珍しく定時に上がれそうだった青島は、定時五分前に鳴った電話に眉を顰める。
後五分待ってくれればいいのに、とは青島の心の声だった。
思わず出るのを躊躇っていると、背後からすみれが声をかけてくる。
「まだ勤務時間中」
背後を見るが、すみれは机に向かったまま振り返りもしていない。
すみれは今日は夜勤でまだまだ帰れない。
青島が早く帰れるのが気に食わないようだったが、すみれが言うことも尤もで、自分の席の電話が鳴っているのだから青島が出るべきだろう。
青島は恨みがましく電話を見ながら、受話器を取った。
「はい、湾岸署刑事課強行犯係」
『新城だ』
短く名乗られて軽く目を瞠ったが、それほど驚かないし、嫌がりもしない。
「あ…ども、お疲れ様です」
当たり前に挨拶を返す。
『今日は何時に上がれる』
気遣いや前置きのない聞き方が新城らしい。
新城の乱暴な誘いをそう思える程度に、青島には馴染んだ誘い方だった。
少し前なら考えられないことだが、初めて新城に誘われて以来、こうしてたまに食事に誘われる。
あれだけ青島を嫌っていた新城の急な変化に戸惑いを感じないわけではないが、悪い気分ではなかった。
もちろん新城の愛想が良くなったわけでは全くないが、当たり前の会話を普通に交せるようになり、新城の口から出てくるのも嫌味や暴言ばかりではなくなった。
例え嫌味を口にしても、以前のように青島の存在を否定するような突き放した態度ではない。
だから、青島は新城の誘いを迷惑だとは思わなくなっていた。
「定時であがれますよ」
『珍しいな』
「ええ、まぁ、たまにはね」
『さぼってるんじゃないのか』
「失敬な」
低くなった青島の声に、新城は鼻で笑ったようだった。
性格は相変わらずよろしい。
『19時頃に新橋だ』
命令のような待ち合わせもいつものこと。
青島はちょっと笑って、頷いた。
「りょーかい」
青島が了承すると、すぐに電話が切れる。
受話器を戻して、帰る支度をしようと立ち上がった青島の腕を、誰かが掴んだ。
驚いて振り返ると、すみれがしっかりと掴んでいて、青島は目を瞬かせる。
「…すみれさん?」
「青島君」
「何」
「いつからそんなに新城さんと仲良しになったわけ?」
聞かれて青島の眉が寄った。
以前よりずっと話しやすい関係にはなったが、仲良しと言われるほど仲が良いわけではない。
「仲良しじゃないよ、別に」
あっさりと否定した青島にすみれが首を傾げる。
「だって、今の新城さんでしょ?」
「そうだけど…何でわかるの」
「乙女の勘」
平然と言ってのけるすみれに、青島は半眼になる。
おそらく聞き耳を立てて、青島の電話を盗み聞し、新城の声でも拾ったのだろう。
受話器の声は意外と外に漏れる。
「最近、良く一緒じゃない?」
「良くでもないけど…まぁ、時々」
「なんで?」
すみれの簡素で分かりやすい質問に、青島は面を食らう。
面を食らうが、質問に答えるのは簡単だった。
「新城さんが誘ってくるからだよ」
「じゃあ、なんで新城さんが青島君を誘うわけ?」
「それは……なんでだと思う?」
逆に聞き返したら、すみれは呆れた顔をした。
「自分のことでしょ?」
私が知るわけないじゃないと言われてそれもそうだと思うが、だからといって、青島がすみれの質問に答えられるわけでもない。
新城が誘ってくる理由など、青島には分からなかった。
そんなことは、むしろ、青島の方が知りたい。
「なんでなんだろうなぁ」
しみじみ呟き、少し遠い目をした。
初めて二人で酒を飲んだ時、新城は結局最後まで意味のある話しを何一つしなかった。
意味深に匂わせた室井の話しすら、一つもでなかった。
それは未だに青島の心に少なからず引っ掛かってはいるが、青島から聞く気にはならない。
新城はその後も、青島に深刻な話しをしようとする素振りすら見せなかった。
だからといって、わざわざ面を付き合わせて無言で酒を飲むわけではない。
どうでもいいような話しばかりしているから、青島は新城の趣味が乗馬であるという、いらない情報まで得ていた。
聞いた時は笑ってしまい睨まれたが、意外と似合う気はした。
「何でか分かんないのに付き合って、気持ち悪くないの?てか、あの鉄面皮とお酒飲んでて楽しい?」
心底分からないという顔で見つめられて、青島は苦笑した。
「それなりに楽しいよ」
素直に言ったら、すみれはますます顔を顰めた。
「青島君、マゾ?」
「なんでさ、違うよ」
青島は呆れた顔をしたが、すみれの言いたいことも分かる。
過去の青島に対する新城の言動を考えたら、好んで新城と行動を共にするなど自虐的な行為に近い。
青島だって、以前のままの新城なら、できるだけ避けて通ったはずだった。
「最近のあの人、それほど付き合いづらくないよ」
新城さんも丸くなったのかなぁなどと青島が思っていると、すみれが青島の腕を離した。
「ま、そうかもね、そこの人も丸くなったしね」
そう言って背後を顎で指すから、青島は振り返った。
振り返って目を丸くする。
