、それならそれで良いじゃないかと思った。
だけど、一倉の話を聞いているうちに、室井はその見合いを受けるべきなんじゃないかと思ったのだ。
本当に余計なお世話だ。
だけど室井が今以上に幸せになれるかもしれない。
それならそれに越したことはないんじゃないかと思った。
『君には関係ない』
室井のあんなに冷めた声を聞いたのは、初めてだった。
怒らせたこともショックだったが、吐き捨てるように言われた言葉が更にショックだった。
確かにその通りで、青島には何の関係もないことだった。
余計なお世話と思われても仕方が無い。
だけど、室井に拒絶されたようで、それが青島には酷くショックだった。
「怒らせた…」
青島は顔色をなくして、口元に手を当てた。
「待てよ、室井」
一倉に呼び止められても、室井の足は止まらない。
「らしくないな…そんなに怒ることないだろ?」
返事すらしない室井に、一倉は溜息をついた。
「可哀相に。青島、ショック受けてたみたいだぞ」
「……ショックだったのはこっちの方だ」
室井は思わず本音を吐き出した。
「何?」
一倉の怪訝そうな声を無視して、スタスタと歩く。
その腕を背後から掴まれた。
振り返ると、一倉にしては珍しく驚いた顔をしていた。
「お前…まさか」
今更隠す気にもならなくて、室井は自虐的に唇を歪める。
「それが、見合いを断った理由だ」
それだけで室井の気持ちを理解したらしく、一倉は半ば呆然とした顔で室井を見た。
「マジでか…」
室井は何も答えなかった。
「……お前がそんな嘘をつくわけもないわな」
苦笑を浮かべると、一倉は室井の腕を離した。
「青島は?お前の気持ち、知ってるのか?」
室井の気持ちを知りながら、他の人と結婚しろだなんて言える男じゃない。
青島はきっと全く気付いていない。
「気付いていたら、あんなことは言わなかっただろう……例え俺のことなどどうでも良くても」
「お前なぁ…あれはあれで、お前を気遣っての発言だろ?どうでもいいってのは青島にも失礼じゃないのか」
「青島は誰に対してだって、優しい」
相手が室井じゃなくたって傘を貸してくれるし、カフェオレを勧めてくれる。
カウンターに座って悩みの一つも零せば、親身になって聞いてくれるだろう。
誰に対しても、青島の優しさはきっと一緒だ。
だからこそ青島の喫茶店は居心地がいいのだ。
だけどそれが辛いこともある。
室井のように、青島に特別な感情を抱いていたりすると。
青島にとって客が誰でも一緒ならば、室井の存在は青島の中にはないだろう。
自分がただの客に過ぎないことを、今更ながら嫌というほど思い知らされた。
―本当に、今更だ。
分かっていたことだし、それで良かったはずだった。
それなのに、耐えられなかった。
青島が室井に結婚するべきだと勧めてくる。
好きな人が、自分の結婚を―。
「どうとも思われていないことは分かっていたけど」
室井は俯いて、目元を手で覆った。
「青島にあんなことを言われたく無かった…っ」
唇を噛んで痛みを堪えるような室井に、一倉は珍しく沈黙した。
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