外出から帰ってきた青島は、湾岸署のエントランスで珍しい男を見た。
姿勢はいいが小柄で、官僚らしくきっちりした身なりだが目付きがやけに鋭く、青島のような所轄刑事には口を開けば嫌味か突き放した物言いしかしない男。
湾岸署から帰るところなのか、エントランスに新城の姿があった。
新城が湾岸署に来ることも珍しいが、部下も連れずに一人でいることも珍しい。
先の台場役員連続殺人事件で少し顔を合わせたが、新城は更に偉くなり、今は室井よりも上の立場にあるらしい。
そんな官僚がわざわざ出向いてくるような事件でもあったのだろうかと、思わず新城を凝視していると、青島の存在に気付いたのか新城が視線を寄越した。
懐っこい青島をもってしても、新城とは相変わらず相容れない。
というより、新城が青島を嫌っているのだ。
どうせ何を聞いても「所轄は黙っていろ」だの「貴様には関係ない」だの、友好的という言葉とはほど遠い返事しか返ってこないのは目に見えている。
それでも聞かずにいられないのが、青島だった。
大股で新城に近付いて問いかける。
「何かあったんすか?」
知りたいという気持ちから尋ねただけで、まともな返事を期待したわけではなかった。
新城は青島を一瞥すると、面白くも無さそうに言った。
「署長に用事があっただけだ」
思ったより普通に返事が返ってきて、青島は内心驚いた。
「はぁ…そうですか〜」
気の抜けた返事を返すと、新城は嫌味ったらしく口角を上げた。
「事件じゃなくて、残念か?」
「別にそんなわけじゃ…」
無いこともないが、嫌そうな顔で否定すると、新城は鼻で笑った。
あからさまに馬鹿にした態度でムカッとくるが、だからといって一々噛みつくほど青島も子供ではない。
俺って大人だなと自分にいい聞かせていたりするから、あまり大人とも言えないが。
何もないのなら、これ以上話すことは何もない。
新城とするような世間話は青島も持ち合わせていないし、そんなことに新城が付き合ってくれるわけもない。
早々に退散しようと思ったのだが、青島がその場から立ち去る前に新城が無表情に言った。
「丁度いい」
「は?」
「警視庁まで運転しろ」
もう少し言いようがないのかとか、こっちにも都合ってものがとか、だったから部下連れて来いよとか、言いたいことは色々あったが、相手は天下の警察官僚様だ。
言うだけ無駄だし、逆らえば立場が悪くなるだけである。
そんなことは、捜査の時だけで十分だ。
譲れない時は、今ではない。
「警務課行って鍵借りてきますから、ちょっと待っててください」
無言で頷いた新城を残し、青島は駆け足で警務課に向かった。
「面倒くさいことになっちゃったなぁ」
これが室井さんなら良かったのにと思って、青島は素直な自分自身に苦笑した。
嫌味を言われるだけだと分かっていて、それでもわざわざ会話を探してしまうのは青島の癖だった。
後部座席に座る新城は、車に乗ってから一言も喋らない。
青島も黙っていればいいのだが、長い沈黙は耐えられない。
何か話題はないものかと考え続けていた青島だったが、意外なことに先に口を開いたのは新城だった。
「警視総監賞の授賞式、さぼったらしいな」
「…新城さんって、何でも知ってますよねぇ」
バツが悪い事実を指摘されたことよりも、そんなことまで知っている新城に驚く。
「貴様が悪目立ちするからだ」
「悪目立ち……い、いや、さぼってたんじゃなくて、仕事してたんですってば」
「授賞式に出るのも仕事だろ」
苦しくも室井と同じ台詞だが、室井の方が暖かみがあった気がするのは気のせいか。
青島は肩を竦めた。
「警察官として、より大事な仕事を優先しただけですよ」
「つまり、室井さんは警察官として大事な仕事を蔑ろにしているということだな」
「!…ちょっと、そんなこと誰も言ってませんてっ」
「言ったも同然だろ、おい、いいから前を向け」
