待ち合わせした駅前に着くと、室井は時計を確認した。
約束の時間まで10分はある。
仕事柄どうにもならないことはあるが、室井の性格からも分かる通り、他の事と同様時間に対してもルーズではない。
遅刻はしたくないが、早く来すぎて時間を無駄にすることもしたくない。
だから、待ち合わせ場所に10分前に到着したのは、予想より少し早かった。
読みを誤ったかと思ったが、時間を無駄にしたくないというだけで、多少待つことが苦になるわけではなかった。
忙しい彼らのことだからと、10分より余計に待つくらいの気持ちでいた。
尤も、大幅に遅れるなら連絡くらいくれるだろう。
そう思って人混みの中なのに目立つくらい姿勢良く突っ立っていたら、背後から肩を叩かれた。
振り返ると、青島とすみれが立っていた。
「すいません、待ちました?」
青島がぺこりと頭を下げるから、室井は首を振る。
「まだ約束の時間より早いくらいだぞ」
青島たちが遅刻したわけではないことを伝えると、青島は頭をかいて「あ、そっか」と呟いた。
すみれが青島より一歩前に出て、ニコリと笑う。
「全快祝いしてくださるそうで」
食べ物が絡んだ時ほどすみれの愛想が良くなる時はない。
室井は慣れないすみれの笑顔に戸惑いながら頷いた。
「怪我は?」
「もう、平気です」
まだ退院して日が浅いと聞く。
本当に全く平気なわけではないのだろうが、室井はそれ以上余計なことは聞かずに「そうか」とだけ返した。
「室井さんどこでもいいって言うから、こっちで店予約しましたよ?」
「私がずっと行きたかったお店〜」
嬉しそうなすみれを、青島が少し呆れた顔で見ている。
きっと予約した店は、すみれの独断と偏見で決まったのだろう。
誘っておいて申し訳なかったが、青島たちの方が店には詳しいだろうし、すみれの好みも分からなかったので、適当に決めてくれと任せてあった。
すみれが店を決めたのなら、安心である。
少なくてもすみれからの文句はでないはずだ。
青島はと言えば好き嫌いはあまりないようだし、青島もすみれが決めたところなら文句は言わないだろう、怖いから。
「ありがとう」
「いえいえ、じゃあ、行きましょうか」
青島が促すから、室井もすみれもその後に続いた。
すみれが予約していたのは、カジュアルなフレンチレストランだった。
堅苦しい雰囲気がないのはありがたい。
店内は白を基調とした内装で、上品だが可愛らしい雰囲気だった。
室井の人生においてあまり来ることがないような店である。
それは青島も同じだったようで、店に入るなり「野郎だけじゃ、来ないような店っすね」と苦笑していた。
室井だったら女性とだってあまり縁がなさそうだが、青島だったらそんなこともないだろうと思う。
例えば、すみれと二人で来ていたとしても、なんの違和感もない。
どこにいても浮いていそうに見えて、実はどこにでも良く馴染む男。
室井は青島のことを器用な男だと思っていた。
そこに少しだけ、憧れてもいた。
「美味し〜〜〜」
すみれが喜びを噛み締めている。
メインの仔羊のローストを食べてご満悦だった。
すみれの全快祝いを兼ねているので、すみれが満足しているならそれでいいのだが、室井にはそろそろフレンチのコースが重たくなってきていた。
ちらりと見れば、青島は全く平気そうである。
自分の年歳を痛感しつつ、フォークを置いた。
「恩田君、私の分も食べるか?」
マナーも何もあったものではないが、すみれに自分の分の手付かずの皿を差し出してみる。
すみれは目を輝かせた。
「いいんですか?いただきます〜」
いいんですか?と聞いたわりに室井の返事を待たずに、皿を受け取った。
「あれ?室井さん、羊嫌い?」
すみれの代わりに青島が気にかけてくれるが、室井は首を振った。
「いや、腹が苦しくなってきただけだ」
