原因はもうなんだったか覚えていない。
だけど、青島と最後に交わした会話は良く覚えていた。
「もう、知るかっ」
「勝手にしろっ」
互いにそっぽを向き、青島はそのまま室井の部屋を出て行った。
理由は忘れてしまうくらい些細なこと。
ケンカ別れしたのは、ただの意地の張り合いだった。
だけど、そのことが二人に大きな溝を作った。
室井がそのことに気付いたのは、それから三日後だった。
***
被疑者に頭を殴られて青島が入院したと連絡を受けた室井は、慌てて病院に向かった。
病室の前にはすみれが立っていて、室井を待っていてくれたようだった。
「室井さん、忙しいのにごめんなさい」
「そんなことより青島は」
肩で息をしている室井に、すみれは苦笑を浮かべる。
「頭のたんこぶ以外は外傷はなし。一応精密検査したけど、多分大丈夫だろうって」
医者の話しを教えてくれる。
どうやら酷い怪我ではないようで、室井は漸く肩の力を抜く。
「そうか…」
「起きてピンピンしてるけど、会っていってあげてください」
すみれは青島と室井の関係を知っている数少ない人間の一人だ。
きっと青島のために室井を呼んでくれたのだろう。
酷い怪我ではなくても、呼んでくれたことはすみれに感謝していた。
頷いて病室のドアを開けると、頭に包帯を巻いた青島がベッドに座っていた。
酷い怪我ではなくても、痛々しい恋人の姿に室井は思わず眉を顰める。
青島は室井を見ると、酷く驚いた顔をした。
「室井さん!?」
あんまりビックリするものだから、室井は怪訝そうに首を傾げた。
室井が見舞に来ることはそんなに驚くことだろうか。
確かにケンカ別れした後ではあるが、シリアスなケンカではなかった。
むしろ今回のことをきっかけに仲直りできるくらいの小さなケンカだったはずだった。
青島が入院などすれば、確実に室井が見舞に来ることは想像できたはずである。
目を丸くしている青島に、室井は少し違和感を感じた。
室井に遅れて入って来たすみれに、青島は呆れた声を出す。
「わざわざ室井さんまで呼んだの?」
「室井さんまでって…当然でしょ?」
「室井さんも忙しいんだから、こんなことで一々呼び出してたら悪いでしょ」
室井は眉を寄せ、すみれは首を傾げる。
恋人である室井が青島の見舞に来ることは、そんなに不自然なことだろうか。
たいした怪我ではなくても、精密検査をする程度には心配な怪我である。
室井が心配になるのも、病院に会いに来るのも、当然である気がする。
もしかしたらそんなにこの間のケンカを根に持っているのだろうかと思った。
青島はすみれから室井に視線を戻すと、微笑みを浮かべる。
「どうもすみませんでした」
その顔を見る分には怒っている雰囲気は全くない。
青島は器用だが、ああいうケンカの後は演技などしない。
気が済むまで膨れているか、早々に謝りに来るかのどちらかだ。
と、すれば、いつの間にか機嫌がなおっていたということだろうか。
室井は腑に落ちない顔のままベッドサイドに歩み寄った。
ケンカの行方よりも、まずは青島のことだ。
「具合は?」
短く尋ねると、青島は笑いながら頭に触れた。
「見た目大袈裟ですけど、怪我自体はたいしたことないんです」
「…そうか。それなら良かった」
「検査の結果が出たら、すぐに退院できるだろうって」
「何事もなければ、ね」
横からすみれが突っ込みをいれると、青島は苦笑した。
「大丈夫だよ」