お前と心中するなんて死んでもごめんだと言われて、思わず新城を振り返っていた青島も素直に前を向く。
青島だって、新城と心中するのはごめんである。
それでもちゃんと、否定すべきところは否定しておく。
「室井さんには、室井さんのやらなきゃいけないことがある。俺とは一緒になりませんよ」
青島と一緒になって上から煙たがられてばかりいたのでは、室井はいつまでたっても上に上がれない。
室井には室井の立場で戦ってもらわなければならないのだ。
「ふん…随分室井さんを買い被ってるな」
馬鹿にした言い方は今更で、気にはならない。
青島は平然と返した。
「買い被ってはないです。俺の見たままの室井さんを信じてるだけ」
ただ、それだけだった。
少しの間の後、新城が低く笑った。
「貴様の目には、あの人がどんなふうに映ってるんだか」
「多分、新城さんとそう変わりませんよ」
「生憎と、室井さんを邪な目で見たことはないな、貴様みたいに」
青島はちらりとルームミラーで新城の顔を見た。
相変わらず無表情で何を考えているのか分からない。
何のつもりで青島にそんなことを聞いたのだろうか。
新城の思惑がなんであれ、青島の答えは一つしかない。
「何言ってんすか?室井さんを見るのに、ヨコシマも何もないでしょ」
青島は馬鹿馬鹿しいというふうに笑って、肩を竦めた。
「ふん…自分のことだ、分からないわけないだろ」
「なんの話しだか、さっぱりっすよ」
「そうか」
らしくもなくあっさり引き下がるから、青島は拍子抜けした。
新城のことだから、何か意図があって言い出したことだろうし、しつこく食い下がってくるだろうと思ったのだ。
気まぐれや冗談で青島をからかうというのも、新城らしくない。
新城が青島にすることといえば、嫌味を言うとか馬鹿にするといった行為のはずだった。
何なんだ一体と思いながら、内心で大いに焦っていた青島に、新城はさらりととんでもないことを言った。
「貴様が室井さんをどうとも思っていないのであれば、私がどうにかしてしまっても何の問題もないな」
青島は急ブレーキを踏んだ。
前の車に追突しそうになったのだ。
青島の車が急に減速したために、後ろの車がクラクションを鳴らしながら追い抜いていくが、青島にはそんなことに構っている心の余裕は無かった。
ルームミラー越しにまた新城を見ると、今度は新城も青島を見ていた。
ミラーの中で視線が合う。
「私が乗っている時に事故など起こすなよ」
「新城さん、なんの冗談すか」
青島が低く問うと、新城は鼻で笑った。
「私が冗談を言うとでも思っているのか?」
確かに新城が青島に向って冗談を言うとは考えられなかった。
ましてや、室井を好きだなんて冗談を、新城が言うとは思えない。
―なら、本気ということか?
信じられないという思いでいっぱいだった。
新城が同性に恋愛感情を抱くとは思えなかった。
同性どころか、異性に対してだってそんな感情が働くのかどうか怪しかったのに…と動揺に紛れて、青島は失礼極まりないことを考えていた。
―新城さんが室井さんを…?
―だからって、なんで俺に言うんだ。
―俺にそんなこと言われても困るよ。
―俺に何を言わせたいんだよ。
―そんなことより…。
本気なのか―?
青島の頭の中はぐるぐると混乱していた。
そんなことは気にも留めずに、
「私は冗談は言わない」
新城は繰り返した。
「嘘はつくがな」
次いで、堂々といい放たれた言葉に、青島は思わずガバリと後ろを振り返ってしまった。
新城がニヤリと笑う。
「室井さんをどうにかしたいと言えば、精々所轄と一緒に暴走する癖を矯正したいというくらいか……前を向け、ぶつかるぞ」
青島は素直に前を向くと、全力で顔を顰めた。
むかつくむかつくむかつく、と胸中で呪いのように呟きながら、ハンドルを右に切った。
「おい、どこに行く気だ?警視庁は今の道を左だぞ」
涼しい新城の声に、青島は再び乱暴にハンドルを切った。
―むかつく!
