「ただいま〜」
青島は意味なく挨拶をしながら、自宅のドアを開けた。
当然返事は無い。
靴を適当に脱いで、部屋に上がる。
見慣れた部屋だが違和感を感じるのは、数日留守にしていたからか。
退院後、青島は真っ直ぐ帰宅した。
一人暮しの青島だから、迎えに来てくれる人もいない。
コートを脱いでソファーに放る。
スーツの上着も同様にし、ネクタイも外してしまうと、ソファーに身を投げた。
「はぁ……やっぱり家が1番だなぁ……」
旅行から帰ってきたわけじゃないが、思わず呟いた。
入院中は寝てばかりいたから楽だったとも言えるが、やはり家の方が落ち着くに決まっている。
青島はコートのポケットを漁り、煙草を取り出した。
思い出したように立ち上がり、台所に向かう。
コーヒーでも淹れようと思ったのだ。
半分くらいしか活用していない食器棚を開けると、マグカップを取ろうとして手を止める。
何か違和感を感じた。
別におかしなことは何もない。
青島が普段使用している食器しか入っていない。
マグカップや湯飲み、お茶碗やお皿など、必要最小限の食器が納まっている。
どの食器もニ客ずつしかない。
青島は首を傾げた。
「何で二客ずつ買ったんだっけ…?」
青島が食器を買ったのはもう随分昔で、今更改めて考えるようなことではない。
「彼女いた時に買ったんだっけ?あれ?」
随分前だということは覚えていたが、いつ買ったものかすら正確に思い出せ無い。
青島はしばらく手の中のマグカップを見つめて、「まぁ、いいか…」と、呟く。
来客用に買ったのだろうと適当に納得すると、食器棚の戸を閉めた。
ソファーに座りコーヒーを飲みながら一服していると、携帯電話が鳴った。
慌ててスーツのポケットを探ると、通話を押す前にディスプレイを確認する。
すみれからだった。
事件かなぁと思いながら、通話ボタンを押した。
「はい」
『青島君?すみれだけど』
「お疲れ様、どうしたの?」
同僚から電話がくると、何かあったのだろうかと思ってしまうのは癖だった。
『退院、今日だったんでしょ?』
「あ、うん。さっき帰ってきたとこ」
『そう……今、一人?一人で帰って来たの?』
すみれの質問に、青島は首を傾げる。
「うん、一人だよ〜」
『…そ』
「迎えに来てくれるような人いないの、すみれさんも知ってるじゃない」
寂しくなること聞かないでよ、と冗談でなじると、電話の向こうが少し沈黙する。
『青島君』
「何?」
『今、寂しい?』
続く不思議な質問に眉を寄せる。
冗談を真に受けたのか、恋人のいない青島を憐れんでいるのか。
質問の意図が分からないまま、青島は苦笑した。
「そんなことないよ。仕事楽しいし……今はそんな気にならないし」
女の子はもちろん好きだが、今は特に恋人が欲しいわけではなかった。
そんな暇もないし、好きな人がいるわけでもない。
むしろ仕事に夢中で、それどころじゃないとも言えた。
『…そっか』
「そうだよ。て、突然なにさ」
『んーん。別に、何でもないの。ただ一人身の青島君が寂しい思いしてるんじゃないかな〜て思って、電話してあげただけ』
電話の向こうですみれが舌を出しているのが見える気がして、青島は苦笑した。
「はいはい、そりゃどうも〜」
そのまま少し雑談をして、電話を切った。
青島は手の中の携帯電話を眺めながら、ちょっと首を傾げる。
結局すみれが何で電話をかけてきたのか、良く分からなかった。
青島を心配してなのは確かだろう。
「ま、いいか」
すみれの親切に素直に感謝することにして、青島は考えるのをやめた。
携帯電話をソファーに放り出して、立ち上がる。
「風呂でも入って、さっぱりしようかな」
風呂場に消えた青島は、不思議に思ったすみれの真意も二客ある食器のことも、すぐに忘れてしまった。
駅前で酔っ払って暴れていた被疑者を連行してきた青島は、刑事課に戻って目を丸くした。
室井がいる。
室井も青島を見て目を丸くしたが、すぐに顔を顰めた。
「どうしたんだ、一体」
室井がそう言いたくなるのも当然で、青島はあちこちボロボロだった。
スーツは埃塗れで、シャツのボタンはいくつか飛んでいる。
唇の端が青くなり、少し血が滲んでいた。
「いやぁ、こいつが暴れるもんだから…」
今はすっかり大人しくなっている隣の酔っ払いを指差す。
暴れる男を取り押さえようとして揉み合った結果、一発殴られて、公務執行妨害で連行してきたのだ。
「君は病み上がりだというのに……全く」
呆れているのか、眉を寄せる室井に、青島は愛想笑いを浮かべた。
「面目ないです」
言いながら被疑者を魚住に任せる。
魚住も青島と一緒に現場に行っていたのだが、青島ほどの乱れはなく怪我もない。
青島が被疑者を取り押さえるまで右往左往していただけなので、それも当然である。
「ちょっと着替えて来ますから、お願いしますね〜」
署に連行されてすっかり酔いが覚めたのか、被疑者は死んだ魚のように大人しくなっているので、魚住に取調べを任せても大丈夫だろう。
魚住は意を決したように頷いて、被疑者を連れて取調室に入っていった。
「大丈夫〜?」
横からすみれがハンカチを差し出してくれる。
「ありがと」
「高いわよ?」
「やっぱ、いらない」
速攻で手を引くと、すみれは「冗談よ」と苦笑した。
