「……ではそのようにしてくれ」
部下に指示を出すと、室井は短い労いの言葉をかけて電話を切った。
小さく溜息を吐くと、眉間を押さえる。
少しだけ疲れが溜まっていた。
ホテル暮らしを一月も続けているせいだ。
快適には快適なのだが、職場と住居が一緒になっているようなものである。
客と会わなければならないので外に出ることはあるが、一日のほとんどをここで過ごしている。
あまり良い環境ではない。
顔をあげた室井の視界に、メモクリップに挟まった一枚の紙切れが目に入る。
癖の強い走り書きで、11桁の数字が並んでいた。
青島の携帯番号だ。
あの日の朝のことを思いだし、室井はちょっと笑った。
ルームサービスで朝食を済ませた後、帰ろうとした青島に尋ねてみた。
「君と連絡を取りたい場合はどうすればいい?」
青島は肩を竦めた。
「ヤる気になった?」
「いや」
「それなのにまた呼ぶ気ですか」
「ああ」
短い返事を繰り返すと、青島は眉を寄せて深い溜息をついた。
「そういうの、やっぱり困ります」
「なぜ?」
「ただで金を貰ってる気になる」
「君が無駄にした時間の代償だと思ってくれればいい」
「……やっぱり、ダメです」
心底困った顔をしている青島を見ながら、室井は頷いた。
断られる気はしていた。
夕べのやりとりを考えれば、青島が何もせずに金を受け取ることに抵抗があることが分かる。
だから、素直に教えてくれるとは思っていなかったのだ。
「分かった。じゃあ、一倉に聞こう」
「……」
青島が露骨にしまったという顔をした。
青島を室井のところに寄越したのは一倉である。
連絡先ないし、連絡方法を知らないはずが無い。
青島は乱暴に頭をかくと、胸ポケットに手を突っ込んで、手帳を取り出した。
適当なページに乱雑な字を書きなぐる。
かなりの癖字だ。
破ったページを室井に突き出した。
「客がいなくて暇だったら、また相手してあげますよっ」
かなり投げやりな言い草だったが、室井は満足した。
「ありがとう……宜しく頼む」
微笑んで用紙を受け取った室井に、青島は呆れた顔をしたが最終的には笑みを零した。
その笑顔を思いだし、室井は目元を柔げる。
惚れたと気付いたのは、青島を帰してからだった。
帰してすぐに、何とも言えない淋しさに襲われた。
火が消えたように、部屋が暗くなった気さえした。
喜怒哀楽の全てが顔に出る男だったからかもしれない。
「…いや、違うな…」
思わず呟いた。
悲しい顔はほとんど見せなかった。
唯一突き飛ばしてしまった時くらいか。
後は笑ったり怒ったり。
表情がとにかく豊かだった。
特に笑顔が好きだった。
笑顔を思い出すたびにもう一度会いたいと何度も思ったが、あれから既に一週間が過ぎている。
仕事が忙しかったこともあるが、電話口で迷惑そうな声を出されたらと思うと情けないことに怖くて掛けられなかったのだ。
室井は青島にとってどう考えても普通の客じゃない。
金だけ払って自分を抱こうとしない男のことを、青島がどう思っているのか。
鼻持ちならない金持ちだと思われていても、おかしくない。
―抱いてしまえばいい。
そうも思う。
本当の客になってしまえば、青島は決して迷惑そうにはしないだろう。
だが、室井はそんな関係を望んでいない。
きれいごとかもしれないが、金で青島を手にいれたくなかった。
青島にとってみればいい迷惑だろうと思う。
客になった男に恋愛感情を抱かれるなど、迷惑以外の何ものでもないはずだ。
また電話が鳴って、室井の埒が明かない思考が途切れる。
気持ちを切り替えて表情を引き締めると、受話器を取った。
「室井です」
『室井か?俺だ』
「ああ…お疲れ様」
一倉は今、所用で一旦本社に帰っていた。
またこっちに戻ってくることになっているが、もうしばらくは本社にいるだろう。
そのまま電話で簡単に報告を受ける。
仕事は順調に運んでいるらしい。
「…そうか。ではそのように進めてくれ」
『了解…ところで、室井』
「何だ」
『青島はどうだった?』
室井の表情が強張る。
一倉と顔を合わせていなくて本当に良かったと思う。
室井の動揺を知っているのかいないのか、一倉は勝手に喋りだした。
『なんて人を紹介するんだって怒られたぞ』
「え?」
『電話があったんだけどな、それだけ怒鳴ると切りやがった。リダイヤルしても出もしない』