新城を警視庁で降ろすと、新城は青島を一瞥し無表情に去って行った。
それを見送り、青島はイライラと車を発進させる。
湾岸署に向かって走りながら、
「結局なんだったんだっ」
一人ブツブツと溢す。
青島をからかうための嘘だったのだろうか。
そのためだったとしても、何故室井を話題にあげたのか。
しかも、普通で考えれば、あまり一般的ではないからかい方だ。
これがすみれなら、まだ分かる。
青島とすみれは傍から見ると友達以上恋人未満の関係にも見えるらしい。
青島もそれは知っていたから、すみれとのことをからかわれるならまだ理解できる。
「なんで室井さんなんだろう…」
青島は呟き、表情を曇らせた。
新城の態度には腹が立っていたが、それ以上に不安も覚える。
新城がああいうふうに言葉にしたということは、何かしら青島の気持ちに勘付いているということではないだろうか。
誰に何を言われたって、青島はそれを認めるつもりはないが、自分の気持ちを臭わされると不安にもなる。
不意に胸ポケットで携帯電話が鳴り、考え込んでいた青島は驚いてびくりと震えた。
「ああ…びっくりした…」
溜息を漏らし苦笑すると、車を路肩に止める。
何か事件でもあったかと思いながら、ディスプレイを見て目を丸くした。
慌て通話ボタンを押すと、生真面目な性格が滲み出るような硬い声が聞こえてくる。
『室井だが』
「お疲れ様です、青島です」
『お疲れ様』
言ったっきり、室井が黙る。
青島が電話をかけたわけではないから、話したいことも特になく、青島も黙る。
変な間に、一度携帯電話を耳から離しディスプレイを確認した。
電話が切れていないことを確かめると、また耳に当てる。
「室井さん?どうかしました?」
『飯でも食いに行かないか』
唐突な誘いに、青島はまた目を丸くした。
時計を見れば正午をいくらか過ぎている。
珍しいこともあるものだとは思ったが、室井と飯を食うことは嫌ではない。
時間も丁度良かったし、青島に断る理由も無かった。
「はぁ…室井さん、今どこっすか?本庁?俺、近くにいるんで迎えに行きますよ?」
『……?』
「……?」
また沈黙が生じる。
『ああ…違う、今から昼飯を食おうと言ってるんじゃない』
苦笑気味に訂正されて、青島も自分の勘違いを悟った。
丁度いい時間に食事に誘われたから、今から昼飯にと誘われたのかと思ったのだが、そうではなかったらしい。
職場の同僚でもあるまいし、昼飯に誘われたことなどないから驚いたが、室井と酒を飲んだことなら数える程度だがあった。
『近いうちに飲みに行かないか?』
「え?」
『…祝い、というのもおかしいが』
事件が解決してから、室井とは顔を合わせていなかった。
会える唯一の機会だった授賞式を、青島はさぼっている。
あれから、話しらしい話しは、青島が電話をかけたあの時くらいしかしていない。
酒でも飲みながらゆっくり話そうということだろうか。
青島はいつかのきりたんぽ鍋を思い出した。
あの時は、単純に嬉しかった。
誘ってもらえたことも、ただの社交辞令に終らずそれが実現したことも。
だけど、あの時とは、事情が変わっていた。
青島の、心の事情が。
『忙しいか?』
すぐに返事を返せなかった青島に、室井が聞いてくる。
「いや…」
室井は青島にとって、一緒にいて苦痛な相手ではない。
室井と食事をするのも、酒を飲むのも嫌ではなかった。
嫌ではないが、酒を飲むと理性が緩くなり、判断が甘くなる。
境界線が見えなくなる。
青島はそれを警戒していたのだ。
だが、警戒していたって、心は思いの他素直だった。
『無理にとは言わないが』
「…いや、大丈夫っすよ」
結局は、青島は室井の誘いを断れない。
嫌ではないから、断れないのだ。
『そうか。恩田君も、誘ってみてくれ』
「すみれさんも?」
『全快祝いも兼ねて、と思ってな』
青島の口許に無意識に笑みが浮かぶ。
それは、自嘲するような暗い笑みで、青島らしくない笑い方だった。
二人きりではないことに一瞬落胆した自分に気付いて、嘲ったのだ。
