会いたくない時に限って、会いたくない人に会ってしまう。
不思議と、そんな嬉しくない偶然にばかり見舞われる気がして、室井はうんざりした。
本庁の廊下で、新城の姿を見掛けた。
刑事局長と立ち話をしている。
青島を連れた新城と官舎で出くわしてから、まだほんの数日しか経っていない。
室井はまだ、何も割りきれていない状態だった。
もっと早くに自分の気持ちに気付いていれば。
例え青島が新城を選ぶという結果が変わらなくても、これほどまでに後悔を抱えることにはならなかったのではないか。
少なくとも、青島に気持ちを伝えることすら叶わず、失恋することにはならなかったかもしれない。
そう思うのと同じくらい、これで良かったのではないかとも思う。
恋人にはなれなくても、室井と青島にはかけがえのない絆がある。
室井が大事にしなければならないのは、青島に対するどうしようもない感情ではない。
青島と交した約束は、おそらくもう二度と、他の誰とも交すことができない。
同じ夢を見ることなどできない。
青島は室井にとって、恋をするよりずっと貴重な存在なのかもしれない。
だとしたら、これで良かったのだ。
青島は誰と恋をしたって、室井を信じ続けていてくれる。
それが何よりも室井には重要なことだった。
それだけで十分だ。
心からそう思うのに、どうしてか割りきれない。
青島が誰かと恋に落ちる。
それは仕方がないことだ。
相手が自分でないことはどうしようもなく悲しいが、その方が極々自然で当たり前なのだ。
分かっているのに割りきれないのは、相手が新城だからか。
割りきれないどころか、何故だか無性に腹が立つ。
新城なんかのどこがいいのか、とは言わない。
新城なんかと言えるほど、自分に自信があるわけでもない。
ただ、新城が青島に触れることを想像するだけで、腹の底が熱くなる。
怒りに近い嫉妬を覚える。
こんな気持ちは、青島にはもちろん、新城にだって知られたくはない。
自分の一方的な嫉妬と分かっているから、室井にはそれを表に出さないようにするだけで精一杯だった。
そんな状況で、新城には会いたくなかった。
「おめでとう、新城君」
局長が新城の肩を叩くと、新城は頭を下げた。
笑みを浮かべ、礼を述べている。
また昇格でもしたのだろうかと思ったが、そんな時期でもなかった。
しっかりやるようにだとか益々期待しているだとか、明るい激励の言葉をかけて、局長は新城から離れた。
すれ違う時に室井も頭を下げると、新城と同じように局長に肩を叩かれる。
「室井君も、なるべく早い方がいいぞ」
にこやかに言われても、室井には意味が理解できない。
なんの返事もできなかったが、局長はそのまま通り過ぎて行った。
残された新城が、室井を見ていた。
何故か気まずい。
自分に後ろめたい気持ちがあるからだろうか。
どうしようもない嫉妬は、ちゃんと隠せているだろうか。
自信もないまま、何かあったのかと尋ねるべきだろうかと思っていたら、新城から口を開いた。
「結婚が決まりましてね」
他人事のような言い草に、本当に分からなくて聞き返す。
「誰のだ」
新城が馬鹿にしたように笑った。
「私のに決まっているでしょう」
「…なに?」
はっきりと言われているのに、すぐには理解できない。
新城が結婚する。
どうして。
誰と。
分かるのは、その相手が青島ではないことだけだ。
今の日本で青島と新城が結婚できるはずもない。
室井は思わず新城の胸倉を掴んだ。
「結婚するだと?」
「ええ、そうです」
いつもと変わらない平坦な口調だった。
胸倉を掴まれて怒るでも、その手を振り払うでもない。
新城は平然としていた。
対照的に、室井の怒りが膨れ上がる。
「青島はどうする気だ」
低く押さえた声で詰問する。
新城は青島に惚れているのではなかったのか。
だから、青島と深い仲になったのではないのか。