初めて会った時と比べれば確かに丸くなった男―正確に言えば元の性格に戻っただけだろうが、室井が立っていた。
眉間に皺を寄せて立ち尽くしている。
眉間の皺はいつものことだが、少し所在なげにも見えた。
「室井さん?あれ、どうしたんですか?」
青島が身体ごと振り返ると、室井の眉が動く。
室井の表情は、そこが一番良く動いた。
「事件すか?」
「いや」
「じゃあ、課長に用事?」
「いや…」
珍しく歯切れの悪い室井に、首を傾げる。
事件もなく袴田に用事もないなら、室井が湾岸署の刑事課に来る理由がないように思えた。
青島が不思議に思っていると、室井は言いづらそう言った。
「近くまで、来たものだから」
だから、ついでに湾岸署にも寄ってみたらしい。
台場に用事なんかあるんだろうかと思いながらも、青島は頷いた。
「そうですか…」
室井らしくはなかったか、そういう気分の時もあるだろうと納得する。
「青島」
「はい?」
「この後、時間はあるか?」
「え?」
「飯でも、どうだ」
誘われて、青島は内心で戸惑った。
室井と二人きりになるのはしんどいが、室井からの誘いは相変わらず魅力的に感じてしまう。
切ないのに嬉しく感じてしまう、浅ましい自分が嫌だった。
だが、今はそれ以前の問題である。
今まさに新城とこの後の約束をしてしまったところだ。
―室井さんも誘ってみようか。
一瞬だけ考えたが、すぐに止める。
室井と新城と三人で食事をするなど、悪戯に自分の首を絞めるだけだ。
青島の気持ちを何かしら怪しんでいるはずの新城の前で、室井と何事もない振りで過せるかどうかも分からなかった。
大体、室井と新城も特別仲が良いわけではないし、社交的なわけでもない。
息苦しくて重苦しい空気の中、室井に緊張し、新城に気を使って過ごすのだ。
きっと、青島にはしんどいばかりだ。
それが分かっているから、室井を誘うことは躊躇われた。
青島が中々返事を出来ずにいると、すみれが横から口を挟んだ。
「残念でした〜、青島君は新城さんとデートです」
「デートって…やめてくれる?そういうこと言うの」
青島が呆れた顔を向けると、すみれは舌を出して悪びれた。
溜め息を吐いて室井に視線を戻す。
「いや、今、丁度ですねー…」
言いかけて、言葉を飲んだ。
室井が怒っている。
いや、眉間に深い皺を刻み、頬を強張らせて、口角を下げているから、怒っているように見えただけだった。
「室井さん?どうかしました?」
青島がおそるおそる声をかけると、室井はハッとしたように首を振った。
「いや、何でもない」
「そうっすか?」
なんでもなさそうには見えなかったが、室井が何でもないと言うのだから、それ以上は聞けない。
青島はそれで納得することにして、気は進まなかったが室井を誘ってみることにした。
「室井さんも行きません?」
後で後悔するかなと思いながら誘ったのに、
「…いや、先約があるなら今日は止めておこう」
そう室井に断られて、ガッカリしている自分もいた。
忘れなきゃいけないと思うのに、一緒にいられるチャンスがあるなら一緒にいたいとも思ってしまう。
つい、期待してしまうのだ。
ホッとしたりガッカリしたり、青島の胸中は複雑だったが平気な振りをする。
するしかなかった。
「そうですか、残念っすね〜。また、今度行きましょうね」
ニコリと笑って誘うと、室井は曖昧に頷き踵を返す。
その背に慌てて声をかける。
「もう帰っちゃうんですか?」
近くまで来たから寄っただけとはいえ、あまりにも早い。
室井は足を止め、振り返ったが、少し困っているようにも見えた。
「用は、特にないから」
失礼したと言って、今度こそ刑事課を出て行った。
それを見送って、青島は首を傾げる。
「変な室井さん……何しに来たんだろ?」
「青島君、ばか?」
冷ややかに言われて、すみれを振り返る。
すみれは呆れ返った顔で青島を見ていた。
「何しに来たって、青島君を誘いに来たんでしょ」
青島は目を丸くした。
言われてみれば、そうなのかもしれないと思った。
湾岸署までわざわざ来たのに、室井がしたことといえば、青島を誘っただけだ。
予定が合わないと知り、すぐに帰ってしまった。
室井は青島を誘うためだけに、湾岸署に寄ったのだ。
―なんでかな…。
理由を探したくなるのは、青島にとって都合のいい理由を望むから。
それを自覚しているから、青島は考えるのを止めた。
「なんでかしらね」
再び帰り支度を始めた青島の背後で、すみれが呟いた。
そんなわけもないのに、思考がシンクロしているのかと思い、内心で焦りながらも手を止めない。
「何がー?」
「青島君は不思議じゃないの?」
聞き返されて、今度は手を止め振り返る。
「だから、何が?」
すみれは青島をじっと見上げると、意味深に言った。
「青島君は、もう少し考えた方がいいんじゃない?」
「……何を?」
そう聞くのが精一杯だった青島に、すみれは「何かしらねー」と言いながら離れて行った。
少しだけぼんやりとしてから、青島は鞄とコートを手に取り刑事課を後にした。
―考える?
