捜査一課の自分の席に座ったまま、室井は痛む額を押さえていた。
正確には額が痛いのではなくて、頭が痛いのだ。
部下からの報告書を眺めてはいたが、頭にはちっとも入ってこない。
頭の中では、ずっと同じことがグルグルしている。
―なんだって、こんなことに…。
室井が頭を悩ませるのも当然だが、悩んだところで答えなど出るわけもない。
一晩寝て起きたら、青島が女性になってしまった理由など―。
***
「君は誰だ」
眉間に皺を寄せて尋ねたら、室井の隣で寝ていたらしい女が、酷く驚いた顔をした。
驚いたのはこちらの方だ、と思う。
ここは青島の部屋で、夕べ遅くに訪れた室井は、青島と抱き合うようにして眠ったはずだった。
ところが目を覚ましたら、隣で眠っていたはずの青島はどこにもおらず、代わりに見知らぬ女がいた。
これで驚かないはずもない。
「君は何故ここにいる。青島はどうしたんだ…?」
青島の部屋にいて、青島のベッドで寝ていた女性。
実際に隣に眠っていたのは室井だったわけだが、青島の部屋に―くどいがベッドに、見知らぬ女がいたのだから、室井にとっては一大事だ。
そんなことをする女性がいることなど、室井は知りもしなかったのだ。
考えたくもないことが、一瞬頭を過ぎる。
―まさか、浮気相手では…。
それにしたって、不自然極まりない状況である。
夕べ青島は確かに一人で寝ていたし、青島の代わりに彼女が室井と添い寝をしていた意味も分からない。
誰が恋人が寝ている横に、自分の浮気相手を寝かせるというのか。
有り得ないことではあったが、室井がそう心配になるのも無理はなかった。
「室井さん…っ」
不意に彼女が室井にしがみ付こうとするから、慌てて身体を引く。
それにショックを受けたようで、彼女は一瞬言葉を飲み込んだ。
「室井さん、俺ですよ」
「誰だ?」
「俺です。青島です」
室井は訝しげに眉を顰める。
からかわれているのだろうかと思いつつ、そういえば青島には姉がいたはずだと思い出す。
そう思ったら、彼女は青島と似ていないこともなかった。
髪はショートカットで肌の色も浅黒く、黒目がちな大きな瞳、そして厚みのある唇。
青島に似ているかもしれないと思って見ると、途端に魅力的な女性に見えてくるから不思議だ。
だが、もちろん目の前の女は青島本人ではない。
そもそも青島の姉だったとしても不自然なことには、一向に変わりが無かった。
何がどうなっているのか分からず問い質そうとした室井に、彼女がまた手を伸ばしてくる。
今度は強く腕を掴まれた。
細い指だが、力は意外と強い。
「室井さん、俺ですってばっ」
自分のことを俺という女性も珍しい…などと、どうでも良いことが頭を過ぎる。
室井はまだ混乱の中だ―彼女も混乱の中にあったのだが、この時の室井はまだ気付いていない。
「俺ですよ!青島俊作ですっ」
しがみつかれた手を振り払うこともできずに、室井は目を瞬かせて、彼女を、青島だと言い張る女性を見つめた。
穴が開く程見つめて、眉間に深い溝を作る。
「何の冗談だ」
「冗談じゃないんですってばっ」
「君が青島俊作のわけがないだろう」
室井にしてみれば、バカバカしくも至極当然の指摘だった。
どことなく似た雰囲気はあるが、根本的な部分が大きく違っている。
「青島は男だぞ、君は女性じゃないか」
ふざけるなという気持ちもあって、口調が些かキツクなる。
そのせいか、彼女の大きな瞳が緩くなり、室井は焦った。
女性の涙にはあまり免疫がないのだ。
どうしたら良いのか分からなくなる。
緩んだ大きな瞳に見上げられて硬直する室井に、彼女は震える唇で言った。
「やっぱり、そう見えるんですね…?」
「え?」
「俺、やっぱり、女に見えるんですよね?」
変な確認だと思いつつ、室井は素直に頷く。
その途端、彼女は頭を掻き毟って蹲った。
