室井は夜道を足早に歩いていた。
時計を確認すると、23時をいくらか回っていた。
残業だったので、こんな時間になってしまったのだ。
―まだ、間に合うな。
室井はホッとしながらも、歩く速度は緩めない。
待ち合わせではなかった。
お目当ての喫茶店が見えてきて、明かりが見えると、室井は少しだけ表情を緩めた。
静かにドアを押すと、小さな音が鳴る。
カウンターの中で煙草を吹かしていた男が視線を寄こした。
室井を見ると微笑んで、煙草を消した。
「いらっしゃいませ、今晩は」
きっちり挨拶を寄こした後、口調が崩れる。
「こっち、座ってください」
室井は頷いて、カウンターに腰を下ろす。
カウンターが5席、テーブル席も5席程度の小さな喫茶店である。
入り口付近に申し訳程度の禁煙席を設けているが、そこに客がいることは殆ど無いようだった。
マスターである青島が重度のヘビースモーカーのせいか、煙草を嫌がる客はあまり寄り付かないらしい。
室井以外客のいない店内に思わず視線を巡らすと、青島はわざとらしく膨れてみせた。
「また客がいない、とか思ってるでしょ」
「そんなことは」
室井が慌てて首を振ると、小さく吹き出す。
気分を害しているふうではない。
尤も青島は細かいことを気にする性質じゃない。
良く言えばおおらか、悪く言えば大雑把な性格をしている。
付き合いは短いが、室井にもそれくらいは分かった。
青島は肩を竦めながら言った。
「室井さんが、いっつも遅い時間に来るから、人がいないんですよ」
確かに室井が来るのはいつも深い時間だから、客がいても一人二人、誰もいない時も多かった。
雨の日に借りた傘を返しに来て以来、室井はここの喫茶店の常連になっていた。
特に用事が無いと三日とあけずに通っている。
夜遅くまで営業しているこの喫茶店を好んで夜中にやってくる常連客がいるので、室井の行動は不自然ではない。
少なくても、青島は不自然に思っていないはずだった。
「また残業ですか?」
「少しだけ」
青島は苦笑した。
「いつもこんな時間まで働いてて、少しってこともないと思いますけど」
「君だって、働いてる」
何となく言ったら、青島は苦笑を深めた。
「そうですけど…あまり無理しないで」
眼差しに気遣わしい優しさを感じて、室井は少しだけ胸が熱くなった。
「有難う、気をつける」
真顔で頷くと、青島は微笑しながら首を振った。
「何飲みます?いつものでいいです?」
室井はいつも同じコーヒーを注文するが、青島はいつも確認してくれる。
勝手に淹れないのが、彼の親切だ。
「ああ、頼む」
室井はいつも決まって、青島が最初にご馳走してくれたコーヒーを頼む。
コーヒーの味にうるさいわけではなかったが、青島の淹れるコーヒーは素直に美味しいと思った。
「すまない」
コーヒーを落としている背中に声を掛けると、青島は不思議そうな顔で振り返った。
「何がです?」
「もうじきクローズだろう?ギリギリに来て、申し訳ない」
どの店も閉店間際の客は嫌がられるものである。
そう思って謝ったのだが、青島は変な顔をした。
「室井さん、客でしょーが」
「ん?それはそうだが…」
「こっちは、礼を言う立場です。謝んないでくださいよ」
確かに青島の言う通りである。
室井に謝られては、客に謝られては、青島の方が困るだろう。
室井は決まり悪そうに、眉を顰めた。
それを見て、青島は歯を見せて笑う。
「来てくれて、嬉しいっすよ」
有難う御座いますと言われて、室井は尚更表情を強張らせた。
「いや…」
思わず視線を反らすと、青島は照れたと判断したのか、微笑してまた室井に背を向ける。
室井は向けられた背中に視線を戻した。
惚れたと気付いたのは、二度目に会った後だった。
傘を返しに来た室井に、青島はコーヒーを一杯ご馳走してくれた。
帰り際に、「また来てくださいね」と微笑まれて、送り出されて。
帰宅してから、青島に惚れたと気が付いた。
会ったのは、その日を含めて二回だけ。
一度目など、店の軒先で、傘を借りただけである。
それだけなのに、室井の脳裏に離れない笑顔を残した。
単純に笑顔が印象的だっただけではない。
思い出される笑顔に、音声まで聞こえるような気さえしたのだ。
あんなにリアルに残る印象は今までに経験がない。
いつまで経っても消えない青島の笑顔に、惚れたと気がついた。
「あ、腹減りません?」
青島はコーヒーを出してからそう言うと、室井の返事を待たずに冷蔵庫からサンドイッチを取り出した。
「俺の夜食に作ったんですけど、良かったら一緒に食いません?」
自分で食べるために作っておいたらしい。
それを室井の前に置いて、自分で一つ取る。
「いいのか?君のなんだろう?」
「夜中にいっぱい食うと太るし…俺太りやすいんですよ」
そう言って、青島は舌を出して見せた。
青島は痩せ型ではないが、理想的なスタイルだと思う。
身長もあるし、足も長い。
骨ばっていなくて質感のある身体つきは、どこか色気があった。
そこまで考えて、室井はハッとする。
―い、色気って……俺は何を考えて。
邪な方に思考が流れだし、慌てて考えるのを止める。
惚れているとはいえ、本人を目の前にして不埒なことを考えるのは申し訳ない気がした。
いきなり顔を強張らせた室井に、青島は首を傾げた。
「室井さん?サンドイッチ嫌いでした?」
室井はブンブンと首を振る。
「い、いや、嫌いじゃない。一つ、頂いてもいいか?」
青島はニッコリと笑ってくれた。
「一つといわずに、何個でも」
考えることを止めた室井は、青島の言葉に甘えてサンドイッチに手を伸ばした。
青島と、どうこうなりたいわけではなかった。
喫茶店に通う理由は、青島に会いたいから。
会いたいと思う理由は、青島が好きだから。
だけどこの喫茶店に通う理由は、それだけじゃない。
それは多分に青島のせいなのだろうけど、室井にとって居心地の良い場所だったからだ。
室井は仕事が終われば、一人きりの家に寝に帰る。
その前に少しだけ、ここで暖かいコーヒーを飲んで、一息ついて帰るのだ。
そこにはいつも明るいのに、どこか穏やかな青島の笑顔がある。
室井は青島に惚れていると自覚しながら、何かを求めているわけではない。
ただ、この穏やかな時間を、大事にしたかった。
青島との穏やかな時間を。
ただそれだけだった。
出会って三ヶ月経った頃のことだ。
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