「あー、量多いですもんね。俺は平気っすけど…」
「青島君には分けてあげないわよ」
言ったのはすみれで、室井から貰った皿を大事そうに抱えながら食べている。
別に青島も欲しがっていたわけではなさそうだったが、すみれに「分けてあげない」と言われてムキになる。
そういうところは、子供っぽい。
「ちょっとくらいわけてくれてもいいんじゃないの?」
「やぁよ、室井さんは私にくれたんだから。ね」
ねっと、可愛らしくふられても、室井も困る。
「…半分にして食べたらどうだ?」
「えぇ〜?」
心の底から嫌そうな声を上げるすみれを横目で見て、青島は呆れた顔をした。
「すみれさん、太るよ」
「それ、セクハラ」
憮然とした表情で、青島が室井を見る。
「…これ、セクハラ?」
だから、室井にふられても困るのである。
室井は眉間に皺を寄せつつも、素直に答えた。
「分からない」
昨今ではセクハラの定義がかなり広域になっているようだ。
「結婚しないのか」と聞くだけでセクハラに当たると聞く。
それなら「太るよ」もセクハラかもしれない。
「すみれさんだって俺に言うくせに…」
「だって、青島君、太りやすい体質でしょ」
そうだったのか、と室井は内心で思った。
言われてみれば、出会った頃よりはふっくらしている気がするが、それが不自然ではないから室井には気にならなかった。
むしろ、少しふっくらしたことで、今の青島が若く見える気がするくらいだ。
そんなふうに室井が青島を観察していることなど知ることもなく、青島とすみれの愚にも付かない会話は続いていた。
だから注意してあげてるのと恩着せがましく言うすみれに、青島は半眼になる。
「すみれさんはいくら食べても太んないわけ?」
「だから、それ、セクハラ」
本当にセクハラと思っているわけではないのだろうが、すみれは青島の相手などまともにせずに適当に応え、目の前の肉に夢中になっていた。
青島は溜息を一つ吐いて、すみれに文句を言うのを諦めたらしい。
ワインに手を伸ばすが、最後の悪あがきとばかりに、すみれを振り返った。
「女が男に言うのは良くて、男が女に言うのはだめなんて、それも男女差別じゃない?」
「それくらいいいじゃない。力づくで暴力振るうのは男の方なんだから、多少の悪口くらい我慢しなさいよ」
じろりと睨まれて、青島は思わず口をつぐんだ。
逆もないことはないが、確かに男から女への暴力の方が圧倒的だ。
ましてや、すみれは経験者である。
すみれの言論の正しさは置いておくことにして、その言葉に青島の反論する気を削ぐだけの威力はあった。
「…俺はそんなことしないけどね」
ぼそりと呟いた青島に、すみれは笑みを溢した。
「分かってるわよ。したら、逮捕してやる」
後半は真顔で言うから、今度は青島が笑みを溢した。
「すみれさんが無銭飲食したら、俺が捕まえてやる」
「失礼ねー、しないわよそんなことっ」
「俺に奢らせるから?」
「青島君の財布じゃ足りない!」
ぎゃあぎゃあと言い合う二人を見ながら、相変わらずだと室井は思った。
―相変わらず仲睦まじい。
そう思って、眉を寄せた。
彼らはとにかく仲がいい。
一時は恋愛関係にあるのではないかと思ったが、そうではないということは本人たちの口から聞いていた。
彼らは、湾岸署の連中も含めて、仲間として、戦友として仲がいいのだ。
だが、先日問題が発覚した湾岸署署長の婦警とのただならぬ関係でもあるまいし、警察官とはいえ独身の男女の交際など本人の好きずきでしかない。
例え彼らがそういう関係にあったとしても、室井には何の関係もなかった。
それなのに、何か面白くない。
それが、何のせいなのかが分からない。
明確ではない感覚に体が支配されているのを感じる。
体の中、胃の奥の方が、ムカムカしてくる。
―食べ過ぎたか?