「あーーーもうっ、やっぱりそうなんだっ!なんでだよ、もう!」
ガバリと顔を上げた彼女は半ベソで、ぎょっとしている室井に詰め寄ってきた。
「どうしょう!室井さん!」
むしろ、室井の方が「どうしよう」だ。
激しく動揺している彼女の肩を掴んで落ち着かせようとする室井も、未だ混乱の真っ只中にいた。
「ちょっと待て、君は一体」
「だーかーら、青島だって言ってるでしょっ!アンタの恋人の青島俊作っ。夕べアンタが抱きしめて寝た男ですよっ」
「だから、君は女だろ!青島のわけがない!」
「じゃあ、なんで俺がこのベッドで寝てると思ってんの!俺の部屋で!俺のベッドで!室井慎次と!」
「それは…」
「それとも、アンタ、俺のベッドで浮気でもする気ですか!?」
室井は顔を顰めて「そんなわけがあるか」と怒鳴り返そうかと思ったが、論点がズレてきていることに気が付いた。
そもそも何故室井が責められているのか。
室井は一つ深呼吸をした。
こういう時はまず落ち着かなければならない。
彼女と一緒になって怒鳴り合っていても、解決しないのだ。
「まずは、こうなった理由を、ちゃんと説明してくれ」
彼女は室井をじっと見つめて、鼻を一つ啜ると、ふて腐れた顔で頷いた。
その表情が誰かさんと酷似していて、室井は愕然とする。
そんなことには気付かずに、彼女は話し始めた。
「聞いたって信じられないと思いますけどね」
そう前置きしてから、話し出した彼女―青島の説明は、確かに聞いてもすぐに信じられるものではなかった。
要約すれば、「寝て起きてみたら、女になっていた」だ。
この青島の説明には、夕べの状況や二人が交わした会話、それから怪しげな夢に出てきたと言って一倉の名前も上がった。
だからと言って俄かにはやはり信じ難い。
有り得ないことだからだ。
かと言って、正直に言えば、騙されているような気もしていなかった。
第一、そんな嘘をついて室井を騙す理由が、青島にも他の誰にもないはずなのだ。
そんなことをするのは無意味だと言える。
では、この女性が青島だと信じられるのかと言えば、やはり「有り得ない」ことなのだ。
「嘘じゃないんです、本当に俺が青島俊作なんだ」
眉間に目一杯皺を寄せ苦悩する室井を見て、いじけたように唇を尖らせるその顔には、見覚えがあった。
「……これに名前を書いてみてくれないか」
室井が差し出したのは、サイドテーブルにあったメモ用紙とボールペン。
それこそ動かぬ証拠には、全くならない。
それでも、癖の強い青島の筆跡を、見間違えないくらいの自信はあった。
室井が差し出したメモ用紙に無言で書かれた『青島俊作』の文字。
信じる材料の一つにはなるはずだと思ったのだが、室井はその文字を見て、改めて愕然とする思いで青島を見つめた。
「本当に青島なのか…」
青島は泣きそうな顔で、それでもホッとしたように笑みを浮かべた。
「嫌な分かり方だなぁ」
***
それからも慌ただしかった。
混乱したままではあったが、やらなければならないことはあったのだ。
とりあえず、青島に自宅から出ないようにキツク言って、室井は出勤した。
朝一で袴田に連絡を入れて、暫く青島を本庁で借りると一方的に通達をし、青島が欠勤にならないように手配をした。
職権乱用も甚だしい。
室井自身好かないやり方ではあるが、致し方なかった。
青島だってあの姿で湾岸署に行くわけにもいかないろうし、行ったところで信じてはもらえないだろう。
だが、これもとりあえずの処置だ。
いくら室井がキャリアとはいえ、いつまでも青島の存在を曖昧にしてはおけない。
何よりあの姿のままでは青島はもちろん室井だって困る。
―なんとか、元に戻す方法を考えなければ…。
室井はとうとう書類を放り出すと、頭を抱えた。
元に戻す方法など、どうやって見付けたら良いのか。
青島が女性になってしまった理由すら分からない。