期待することなど何もないのに、期待する必要などどこにもないのに、それでも期待してしまった自分を酷く浅ましいと思った。
そんなことは少しも声には出さず、なるべく明るい声を出す。
「分かりました、誘ってみます」
『頼む』
「すみれさんのことだから、奢りなら喜んできますよ」
『だろうな』
失礼な室井の同意だったが、普段のすみれの行いを鑑みたら、それも仕方がない。
「じゃあ、また連絡しますね」
『ああ…ところで、青島』
「はい?」
『本庁に来てたのか?』
青島が本庁の側にいると言ったことを気にしているらしい。
少し心配そうな声音に室井の考えていることが分かった気がして、青島は笑みを溢した。
今度の笑みは明るい。
「大丈夫ですよ、呼び出しくらったわけじゃないっすから」
真面目にやってますよと言うと、室井が苦笑した。
『そうか…』
「ちょっと新城さんに頼まれてね」
『新城…?』
途端に室井の声が低くなった。
新城が青島を目の仇にしていたことを、室井も良く知っている。
それでも、どういう心境の変化か、五年前に比べれば格段に話しやすくなっていた。
『何かまた無茶を押し付けられているんじゃないだろうな』
「違いますよ、ただ本庁まで送ってきただけです」
『本当か?』
「本当ですって」
妙に疑り深い室井が可笑しい。
「もう、前みたいな嫌がらせはされませんよ。室井さんもそうでしょ?」
『…そうだな』
新城は室井に対しても敵意をむき出しにしていたが、今はそんなところもなくなっているようだった。
むしろ、二人の間でも、それなりの信頼関係は築かれているように感じる。
青島と室井のような関係では全く無いが、新城なりに室井を評価しているのだろう。
青島に対してもそうなのかと言えば、青島自身評価されている気は微塵もしない。
ただ、嫌味な口調は相変わらずだが、少なくても意味不明な言いがかりをつけられることはなくなった。
5年もあれば、人間は変わるのだ。
多分、青島も変わっている。
「…そろそろ、署に戻んないと」
『ああ、すまない、邪魔をした』
「いえ。あ、すみれさん誘って、また連絡しますから」
『待ってる』
挨拶をして電話を切ると、青島はハンドルに寄りかかって溜息を吐いた。
正直なところ、誘われて嬉しかった。
室井と会える。
だが、同時に困ってもいた。
会わずにいた方がいい気がしているからだ。
会えばきっとまた、執着してしまう。
それは警察官としての憧れだとか、信頼できる上司だからとか、そんな次元の話ではなかった。
もっと即物的で、もっと欲望に近い感情で、室井に執着してしまう。
青島は室井が好きだった。
男に惚れたことなどないから気付くのに随分かかったが、気付いてみれば室井に依存し傾倒している自分がいた。
―惚れてしまったものは仕方が無い。
そうは思うが、それだけではすまされない。
同性同士で、上司と部下。
何よりも、室井は理想を共有しあったかけがえのない存在だ。
青島にとって、他の誰も代わりにはなれない。
そうしたら、そこに恋愛感情を含めるメリットが何もないのだ。
失う可能性ばかり高まるくらいで、青島にとって魅力的なことなど何もない。
あるだけ邪魔でしかない感情。
恋をしてそんなふうに思ったことは初めてだった。
告げることは全く考えていない。
この恋は、始まる前から終わっている。
青島が終わらせたのだ。
室井を好きになるということは、失恋することと同意義だ。
青島は既に室井に失恋したと割り切って、室井のことを緩やかに心に納めていくことに決めていた。
だからこそ、室井と会うことに躊躇いを感じている。
会いたい。
けど、会わない方がいい。
そう思うのに断れなかったというのが、青島の気持ちを一番素直に表していた。
数日もすれば、青島は室井に電話をするだろう。
予定を合わせて、三人で飲みに行く。
失恋しているのに、諦め悪い自分が腹立たしい。
青島はハンドルに掛けた両腕に顔を埋めた。
「待ってる…か」
その一言が、どれだけ嬉しいか。
きっと室井は知りもしない。
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