青島に手を出しておいて今更縁談を進めるなど、もっての他である。
室井には関係がないことだとは分かっているが、どうしても我慢ならなかった。
睨み付ける室井を冷めた目で見返し、新城は冷笑した。
「青島も納得尽くの結婚ですよ」
頭が白くなる。
青島が納得するはずがない。
恋人が他の人と結婚するというのに、納得などできるはずがないだろう。
新城の言葉を信じられずに、問い返す。
「それはどういう意味だ…」
「私が結婚しても、青島との関係は何も変わらない」
そういうことですよと言われて、室井は胸倉を掴んだまま、新城の背中を廊下の壁に叩き付けた。
「ふざけるな…っ」
怒りに微かに声が震えた。
結婚しても青島との関係を続ける。
つまり、新城は青島を愛人にするつもりなのだ。
そう思ったら、室井は我慢の限界だった。
「青島を何だと思ってる」
「貴方に関係ないでしょう」
「だからなんだ」
新城が顔を顰める程の力で、壁に押し付けた。
「青島を傷付けることは許さないぞ、新城」
関係があろうがなかろうが、もうそんなことには構っていられない。
「青島を不幸にすると分かっているヤツに、青島をやれるかっ」
新城が苦しそうに顔を歪め腕を払い、室井の身体を押し返した。
乱れた襟元を正し、煩わしそうに室井を見た。
「なら、青島にそう言ってみたらどうですか」
「お前に言われるまでもない」
吐き捨てるように言うと、室井は新城に背を向けて歩き出した。
もう新城になど青島を任せておけない。
青島を傷付けて平気な男に、黙って青島をくれてやるものか。
新城なんかよりずっと、青島を想っている自信がある。
大事にしてやれる自信がある。
怒りに囚われた室井の頭には、これまで自分に自制をかけてきたはずのきれいごとがすっかり抜け落ちていた。
怒りの他に残ったのは、青島への想いだけ。
この日、室井は警察官になって初めて仮病を使い、早退した。
***
取り調べをしていた青島は、すっかり疲れきっていた。
「はい、もう泣かないの…」
めそめそと泣いている被疑者に、ハンカチを手渡してやる。
これがうら若きお嬢さんなら青島も慰め甲斐があるが、50を越えたおっさんだったりするからやる気もおきない。
酒に飲まれて暴れていたところを、通報されたのだ。
酔いが冷めてからは、ずっとこの調子である。
アルコール依存症の気があるらしく、延々と懺悔を聞かされ、宥めすかして、ようやく調書が取れそうな様子になってきた。
「すみません…」
鼻をすすりながら謝る男にいいよいいよと適当に笑いながら、青島はボールペンを握り直した。
「じゃあ、住所と名前を」
「はい…」
男が口を開きかけた瞬間に、取調室のドアがノックされ、会話が中断される。
いいところで邪魔をされて青島は嫌な顔をしたが、ドアを開けた袴田の方が嫌そうな顔をしていた。
「青島君、ちょっと」
手招きをされて、青島は男と袴田を見比べる。
「今、いいとこなんすけど」
「いいから、早くっ」
激しく手招きされて、青島は一つ溜息を吐くと腰を上げた。
「ちょっと、待ってて」
力なく男に言って、袴田と一緒に取調室を出る。
「なんすか、一体…」
「君こそ何したの」
「は?」
「君宛てに電話っ、新城さんからっ」
「あ…?」
新城からの電話なら今の青島にとって驚くことでもないが、袴田にとっては一大事なのだろう。
ましてや、問題児青島ご指名である。
また何かをやらかしたのではないかと気が気じゃないのだ。
「課長、言っときますけど、俺は別に」
あらぬ誤解を解こうとした青島に、袴田が自分の机の電話を指差す。
「至急だって」
「…はいはい」
仕方なく行きかけて、青島は袴田の肩を抱き、取調室のドアを開けた。
「俺、新城さんの相手しますから、この人の相手お願いしますね」
まためそめそと泣いている男に青島は内心うんざりしながら、にっこり笑って袴田を取調室に押し込んだ。