何を考えたらいいのだと、足早に歩きながら考える。
室井が青島を誘うために湾岸署に寄った理由をだろうか。
そんなことは、ただの室井の気まぐれに過ぎないだろう。
室井の言う通り、近くまできたから寄ってみただけ。
ついでに青島を誘ってくれただけ。
そんな事実を掘り下げることに、なんの意味があるのか。
そこに深い意味があるわけがないことくらい、青島も知っていた。
それでも考え出せば、いらぬ期待をしてしまう。
室井にとっても自分は特別なのではないか―。
そう期待してしまう。
その期待がどれだけ虚しいものか分かっているから、極力考えないようにしているのだ。
一日も早く、室井を忘れたいから。
だから、考えたくなかった。
―一日も早く、忘れたい。
室井をこんなにも愛しく想う気持ちを、一分一秒でも早く忘れたい。
そう思うたび、少しだけ悲しい気分になった。
***
―これは、嫉妬だ。
湾岸署からの帰り道、室井ははっきりと自覚していた。
青島が新城と頻繁に会っている。
しかも二人きりで。
それを知って、胸が痛いような重苦しいような嫉妬を覚えていた。
一倉に話を聞いた時点でそれは既に感じていたことだが、これほど強くはなかった。
青島の口から知らされた事実が、室井には想像以上に重たく生々しかったようだ。
別に二人の交際が明らかになったわけではない。
青島が新城の気持ちを知っているのかどうかも分からない。
それでも、青島は新城と二人きりで会うことに抵抗はないのだ。
室井が誘った時、青島は困った顔をした。
返事を躊躇っていたように思う。
青島はきっとすみれが言い出さなければ、室井に新城と約束があることを言わなかっただろう。
室井も一緒に、などと誘いはしなかったはずだ。
つまり、新城と二人で行きたかったのだ。
そう考えると、堪らなくショックだった。
仲睦まじい青島とすみれにも子供じみた嫉妬を覚えたが、新城に対してはそれよりもずっと激しい感情だった。
―俺よりも、新城を取るのか。
そんなことまで考えてしまう。
だが、そんな権利は室井にはなかった。
当たり前だが、青島は室井の恋人でもなんでもないのだ。
大事な部下に過ぎない。
そんな嫉妬をすること自体おかしい。
おかしいが、事実室井は嫉妬している。
それならば、おかしいのは嫉妬していることではない。
青島が「大事な部下」であることがおかしいのだ。
室井は赤信号で足を止めた。
―青島は、ただの部下なんかじゃない。
そう考えたら、新城の気持ちを聞いてからずっと悩み続けていた自分自身にも納得がいく。
新城が青島を好きだという。
そのこと自体はどうでも良かったのかもしれない。
どうでも良くなかったのは、青島の気持ちだった。
もし、青島が新城を好きだったら、新城を好きになったら―。
室井は初めてその可能性を真剣に考えた。
今までは、心のどこかでずっと思っていたのかもしれない。
―青島が新城を受け入れるはずがない。
その証拠に、青島が新城を好きになる、新城のモノになる、そう考えただけで、今は身を切られるように心が痛む。
こんな痛みは、今まで感じたことがなかった。
そんなふうに痛む心があることにすら気付かずに、ずっと新城の片想いなど自分には関係がないと思いこんでいた。
だが、無関係ではなかったのだ。
新城に激しい嫉妬を覚えるのだから。
室井も青島を好きだったのだから―。
信号が青に変わっても、室井はしばらく動けなかった。
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