一瞬思ったが、物理的なムカつきではない。
尻の座りが悪いようなソワソワした感覚があった。
仲の良い彼らが、羨ましかったりするのだろうか。
室井には、気の許せる友などほとんどいない。
学生時代にはいたが、警察官になってからは忙しさにかまけて、縁遠くなってしまった。
そんな中にあって、青島とはプライベートで頻繁に会うわけではないし一緒に出かけることなどもないが、心の距離は今は誰よりも近かった。
大事な同志で、室井にとっては特別な人間だった。
だから、情けないことだが、ほんの少しだけ寂しかったのかもしれない。
青島とすみれの仲睦まじい姿を見ているのが。
―子供みたいな嫉妬を…。
室井は内心で苦笑した。
情けないと思うのと同時に、まだ自分にもそんな感情が残っていたのかと少し驚いた。
大人になり、警察官になって、本庁で揉まれているうちに、余計な感情は随分忘れてきた。
青島に出会い、何度もぶつかって、分かりあうことで、それらをいくつも思い出してきた。
こんな子供じみた感情まで、もしかしたら青島が呼び起こしたのかもしれない。
「あ、すいません、うるさかったです?」
黙り込んでいた室井に、青島が申し訳なさそうな顔をした。
店内もそれなりに賑やかで、青島たちの話声ばかりが響いているわけではない。
よその迷惑になっていることもないだろう。
室井は緩く首を振った。
「いや、大丈夫だ」
「そうっすか?室井さんが嫌じゃないならいいんすけど」
その中身はどうであれ仲睦まじい二人の会話に入るに入れなかっただけなのだが、そうか黙っているばかりでは余計な気を遣わせるのかと思い至り、室井は話題を振ってみた。
「君達は本当に仲がいいな」
言った途端、室井は後悔した。
室井自身が「なんでこんな質問しか出てこないんだ」と思ったくらいだから、青島とすみれもそう思っただろう。
少なくても面を食らったらしく、二人ともきょとんとしている。
やがて、二人して笑い出した。
「何言ってんすか?いきなり」
「そうよ、何で青島君と仲良し呼ばわり?」
「あ、それ、俺のセリフ。なんですみれさんなんかと」
「なーによ、青島君なんか、他に噂になる相手もいないくせに」
「失礼な、俺にだってねー」
俺にだってなんだろうと思っている室井を他所に、青島は言いかけたまま黙り、すみれから室井に視線をうつした。
「もしかして、俺とすみれさんのこと、なんか疑ってます?」
そんなつもりではなかったのだが、そう聞かれるとそんなつもりだったのかもしれないと思った。
二人が恋人同士ではないと聞いてはいたが、良く考えればそれは五年も前の話だった。
今の二人がそうなっていても、何もおかしくないと室井は思う。
―二人の仲を勘繰ったからこそ、とっさにあんな発言をしてしまったのだろうか?
―それを言ってどうしようというのか?
―二人の関係を知りたかった?
―それならば、何故?
自分の気持ちなのに、良く分からなかった。
また考え込んでしまい返事もしない室井に、青島がきっぱりと言った。
「違いますからね、すみれさんとは何にもないですからね、全く、全然、ちっともないですからね」
何もそこまで、というくらい丁寧に否定されて、今度は室井が面を食らう。
すみれは青島を見、室井を見てから、また青島に視線を戻して嫌そうな顔をした。
「ちょっと、そこまで否定するのも失礼じゃないの?」
「じゃあ、俺と勘違いされてていいの?」
「絶対、いや」
きっぱりと、何の躊躇いもなく言われて、青島は眉を寄せたが、結局苦笑した。
「と、言うわけで、何にもないんです、俺たち」
「そ、そうか…」
そこまで全力で否定されれば、そうなのだろうと信じるしかない。
大体、不倫でもあるまいし、ただの同僚同士の交際を、そんなにむきになって隠す必要はない。
青島もすみれも真剣に相手を嫌がっているわけではなく、照れもあっての全力否定だろう。
結局、恋人ではないが、仲がいいことには代わりないという結果に落ち着いた。
落ち着いたから、なんだというのか。
室井は、
「デザートなにかしら〜」
と浮かれるすみれと、それを見て、
「えっ?もう肉全部食ったのっ?」
と驚いている青島を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