「分かんないわよ?頭が悪すぎるって結果が出ないとも限らないでしょ」
「すみれさん」
青島が睨むと、すみれは舌を出して悪びれる。
相変わらずな二人に、室井はひっそりと溜息を吐いた。
「じゃあ、後頼みますね」
すみれが室井に言うと、青島はぎょっとした。
「ちょ、ちょっとすみれさんっ」
「なによ?」
「仮にも上司なんだから、そんな言い草ないでしょ」
「そりゃあ、上司だけど…」
すみれは少し戸惑ったように青島と室井を見比べた。
いつになく他人行儀な青島の発言が気になったのだろう。
それは室井も一緒だった。
「あ、すいません、室井さん。わざわざ来てもらっちゃって…この通り元気ですから」
ニコリと微笑まれて、困惑する。
これはやんわりと、もう帰っていいと言われているのだ。
すみれも何か青島の不自然さに気が付いたらしく、室井を肘で突いた。
「あなたたち、ケンカでもしてるの?」
小さな声で尋ねられるが、室井は答えられない。
確かにケンカはしているが、それが理由なのか室井には分からなかった。
少なくても今までに、青島の怒りが他人行儀な応対になって返ってきたことはなかった。
怒りはストレートにぶつけてくることが多い。
グッと我慢をしていることもあるが、室井を拒むような形で発露させることはなかった。
困惑している室井に、青島は首を傾げた。
「室井さんとケンカなんかするわけないでしょ」
何故すみれがそんなことを聞いたのか分からないという顔だ。
だけどすぐに思い出したように言った。
「事件が絡んだ時は別だけど、あれは個人のケンカじゃないし。現場と本庁のことだもん」
室井さん自身に文句があるわけじゃ…とぶつぶつ零す青島に、すみれと室井は顔を見合わせた。
すみれが「ケンカ」と言ったのは、もちろん警察官の二人にとってのケンカの話ではない。
痴話喧嘩でもしてるんじゃないのかという突っ込みだった。
いつもの青島なら、そのニュアンスに気付かないわけがない。
「青島君、何言ってるの?」
「何が?」
「惚けてんの?それとも本当にボケちゃったの?」
「な、なにさ、突然」
失敬な、と呟く青島を見る限り、惚けているわけではなさそうだ。
すみれは訝しげな顔で、青島と室井を交互に見た。
「だって、あんたたち…」
言いかけたすみれを、室井は片手で制す。
「青島」
「はい?」
「俺たちの関係は?」
質問の意味が分からないというふうに、青島は首を傾げる。
心の底から、何ともいえない不安が沸き上がる。
室井はできる限りそれを押し込めて、静かな声で繰り返した。
「君と、俺の、関係は?」
「関係って言われても…」
困惑した表情のまま続けた。
「部下と上司…ですよねぇ?」
室井の表情を伺うような青島に、室井は絶句した。
変わりにすみれが慌てたように突っ込む。
「何言ってんの?青島君」
「何って…すみれさんこそ、何言ってんのさ。室井さん、上司でしょ、俺らの。そりゃあ、大分上の上司で、直属っていうんじゃないけどさ」
「そういう意味じゃないってばっ。本当にボケちゃったの!?」
怒鳴られて、青島は目を丸くした。
「な、何。さっきから…俺、変なこと言ってる?」
「変なって…」
不安そうな青島が嘘を吐いているようには見えず、すみれも言葉を飲み込んだ。
室井の強張った顔は、ピクリとも動かない。
これは遠回りな拒絶ではない。
心配して病院にやってきた室井に対して、そんな悪質な嘘を吐く青島ではない。
ということは。
―俺とのことだけ、忘れてる?
