「室井さん、この計算、答えなに?」
青島がノートを差し出し聞いてくるから、室井は眉間に皺を寄せた。
「答えを聞くんじゃない、解き方を聞け」
ノートを覗き込みながら注意する。
答えを聞くだけではいつまで経っても覚えられない。
それでは青島のためにはならない。
高校の夏休みの課題くらいは見てやるが、答えを教えるだけで終わらせるつもりはなかった。
「…ここをこうして、これを代入するんだ」
シャープペンシルでさらさらとノートに書き込みながら教えてやる。
「はー、なるほどー…んじゃあ、この問題はー……こう?」
「そうだ」
「ん、分かりました」
青島はバカではない。
頭の回転が早いので、一度覚えてしまえば簡単に記憶していく。
やる気がある時の青島に勉強を教えることは難しくなかった。
気持ちにムラがあるのが、難点である。
「…これ、違ってるぞ」
「え?マジっすか」
「これはこう…………」
言いかけて、室井は言葉を飲んだ。
急に沈黙したせいか、ノートを覗いていた青島も顔をあげる。
顔をあげられて、室井は益々絶句した。
想像よりも、ずっと近くに青島がいた。
二人してノートを覗きこんでいたのだから、当然である。
室井は不意にそれに気付いて、驚いただけだった。
「室井さん?」
首を傾げた青島から、室井はさりげなくそっと離れる。
「いや、何でもない」
「でも…」
上手い言い訳も見つけられずに困っていると、タイミング良くインターホンが鳴り、室井は慌てて立ち上がった。
「ちょっと待ってくれ」
天の助けと思って玄関に向ったが、実はそうでもないことにすぐに気付いた。
ドアを開け一倉の顔を見て、室井は顔面を引き攣らせた。
「よお」
のんきに挨拶を寄越す友人の姿に、室井は開けたドアをそのまま閉めたくなった。
青島のことで頭がいっぱいで、この男の存在をすっかり忘れていた。
「何しに来たんだ」
室井は通せんぼするように玄関に立った。
部屋にあげたくない。
それどころか、一倉の目には触れさせたくない。
もちろん、青島をだ。
「遊びに来たんだよ」
当然とばかりに言う一倉に、室井はますます渋面になる。
「勝手に来るなと言ってるだろっ」
「どうせ暇だろ?」
友達も少ないんだしと言われればその通りだが、激しく余計なお世話である。
「今は暇じゃないんだ」
「なんだよ、誰か来てるのか?」
ひょいっと一倉が部屋を覗く。
しまったとは思ったが、ワンルームの部屋では青島を隠すことなどできるはずもない。
一倉が青島の存在に気付いて目を丸くした。
視線がぶつかったせいか、青島は小さく頭を下げた。
こうなっては仕方がない。
下手に隠す方がおかしいだろう。
「…幼馴染みの青島だ」
渋々と、一倉に青島を紹介する。
「幼馴染み?」
「こっちは同じ大学の一倉だ」
一倉の問掛けを無視して、今度は青島に言う。
青島はもう一度ぺこりと頭を下げた。
一倉は青島をじっと見つめてから、呆れ顔で室井を見た。
「『大学の友人』くらいの紹介はできないのか?」
「…不本意ながらそんな感じだ」
更に渋々と付け足すと、青島は笑みを溢した。
「微妙なお友達なんすね」
「君は高校生か?」
一倉が青島に問う。
話しかけるなという、室井の内心はもちろん誰にも聞こえない。
「あ、はい、室井さんのよっつ下です」
「室井の幼馴染み?」
「はい、ガキの頃から、家が隣だったんで…」
「家が?」
一倉が驚いたように聞き返したから、室井は思わず会話を遮った。
「青島っ」
「は、はい?」
「悪いんだが、コンビニに行って来てくれないか」
突然すぎたせいか、青島が目を丸くしている。
それも当然だが、室井は真顔で重ねてお願いした。
「頼む」
「…はぁ」
訳は分からなかったようだが、室井の気持ちは汲んでくれたらしい。
立ち上がった青島に自分のサイフを預けたもののこれと言って思い浮かばなかったので、アイスクリームを買ってきてくれと頼むと、妙なお願いに少し困惑したまま青島は出て行った。
「…ふーん、幼馴染みなんかいたんだな」
ドアが閉まると同時に、一倉が言った。
「幼馴染みくらい、誰にだっているだろう」