会計を済ませて外に出ると、すみれがペコリと頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
言って、今度は青島を見上げた。
「青島君」
「ん?」
「室井さんと二次会でも行ったら?」
私はここでと言うすみれに青島は目を丸くし、室井を見た。
室井も戸惑って青島からすみれに視線をうつす。
すみれはどこか照れたような笑みを浮かべていた。
「ありがと、室井さん」
彼女なりに、室井の厚意を好意的に受け止めてくれたのだろう。
それには室井もホッとしたが、青島は少し困った顔をしていた。
「すみれさんは?」
「私はもうお腹いっぱいだから帰る。室井さん」
「なんだ」
「青島君のこと、よろしくお願いしますね」
そう言って、もう一度ペコリと頭を下げると、駅の方に歩いて行った。
二人とも何となく黙り、すみれを見送る。
小柄な後ろ姿が見えなくなると、青島は溜息をついた。
「お願いって……俺は子供じゃないんだから」
自分のことは自分で面倒みれるのにと憤慨している青島に、室井は苦笑した。
恋人より、姉弟のような雰囲気がある。
それとは逆に兄妹のように見える時もあるし、支えあい助けあっている戦友のように見える時もあった。
「で、どうします?」
青島が室井を見下ろしてくる。
「ん?」
「蕎麦かラーメンでも食って帰ります?」
本音を言えば青島ともう少し飲みたい気もしたが、明日も仕事だろうしあまり付き合わせるのも申し訳ない。
「蕎麦にしよう」
「ラーメン嫌いでしたっけ?」
「夜中に食うと太るぞ」
短い沈黙の後、青島は恨めしそうに室井を見た。
「室井さんまで酷い…」
青島と並んでカウンターに座る。
周りは室井たちと似たような、酔っ払ったサラリーマンばかりだった。
「先にビールください」
青島が室井に何も聞かずに注文した。
室井が視線を向けると、青島は小さく笑った。
「いっぱいだけ、乾杯しましょ」
先程の店でも、一応乾杯はした。
すみれの全快祝いと事件解決を祝して。
今度の乾杯は何にだろうかと思ったが、青島と二人で乾杯するのも悪くない。
そう思い、室井はただ頷いた。
ほどなくして、瓶ビールと小さなグラスが二個運ばれてきた。
互いのグラスを満たすと、一瞬だけ無言で見つめあい、青島は口角を上げた。
「未来の警視総監に乾杯」
グラスを掲げる青島に、室井は眉を寄せた。
とても乾杯しづらい。
「ふざけてるんじゃないですよ」
仏頂面な室井に、青島はやんわりと笑った。
「ただ、信じてるだけ」
そう言った青島の眼差しが真剣みを帯ていたから、室井は無言で青島のグラスに自分のグラスをぶつけた。
何があっても自分を信じてくれる青島の信頼に応えたい。
期待に応えられる男でありたい。
そういう思いで、青島とグラスを合わせた。
青島はゆっくりグラスに口をつけると、一気にグラスを空けた。
その勢いのままグラスをテーブルに置くと、真っ直ぐに室井を見つめる。
「俺、信じてますから」
「…ああ」
いつだって、その言葉が室井の背中を押す。
深く頷くと、青島は小さく笑った。
「ずっと…何があっても、室井さんの味方ですからね」
俺のことも信じていてくださいねと呟く声は小さく、どこか頼りなく感じた。
「青島…?」
室井の問いかけに青島は笑って首をふった。
なんでもないという意味なのだろうが、室井には少しひっかかる。
「青島、…」
「頑張りましょうね、俺たち」
いいかけた室井の言葉を遮り、青島が言った。
そうしたら、室井は真顔にならざるを得ない。
「もちろんだ」
力強く頷くと嬉しそうな笑顔が返ってきて、もう一度グラスを合わせた。
二人並んで蕎麦をすすりながら、室井は聞きそびれたことが気になった。
ところが、何を聞きそびれたのかが良く分からない。
何かが気になったはずなのに、何かを青島に言おうとしたのに、言葉を飲み込んでしまった。
飲み込んでしまった言葉をいくら探してみても、どういうわけか見付からない。
それが酷く気になった。
横目で青島をみれば、美味そうに蕎麦をすすっている。
室井も箸を動かし続ける。
―楽しい夜だった。
そう思うのに、室井には何かが心残りになった夜だった。
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