分からないことだらけである。
―どうしてこんなことに。
今朝から何度も思った疑問がまた頭に沸く。
もちろん答えなど出はしない。
「どうかしたのか?」
声をかけられてゆっくりと顔を上げると、白雪姫が好きらしい男―青島談、が室井を見下ろしていた。
「そんなにデキの悪い報告書でも届いたか?」
室井が放り出した報告書を覗き込みながら、一倉は首を傾げる。
「特に問題はなさそうだけどな……て、なんだよ」
再び室井を見た一倉が、怪訝そうな表情を浮かべた。
おそらく室井が睨み付けていたせいだろう。
無意識だったから、室井は慌てて視線を逸らした。
「なんでもない」
青島から聞いた夢の話を思い出したのだが、一倉が関係しているとはとても思えなかった。
いくら一倉でも、さすがに青島を女性にしてしまうような有り得ない力を持っているわけがない。
あってたまるかとも思う。
あったとしたら、一倉はいよいよもって人外である。
友人として疑わしいと感じる時がないわけではないが、友人だからこそ一応は彼も人の子であると信じている。
いや、信じたい。
「お前、なんか失礼なこと考えてないか?」
一倉が顰め面で聞いてくる。
無表情の下で考えていたことを感じ取ったらしい。
勘の良い男である。
室井は無表情のまま、首を横に振った。
「いや、なんでもない」
「なんかあったんなら、相談に乗るぜ?」
いや結構、と言いかけて、少し考える。
今回の不可解な事件は、一人で解決できるのだろうか。
捜査とは違うのだ。
勝手が分からないどころか、既に常識の範疇から外れている。
手を貸して貰えるなら、相談するべきかもしれない。
が、相手は一倉だ。
どうしても、なんとなく、言いたくない。
青島が女性になってしまったのだと言ったら、絶対に会わせろと言うに決まっている。
青島を見世物みたいにするのは、絶対にイヤだ。
青島が奇異の目で見られるのも、好奇の目で見られるのも、もっと言えば好色な目で見られるのもイヤだった。
そしたら、一倉には見せたくないに決まっている。
室井は内心で深い溜息をつきながら、もう一度繰り返した。
「なんでもない」
今日ばかりは本庁を定時に出ると、室井は真っ直ぐ青島の自宅に向かった。
今の青島を放っておくわけにはいかない。
部屋にいるのは分かっていたが、合い鍵を使って部屋に入る。
物音で気付いたのか、青島がひょっこりと顔を出した。
「おかえんなさい、室井さん」
「…ただいま」
「暇だから飯作って待ってましたよ」
笑いながら言う青島は、朝とは違って随分落ち着いていた。
普段通りの青島だと言えた。
彼女を青島だと認めてしまえば、雰囲気は青島そのままである。
仕種も笑い方も話し方も、見慣れた青島のモノだった。
凝視していた室井に、青島は苦笑した。
「とりあえず、上がってください」
「あ、ああ」
靴を脱いで部屋に入り、明るいところで青島を見て、室井は顔を強張らせた。
視線どころか、顔ごと背ける。
「室井さん?」
青島だけど青島じゃない細い声。
室井は改めて今の青島が女性なのだと思い知らされた気がした。
顔が熱くなるのを感じながら、室井は馬鹿馬鹿しくも本人は至って真剣に、かなりの勇気を出して言った。
「青島」
「はい?」
「服を、トレーナーか何かを着てくれないか」
「へ?」
「その…す、透けてる……形が」
青島が着ていたのは薄手のシャツだけで、胸の形が透けて見えていたのだ。
室井も男だから興味がないとは言わない。
恋人の身体と思えば問題ないのだろうが、室井の愛してやまない恋人の身体にはないはずの柔らかい膨らみだった。
気恥ずかしさもあったが、室井はひたすら困っていた。
色々と微妙過ぎて胸中は複雑なのだ。
青島は自分の身体を見下ろしてから、室井を見てニヤリと笑った。