お前何したんだ?と聞かれて、室井は困った。
「…何もしてない」
少しの沈黙。
『それはあれだな?言葉通りの意味だな?』
さすがは長年の付き合いである。
「ああ」
『何にもしないで帰したのか』
「いや、泊めはした」
『は?』
「一晩泊めて、翌朝帰した。一晩付き合ってもらったから、その分の金は払った」
また沈黙が下りる。
やがて呆れたような声が返ってきた。
『何もしないで金だけ払ったのか?』
「話しはしたし、確かに一晩は付き合ってもらった。時間を無駄にさせた分、支払った」
『お前は…』
深い溜息が聞こえてきた。
『まぁ、らしいちゃあ、らしいか。しかし、良く青島がそれで納得したな』
「しつこく頼んだからな」
今度は鼻で笑われる。
『結局、何がしたかったんだ?』
「…自分でも良く分からない」
素直に言うと、苦笑する声が聞こえた。
『さては、はまったか?』
どう答えたらいいか迷っているうちに、一倉が続けた。
『分かる気はするがな』
その言葉に、室井は眉を顰める。
分かるということは、一倉にも経験があるということではないか。
埒の明かない思考がまた蘇ってくる。
「一倉」
『ん?』
「お前は…」
言いかけて、止める。
やはり聞けない。
どう考えたってどう聞いたって、余計なお世話だし下世話な話だ。
だが、気になる。
室井が悶々としていると、一倉が苦笑しながら言った。
『…一度だけな』
それだけで室井にも意味が伝わる。
少しだけ胸が疼いたが、不快感からではない。
それは当然のことだろうし、それが青島の仕事なのだ。
室井が感じたのは、ただの嫉妬だった。
「そうか。しかし、その後も連絡を取っているような雰囲気だったが?」
『何人か、紹介した』
「……そうか」
『怒るなよ』
気を付けていたが、声に出たらしい。
一倉は溜息をついて、続けた。
『あいつは路上で声を掛けたり掛けられたりして、客を取ってんだ。中には危ないヤツもいるらしいし、怖い目にあったこともあると聞いた。それなら…』
一旦言葉を切る。
らしくもなく、少しだけ照れたような声がした。
『俺が身元の分かる、安全で、おかしな趣味のない、金払いのイイ奴を紹介してやった方がいいと思ったんだ』
一倉なりの優しさか。
この男がこういう気の遣い方をするのは珍しい。
確かにああいう生活をしている青島にとって、安全な客を紹介してもらえることは有り難いだろう。
だが、疑問もあった。
「なら、何故お前は一度きりだったんだ?」
一倉にそこまでの愛情があるのなら、一倉自身がまた客になってやれば良いことである。
こう見えて愛妻家の一倉だが、一度青島の客になっていることからも分かる通り、商売人とは遊ばないわけではない。
いきなり罪悪感に襲われたわけでも、道徳感に目覚めたわけではないだろう。
青島を二度買おうとしなかったことに、何か理由があったのではないかと室井は思った。
『……俺はかみさんが大事でね』
自嘲するような声だった。
『浮気はしないことにしてるんだ』
つまり本気になりそうだったということか。
室井は思わず息を飲んだ。
『これは駄目だなと何となく思った。だから、もう二度とあいつの客にはならんと決めた』
そう言って、ちょっと楽しそうに笑った。
『でも俺はあいつが気に入っていてね。面白いヤツだろ』
「ああ…」
室井はようやく一倉の気持ちが理解出来た。
一倉には愛する人がいるから、青島にはまるわけにはいかなかったのだ。
この男はそういう判断は絶対に間違えない。
『と、無駄話が過ぎたな…室井』
「ん?」
『自分で紹介しておいて何だが、あんまり深入りするなよ』
一倉の言う通りだ。
深入りしていいことなど、室井にも青島にも無い。
だが、今更な忠告だった。
「本当に何だな」
否定でも肯定でもなくそう言ってやると、一倉は声を立てて笑った。
『まぁ、お前の自由だな。でも深入りするなら……あいつを助けてやってくれ』
それだけ言うと、電話は切れた。
室井は切れた電話をしばらく見つめ、受話器を置いた。
そしてすぐにまた取り上げる。
一倉に言われたからではない。
ただ単純に会いたくなっただけだ。
室井は何度も眺めたせいで暗記してしまった番号を押した。
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