今度こそありがたく受け取る。
「アタタタ……で?室井さんはどうしたんです?」
ハンカチで唇を押さえて顔を顰めながら室井を見ると、代わりに袴田が答えた。
「署長の所にみえてたんだよ。そうだ、青島君、お車お出しして」
「あ、はいはい」
室井の送り迎えは青島の仕事といつの間にか決まっていた。
初めはイヤでイヤで仕方がなかったが、今となってはそんなことはない。
室井は青島にとって尊敬できる、信頼できる上司だ。
だからすぐに了承したのだが、室井の方が首を横に振った。
「いや、今日は本庁の車で来ているから」
「あ…そうっすか」
残念というか肩透かしを食らったような気分で頷くと、室井が視線をくれる。
「…もう、大丈夫みたいだな」
入院していたことを指しているのだろう。
青島は笑いながら頷いた。
「ええ、もう、この通り……って、こんなナリじゃあれですけど」
「それだけ暴れられるなら、大丈夫だろう」
小さく笑みを浮かべた室井に、青島は少し驚いた。
こんなに柔らかい表情をする男だっただろうか。
存外優しい人だということは知っていたが、それを表に出すのが得意ではない人だった。
青島の小さな驚きに気付くこともなく、室井はまた表情を引き締めた。
「だが、充分気をつけるように」
「あ、はい。気をつけます」
慌てて頷いた青島に、室井も小さく頷き返してくれる。
そして、袴田に軽く頭を下げて、去り際にちらりと青島を見た。
「元気そうで、安心した」
それだけ言うと、さっさと刑事課を出て行ってしまった。
心配してくれていたのかなぁと思うと、なんだか嬉しくなる。
何となく笑顔で室井の後姿を見送っていると、ふいにすみれが駆け出した。
「ちょっと、出てくるっ」
「え?あ、ちょ……すみれさぁーん?」
呼びかけたが、すみれは振り返ることなく、走って行ってしまった。
室井の後を追う様に。
青島はやっぱりそれをなんとなく見送った。
「室井さんっ」
湾岸署を出てすぐのところで、すみれに呼び止められる。
室井は素直に足を止めると振り返った。
怖い顔をしたすみれを見て、言われることは大体見当がついた。
「いつまで黙っていればいいんですか?」
室井と青島のことだ。
すみれは室井の気持ちを汲んで黙っていることを了承してくれたのだろうが、何事もなかったように青島と接する室井を見て怒っているのかもしれない。
「とにかく、言わないでくれ」
「このままでいる気?」
キッと睨まれる。
すみれには関係がないと思ったが、青島を心配している彼女にそれを言うのは無神経な気がして口にはしなかった。
代わりに小さく頷く。
「今は、な」
肯定すると、すみれの表情が少し歪んだ。
悲しそうでハッとさせられる。
「室井さんの方が辛いだろうし、室井さん責めるのも間違ってるけど、でも、だけど、」
私は知っているんです、と言って少しだけ唇を噛んだ。
「恩田君…」
「記憶なくす前の青島君がどれだけ…っ」
『室井さんを好きだったか』
すみれは言葉にしなかったが、言いたいことは容易に室井にも伝わる。
青島を近くで見てきた一人として、すみれは納得がいかなかったのだ。
青島がどれだけ室井を想っていたか知っていたから、その青島がどれだけ幸せそうだったか知っていたから。
なかったことにしてしまおうとしている室井が許せなかった。
辛いのは室井の方だと理解してはいるが、そんなに簡単に諦めて欲しくなかったのだ。
だが、室井だってすみれと一緒だ。
室井とのことを忘れてしまう前の青島が、どれだけ自分を想ってくれていたかなど、今更誰かに指摘されるまでもない。
「恩田君」
室井は少しだけ微笑んだ。
「俺は諦めてはない」
「…え?」
「思い出してはもらえないかもしれないが」
眼差しに力が帯びる。
「もう一度、始めることはできるかもしれない」
すみれが息をのんだ。
何もせずに諦める気は毛頭なかった。
今の青島の中に恋人としての自分が存在しないなら。
もう一度、存在を作ればいい。
もう一度、好きになってもらえばいい。
思い出してもらえるならそれに越したことはないけれど、それをただじっと待つなんてできない。
その間に、青島が誰か他の人を愛さないとも限らない。
なら、いっそ、その相手を自分にしてもらえばいい。
記憶を無くす前の青島が、室井を好きになってくれたように。
今の青島ももう一度室井を好きになってくれるかもしれない。
室井はそれに賭けたのだ。
「そうだった…」
すみれが小さく呟く。
目で何が?と尋ねると、すみれは笑みを零した。
「室井さん、諦めの悪い男だったんだ」
嬉しそうに言うから、室井は苦笑した。
「褒め言葉と、とっておく」
「そうしてください」
引き止めてすみませんと頭を下げたすみれは、いつもの冷静な彼女だった。
「きっと、大丈夫です」
室井を軽く見上げて、小さく微笑む。
「青島君なら、きっと何度だって」
貴方に恋をする。
やっぱり言葉にはせずに告げると、すみれはもう一度頭を下げて、踵を返した。
その後姿を見送って、室井も歩き出した。
その表情は少しだけ明るい。
彼女の後押しは、想像以上に心強かった。
青島は、室井にもう一度恋をする。
きっと―。
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