「室井さんのえっちぃ」
「……」
眉間に皺を寄せると、青島は今度は破顔した。
「冗談っすよ、じょーだん」
「いいから、なんか着てくれ」
「ははっ…了解」
室井が溜息混じりにお願いすると、青島はその辺に置いてあったパーカーを上から羽織った。
身体の線はきれいに隠れる。
あからさまにホッと力を抜いた室井に、青島は苦笑した。
「とりあえず、飯食いましょうよ」
青島が作ってくれた料理を食べながら、向かいに座る青島を盗み見る。
胡座を掻き、大きな口を開けてご飯をかきこむ姿は、どこからどう見てもちょっとボーイッシュな女性である。
だが、これが青島俊作なのだ。
意識せずに眉間に皺が寄る。
室井の視線に気付いた青島が、苦笑した。
「まだ信じてないんすか?」
「…いや、そんなことはない」
室井は緩く首を振る。
信じ難いことには変わりないが、今はもう彼女が青島なのだと理解している。
骨格が細くなり背は室井よりも更に低くくなったが、それでも顔に青島の面影はちゃんとあるし、何より仕種や話し方はそのままだった。
「困ったことはないか?」
尋ねると、青島は肩を竦めた。
「特に変わらないっすね」
「そんなもんか?」
室井は些か拍子抜けする。
起きた瞬間こそ取り乱していたものの、現状を理解したのか最早慣れたのか、はたまた単に図太いだけなのか、青島はすっかり平然としている。
取り乱されても解決策が見当たらない以上、室井だって困るが、普段通りにされるとそれはそれで複雑だった。
「あ、着るもんは困りますねぇ」
ジーンズが重くて、と苦笑する。
確かに今の青島の細い腰では、メンズのジーンズは大きいし重いはずだ。
今はダボダボのジーンズの裾を折って履いている。
女性モノの衣類を用意する必要があるだろう。
「あ、そうだ。すみれさんに事情を話して、服を用意してもらえるように頼んでもらえません?」
青島の提案に、室井は目を丸くした。
「恩田君に話してしまって良いのか?」
「まぁ、背に腹は変えられないし、今すぐ元に戻れる気もしないし」
肩を竦める青島に、室井は小さく溜息をついた。
「君は本当に順応性があるな…」
「いや、俺もこのまんまじゃ困りますけどね」
苦笑しながら言って、ふっと真顔になった。
青島は少し顎を引いて室井を見る。
顎を引いたせいで自然と上目使いになり、こんな仕種でも青島なんだと実感した。
「…気持ち悪い?」
いくらか不安そうに聞かれて、室井は眉を寄せる。
今の青島がという意味か、それとも青島の有り得ない変化がという意味か。
どちらにせよ、バカバカしい質問だった。
室井は箸を置いて、青島に顔を出せと手招きする。
素直に少し身を乗り出して来た青島の額に、遠慮なくデコピンをかました。
「あた」
「ばかなこと聞くな」
「ばかなこと、すか?」
「ああ」
むっつりと頷いたら、青島はそれは嬉しそうに笑った。
「へへっ…すみません」
一瞬、慣れ親しんだ青島が見えた気がした。
瞬きしてみると、やはり目の前にいるのは、室井よりも小柄な女性一人だけ。
「室井さん?」
凝視していた室井に、青島は首を傾げる。
室井は首を振って再び箸を手に取った。
「元に戻る方法を、なんとか探そう」
青島は少し困った顔で頷いただけだった。
青島だって不安なはずなのだ。
突然の身体の異変、有り得ない異変に不安にならないほうがおかしい。
―青島を助けてやらないと。
なんとしてでも、青島を元の姿に戻さなくてはならない。
これだけの異常事態である。
室井と青島の二人だけで解決できるとは思えない。
考えるにしても調べるにしても何をするにしても、協力者は多い方が良いに決まっている。
手段を選んではいられないのだと、室井は改めて思った。
―協力してくれる人を探そう…。
その考えをそれほど経たずに後悔することは、言うまでもない。
NEXT