青島は今、自身の人生の中で、最もと言っていいほど悩んでいた。
脱サラして刑事になると決めた時にも、こんなに頭を悩ませ無かった。
いや、あの時は、それほど悩まずに決めたから、参考にはならないが。
―どうしよう…。
目の前にある尾行に使った5万円分の領収書を見ながら、情けない顔をする。
この領収書を全額精算できるかどうかも問題だが、今の青島にとって、そんなことは小さなことだった。
ボールペンを握った手を顎に当て、領収書の上に視線を滑らせる。
だが、視界には入っていなかった。
―どうしよう。室井さんにドキドキする。
青島は領収書を見つめたまま、赤面した。
青島が悩んでいたのは、そんなことだった。
どういうわけだか、今じゃすっかり飲み友達である室井。
その室井に、こともあろうにドキドキするのだ。
緊張感からくるソレなら分からなくもない。
室井はキャリアで、随分上の上司になる。
緊張したっておかしくない。
が、生憎と今更室井に対して―ある意味失礼かもしれないが、緊張などしない。
室井の隣は非常に居心地が良くて、それは申し分なかった。
なかったはずなのに、最近それだけじゃ、すまなくなっている気がするのだ。
―じゃあ、一体どうなっているって言うんだ?
そんなことは、青島にも分からない。
ただ一つだけはっきりしていることと言えば、室井と一緒にいると動悸を感じる時があるということだ。
硬い表情が緩む、一瞬。
思いがけずくれる、柔らかい眼差し。
たまに零れる、優しい本音。
最初は不意をつかれるせいかと思ったが、少しだけ見慣れた室井のぎこちない笑みに心臓が動くのは、どういうわけか。
―まさか…。
青島は顔色を赤から青に変えた。
自分の想像が恐ろしくなって、首をブンブンと振る。
「有り得ない、絶対有り得ないっ」
「何が〜?」
背後から掛けられた声に、青島はピタリと動きを止めた。
振り返るまでもなく、背後のすみれが、椅子ごと隣に移動してきた。
「領収書でも無くした?」
早く精算しないから〜と言いながら、呆れたように領収書を覗き込んでいる。
青島はひっそりと溜息をついた。
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ、どんなよ?」
小首を傾げてじっと見つめてくるすみれに、青島は思わず口を開きかけた。
開きかけて、すぐに閉じる。
―なんて言う気だ?
―室井さんにドキドキするんだけど、何だと思う?ってか。
アホらしい、と青島は苦笑した。
「いや、何でもないよ」
「え〜?何隠してんのよ〜」
言いながら、すみれは青島の領収書の束を漁り始めた。
「私に内緒で美味しいものでも食べたんじゃないでしょうねぇ」
青島は呆れた視線をすみれに向けた。
「これ、捜査に使った領収書だよ?」
「セレブの尾行で高級レストランに行ったとか」
「そんな捜査してんの見たことある?」
「私に隠れてコソコソと行ったんじゃないでしょうねぇ」
そんなことをするくらいなら、面倒くさいからすみれも連れて行くだろう。
呆れ顔の青島をよそに、すみれも本気で言っていたわけじゃなかったのか、領収書から早々に顔を上げた。
「で?有り得ないって何が?」
話が元に戻ってしまった。
青島は肩を竦める。
「だから、何でもないよ」
疑わしげなすみれの視線を適当に笑ってごまかして、青島は再び領収書の精算を始めた。
すみれに相談したい気もしたが、自分の中ですら整理できていない気持ちを、すみれになんと伝えれば良いのか分からなかった。
―室井さんにドキドキするだなんて言ったら、頭打っておかしくなったと思われかねないなぁ。
内心で思って苦笑する。
苦笑して、ハタと思う。
そういえば、青島が頭をぶつけてからだった。
室井との関係が変化したのは。
―やっぱり打ち所悪かった?
一瞬思ったが、それは違う気がする。
だって、変わったのは、どちらかと言えば室井の方だ。
人当たりが良くなったとか愛想が良くなったとか、別人のようになったわけではない。
相変わらず性格は硬いし、言動は不器用だ。
だけど今までよりずっと、近くにいるような気がするのだ。
プライベートな付き合いが増えた分、物理的な距離が縮まるのは当然かもしれないが、それだけじゃない。
もっと内面的な問題だった。
「ま、何か悩んでるんなら、相談乗ってあげるから、話しなさいよね」
ふっと物思いに耽っていた青島に、すみれはそういうと軽く肩を叩いてくれた。
ちょっと驚いたが、すぐに笑って茶化す。
「高いんでしょ?」
すみれは澄ました顔で微笑んだ。
「同僚だもん。安くしとくわよ」
「ランチぐらい?」
「ディナーは譲れないわね」
「なるほど。お安いことで」
青島が苦笑すると、すみれはにっこり笑った。
「でしょ?」
そう言って、足で床を蹴ると、また椅子ごと席に帰っていく。
それを肩越に見送って、青島は小さく笑った。
すみれの気遣いは嬉しかった。
冗談まじりでも心配してくれていることが、青島には充分伝わった。
いずれ、すみれには相談することになるかもしれない。
そう思ったが、それはきっと間違いない。
現に既に一度、青島は同じような相談を、すみれに持ちかけている。
今の青島はそれを覚えていないが―。
全く覚えのない衝動ではない。
だがやはり、そんなことは「有り得ない」はずだった。
青島も室井も男で、室井は青島の信じた男である。
敬愛する気持ちはずっとあったから、青島が室井に好意を持っているのは当然なのだ。
それは当たり前で、今までとなんら変わり無い。
では、何が変わったのか。
やはり変わったのは室井だろうと思う。
室井の変化が、青島にも変化を促しているような気がしてならない。
もちろん室井が青島に押し付けているわけじゃない。
室井と接することで、青島が勝手に変化しているのだ。
どんなふうに変わっているのかと言えば。
『先日はありがとう。カニのお礼がしたいから、うちに飯を食いに来ないか?』
室井から届いたメールに、頭を悩ませる具合だ。
誘いに乗ればいい。
室井からの誘いを嬉しいと思ったのだから、そうすればいいのだ。
だけど、どこか落ち着かない。
楽しみかそうでないかと尋ねられれば、答えは当然「楽しみ」だ。
なのに、何とも言えない不安が胸に沸く。
―行きたい。
―だけど、行っていいんだろうか?
―室井さんが来いって言ってるんだから、いいに決まってる。
―だけど、室井さんは何で俺を誘うんだ?
―カニのお礼。
―なるほど、室井さんらしいな。
―じゃあ、俺は?
―俺は、何で室井さんに、カニを食いに来いと誘った?
―映画のお礼…日頃のお礼…?
―確かにお世話になってるから、当然だ。
―当たり前だよな?
―でも、また、ご馳走になりに行くのか?お礼のお礼?
―室井さんは何で俺を誘うんだ…。
思考がループし始めたことに気が付くと、青島は突然考えることを放棄した。
どんなに考えたって、きっと答えはでない。
こういうことは考えて答えが出るものではないはずだ。
室井の誘いを嬉しいと思った。
楽しみだと思ったのだから、それを素直に受け止めればいいのだ。
『行きます!楽しみです!』
室井に簡単なメールを返すと、青島は晴れ晴れとした顔をした。
青島も男で、室井も男だ。
―どうにかなるはずがない。
青島の中には、そんな気持ちもあった。
物事を深く考えるのが得意ではない青島は、それで割り切ってしまった。
おかげで気分が一気に晴れた。
だけど。
そうではないことに気付かされるまでに、それほど時間は掛からなかった。
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