袴田がなにを言うより先に、ドアを閉めてしまう。
青島は一つ身軽になった気持ちで、袴田の席に向かった。
「青島です」
『お前は私に感謝しろ』
新城からの電話には特に驚かなくなった青島も、この第一声には驚いた。
話が全く見えない。
「新城さん?一体なんの…」
『いずれ分かる。いいか、一生感謝しろ』
「い、いや、しろって言われても」
今のところ、青島に思い当たる節はない。
一生感謝しろとは、いくら新城とは言え随分恩着せがましい。
それほどまでに大それたことを新城にしてもらった覚えはないが、世話になっていないわけでもない。
青島が返事に困っていると、電話の向こうで新城が低く笑った。
『結婚祝いは考えておく』
それだけ言うと電話が切れる。
青島は首を捻りながら切れた電話を眺めた。
わけがわからない。
一つだけ分かったことは、結婚祝いを催促されたことだ。
「ま…言われなくてもそれくらいは…」
釈然としないまま呟いて、青島は受話器を置いた。
「新城さん、なんだって?」
すみれがコーヒー片手に近付いてくる。
「それがさぁ」
首を傾げたまま訳わかんないとぼやこうとした青島だったが、何も言わずに口を閉じる。
急に刑事課がざわつき出したからだ。
何事かと刑事課の入り口に視線を向けて、目を丸くした。
室井が立っていた。
それも、鬼の形相で。
ただならぬ雰囲気を感じとってか、居合せた刑事たちがきれいに道を開けている。
呆気に取られていた青島を見付けると、室井は更に顔を強張らせて近付いてきた。
そのせいで、青島も引きつる。
「…室井さん?」
「ちょっと来い」
いきなり腕を掴まれて、どきりとする暇もない。
いや、違う意味ではドキドキした。
鬼のような顔をした室井に迫られれば、誰だってドキドキするだろう。
正直、怖い。
青島は思わずビビって抵抗する。
「な、なんすかっ」
「いいから、来いっ」
「来いって言われても…」
「取調室、貸してくれ」
室井は青島の腕を掴んだまま、すみれを振り返った。
すみれも若干驚いていたが、話しをふられて平常心に戻ったらしく、コーヒーカップに口をつけると首を振った。
「今、課長が使用中」
つれなく言うが、ニコリと笑って付け足す。
「内密なお話しでしたら、空いてる会議室でも使ってください」
「すみれさんっ」
仲間のピンチに冷たいと思ったが、なぜピンチになっているのかすら、青島には分かっていなかった。
「ありがとう」
室井はすみれに礼を言うと、青島の腕を引っ張って歩き出した。
「あ、ちょっと、なんなんすか、室井さんっ」
強引な室井に青島が叫ぶ。
返事はなく、青島は訳が分からないまま、室井の後について行くしかなかった。
「青島君、今度は何やったの」
コーヒーを飲みながら青島たちの後姿を見送っていたすみれに、魚住が横歩きで近付いてきて隣りに並んだ。
問題児な青島だから、また何かをやらかしたのであろうと思われているらしい。
呆れつつ、いくらか心配もしている魚住に、すみれは笑みを溢した。
「きっと、心配ない」
「そう?あの室井さんが、随分怒ってたみたいだけど…」
確証はないけれど、あの室井の怒りの矛先は青島ではない気がした。
青島のせいで降格になった時ですら、一言も青島を責めなかった男である。
室井が青島のすることで、あそこまで怒りを露にするとは思えなかった。
怒りながらここまでやってきた室井の目には、青島しか入っていなかったように見えた。
悪い予感は特にしない。
―何かが変わるのかもしれない。
そして、そうなればいいと、すみれは願っていた。
「きっと……うまくいく」
ふふっと嬉しそうに笑うすみれに、魚住は首を傾げた。
「…なにがぁ?」
魚住の率直な疑問に、すみれは何も答えずただ笑って首を振った。
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