室井は愕然とした。
室井自身のことや、すみれのこと。
湾岸署や自分が警察官であること。
皆ちゃんと覚えているようだが、室井とのことだけするっと記憶から抜け落ちているのだ。
いきなり室井もすみれも沈黙してしまい、青島は二人を見比べた。
「え、と、俺、何か、変?」
酷く落ち着かないようで、視線を忙しなく泳がせている。
頭を殴られて精密検査までしているから、訳が分からない室井とすみれの応対が不安で堪らないのだろう。
室井はハッとすると、首を振った。
「いや…何でもない」
「室井さん!?」
驚いて声をあげたすみれに、少し強い眼差しをむける。
―何も言わないでくれ。
室井の気持ちを察してくれたのか、すみれはとりあえず押し黙った。
だが、顔に不満だと書いてある。
ちゃんと話すべきだと思っているのだろう。
室井は少し目を伏せると、すぐに真っ直ぐ青島を見た。
「元気そうで、安心した」
「あ、はい、ありがとうございます」
条件反射のように笑顔が返ってくる。
いつだって、誰にだって、向けられる笑顔。
室井が良く知る笑顔と、少しだけ違って見えた。
「……じゃあ、俺はこれで」
「わざわざすみませんでした」
ぺこりと頭を下げた青島に、室井も軽く返して、踵を返した。
その後をすみれがついて出て来たが、室井は足を止めなかった。
「ちょっと、室井さん」
咎めるような声に振り返ることはせずに、返事をする。
「頼みがある」
「…黙ってろって言うんでしょ」
やっぱり不満そうな声に、室井は頷いた。
「頼む」
室井と交際していた事実だけ、青島の記憶から消えてしまった。
だとしたら、その事実を青島に教えない方がいい。
そもそも教えたところで、理解できるとは思えなかった。
青島は―室井もそうだが、ゲイだったわけではない。
いきなり室井という「男の恋人」がいたと聞かされても、今の青島にとっては青天の霹靂である。
青島を混乱させるだけで、良い方向に進むとは思えない。
以前のように、室井を受け入れてもらえるとは思えなかった。
「混乱、させたくないんだ」
室井が静かに言うと、すみれは唇を噛んだ。
「室井さんの気持ち、分からなくも無いけど…このままでいる気ですか?」
すみれの胸中も複雑なようだ。
室井の心中を思っているから責めるほど強気になれず、だからといって「黙っている」ということが良い手段だとは思えずにいる。
室井は足を止めると、後をついてきていたすみれを振り返った。
「今は、記憶が飛んでいるだけかもしれない。落ち着いたら、思い出すかもしれない」
頭を強打すると、記憶が混乱することがあると聞く。
時間が経てば戻ることもあるようだった。
室井はそれを覚えていたから口にしたが、それを期待しているわけではなかった。
今話した青島は、ちゃんと意識ははっきりしていた。
分からなかったのは、室井とのことだけである。
「少し、待ってみたい」
待ってどうにかなるとは思わなかったが、それは口にしなかった。
すみれは少し考え込んで、頷いた。
「そうね。その方がいいかもしれないわね」
「…ありがとう」
小さく頭を下げて、室井はすみれに背を向ける。
すみれももう、追いかけてはこなかった。
病室に戻ったのだろう。
今の青島のことは、すみれに任せておけば心配はないだろう。
彼女のことだから、青島のことを放ってはおけない。
きっと文句を言いながら、助けになってくれるはずだ。
―本当は俺が力になってやりたいが…。
今の室井にその権利はない。
室井は病院を出たところで、足を止めた。
立ち止まって、振り返る。
―何故。
―俺とのことだけ。
どこか、呆然と思う。
未だに信じきれていないのだ。
青島が室井と付き合っていたことだけを忘れてしまったなんて。
青島だってきっと、忘れたくて忘れたわけではない。
そんな器用な真似ができるわけもない。
人の記憶なんて、自分の意思でどうにかできるものではないはずだ。
『もう知るかっ』
『勝手にしろっ』
室井は思わず唇を噛む。
ケンカ別れした時の、最後の捨て台詞が頭に浮かぶ。
まさかそんなものが、作用したわけがない。
するわけがない。
それになにより。
青島が、室井のことを、忘れたがるわけがない。
自惚れでもなんでもなく、青島の気持ちは確かに室井にあったと確信している。
あんな小さなケンカで揺らぐような、そんな緩い繋がりではなかった。
室井はそう信じている。
だけど、青島は室井とのことを忘れてしまった。
共に過ごした日々も。
重ねた心も身体も。
あの日のケンカすらも。
覚えていないのだ。
青島の記憶には、何一つ無い―。
「っ」
握り締めた手が震える。
混乱していた頭が、漸く事実を理解した。
理解したら、堪らなくなった。
怒りとも悲しみともつかない感情が、込上げる。
青島が悪いわけじゃない。
だけど、どうすることもできない現実が、そこにある。
室井にも、青島にも、どうすることもできない。
暗い眼差しで、室井はそこに立ち尽くした。
―青島の中に、恋人の俺は存在しない。
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