子供の頃からの付き合いがある友人がいる人は少なくないはず。
室井と青島の関係は特に不自然なことではないのだ。
室井が動揺さえしていなければ。
「実家が隣なんだって?」
「幼馴染みだからな」
良く分からない返事になってしまったが、一倉はそこには頓着せずに、ニコヤカに言った。
「あんな可愛いヤツが隣に住んでたなんて、羨ましいね」
室井は無意識に、だけど力一杯一倉を睨みつけてしまった。
途端に一倉が笑い出したから「しまった」と思うが、後の祭りである。
「冗談だよ、男に興味ないから」
俺だってないと言いたかったが、青島に対してだけは並々ならない興味があったので、そうとも言い切れ無い。
溜め息をついて、玄関を指差す。
「何でもいいから、今日は帰ってくれ」
「一つ白状したらな」
一倉を見ると、涼しい顔で笑っている。
楽しそうに見えるのは室井の気のせいか。
「実家に帰りたくない原因はアレか?」
どう見ても楽しそうに見える表情で言うから、室井は眉間に皺を寄せた。
「そんなんじゃない」
「そうか?」
「青島は……仲の良い幼馴染みだ」
自分で言っていて悲しくなるが、それは事実である。
仲の良い、ただの幼馴染みだ。
室井にとってはそれだけの人ではなくとも、言葉にするとそう言うより他にない。
「仲がいいにも、色々あるだろ」
どこまで感付いているのか、一倉が言う。
室井は時計を見た。
コンビニはすぐ近くにあった。
もたもたしていたら、青島が帰って来てしまう。
「夏休みに泊まりにくるような仲の良さだ」
室井は投遣りに言い、一倉の体をドアの方に押し出した。
「暇じゃないから、帰ってくれ」
繰り返すと、一倉は肩を竦めた。
「まぁ、あまり意地は張るもんじゃないぞ」
「意地など」
「今時珍しくも無いだろ、男同士でも」
室井の気持ちはあっさりバレたようだった。
珍しくも無いと言ってのけるあたりさすが一倉と思ったが、だからと言って認めるわけにもいかない。
「そんなんじゃないと言ってるだろう」
室井にはそう繰り返すしかない。
一倉もそれ以上問い質す気はなく帰ってくれるつもりらしく、ドアノブに手をかけた。
ドアを開ける前に振り返ると、ニヤリと笑った。
「油断してると横から持ってかれるぞ……俺とかにな」
目を剥いた室井を残し、一倉はさっさと出ていく。
室井は慌てて閉まりかけたドアを掴んだ。
「アイツに手を出したら、許さないからなっ」
背中に向って怒鳴ると、一倉は振り返った。
が、室井はそれどころじゃない。
一倉の背後に青島がいたからだ。
コンビニのビニール袋を下げ、呆然と室井を見ている。
室井は自分の顔が急激に熱くなるのを感じた。
動揺する頭で確認する。
―アイツに手を出したら、許さないからなっ。
恥ずかしいことを叫んだ気がするが、青島の名前は出していない。
青島に知られてはいない。
大丈夫だと確認する。
「肝に命じておくよ」
固まっている室井に手を振り、一倉は離れて行った。
通りすがりに、青島の肩を叩いていく。
「あ、あの…」
そのまま通りすぎようとした一倉を呼び止める。
「ん?」
足を止めた一倉に、青島はビニールの袋を差し出した。
「アイス、買ってきたんですけど…」
一瞬目を丸くした一倉だったが、袋に目を落として吹き出した。
「ははっ、どうもな」
袋に手をいれながら礼を言うと、室井を一別する。
眉間に深い皺を寄せた室井にもう一度吹き出して、一倉は今度こそ帰って行った。
それを見送るように佇んでいる青島の背中を、室井は見ていた。
ゆっくりと振り返る青島に、また顔に力が入る。
「えっと……良かったんですか?」
一倉の背中を指差しながら言う。
折角来たのに帰してしまって良かったのかという意味だろう。
室井は深く頷いて、ドアを開けた。
「いいんだ、用事は無い」
「いや、お友達は用事があるから来たんじゃ…」
「暇だから来ただけだから、いいんだ。それより、部屋に入ろう…アイス溶けるぞ」
「あ、そうっすね」
促すと、青島は慌てて部屋に入る。
それに室井も続いて、ドアを閉めた。
一倉が戻ってくることはないと思うが、なんとなく鍵を閉める。
「…悪かったな、買いに行かせて」
仕方がなかったとはいえ、突然追い出すように買い物に行かせたことを詫びた。
青島は首を振った。
「いや、それはいいんですけど…」
少し考えるように言葉を切った。
室井は青島を見つめながら、言葉の続きを待つ。
何かを言おうとしているようだが、らしくなく飲み込んだ。
代わりとばかりに、ビニール袋を差し出してくる。
「アイス、食べません?」
わざわざ買いに行かせておいて、今はいらないとはとても言えない。
室井は礼を言って袋に手を入れた。
アイスキャンディを取り出すと、有り難く頂く。
青島が自分の分のアイスを取り出すと、本当にアイスしか買って来なかったらしく、袋はもう空である。
その袋をゴミ箱に捨てると、青島はまた考え込むように動きを止めた。
「青島」
声をかけると、室井を振り返る。
「アイス、溶けるぞ」
「ああ…」
手元のアイスを見て、思い出したように口をつける。
そして、室井に視線を寄越した。
「室井さん」
「ん?」
「俺、やっぱり邪魔?」
聞かれている質問の意味が分からず、室井は首を傾げる。
「だから、そのー」
言い辛そうに言葉を探しながら、不安そうな眼差しで室井を見た。
「夏休み中、俺がここにいたら、邪魔ですよね?その、彼女とかいるんなら」
言われて、室井は目を剥いた。
そしてようやく気付く。
青島は先ほど室井が一倉に叫んだ台詞を聞いて、室井に恋人がいるのだと勘違いしているのだ。
「俺いたら部屋に呼べないし、デートもできないっすもんねっ」
すみませんっと笑いながら頭を下げた青島に、室井は慌てて首を振った。
「違うっ」
「え…?」
きょとんとしている青島に、室井は言いかけた言葉を飲んだ。
青島は誤解している。
全くの誤解だが、もしかしたらこのまま誤解していてもらった方がいいのかもしれない。
室井に恋人がいると思えば、青島はきっと気を遣って自宅に帰ってくれるだろう。
それなら青島を傷付けることも青島に嫌われることもなく、離れられる。
室井にとっては、願ったり叶ったりだ。
そうは思うのに、眉間に皺を寄せた室井の口から出たのは、思惑とは全く違う言葉だった。
「そんなものはいない」
青島は瞬きを繰り返し、室井を凝視している。
「え?あ、でも…」
「そんなものがいるなら、君を一月も泊めないだろ」
「それはそうっすけど……室井さん、優しいし」
青島にそう言われるたびに、後ろめたくなる。
「俺は別に優しくない」
「優しいっすよ」
「気のせいだ」
不意に青島が笑った。
室井の回答が可笑しかったのか、腹を抱えてと笑っている。
何が可笑しかったのか分からない室井は、仏頂面で青島の笑いが収まるのを待った。
ひとしきり笑い終えると、青島は目を細めて微笑んだ。
「優しいっすよ、少なくとも、俺には優しい」
それは青島が特別だからだ。
そう思ったが、言えるわけもない。
今言える言葉はこれしかなかった。
「とにかく、恋人なんかいない」
釘をさしたら、青島はニッコリ笑った。
「…そうっすか」
青島は室井の言葉をあまり疑わない。
室井が嘘のつけない性格だということもあるが、それ以前にそれだけの信頼関係があった。
だから、青島は「室井には恋人がいない」という事実を信じたのだ。
もう疑ってはいないはずだ。
「うわっ、溶けてきたっ」
そう言って、青島は溶け出したアイスを舐める。
腕に伝ったソレを舌で舐めとる姿を見て、速やかに視線を反らした室井は早速後悔していた。
―俺は何がしたいんだ!
青島を遠ざけて、気持ちに整理をつけたかったはずだ。
夏休みを利用した青島の強襲にあい、それができずに困っていたのではないのか。
青島自ら出て行ってくれるはずのチャンスを逃し、性懲りもなくホッとする始末。
自分の未練たらしさに気付いて、室井は愕然としていた。
そして更に怖いことに気付く。
―俺には青島を忘れることなど、不可能なんじゃないだろうか。
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