―結局、二人は何を話していたんだろう。
青島は自分の席に戻りながら思った。
すみれが嘘をついていると思ったわけではない。
嘘をつく理由が見当たらないからだ。
あの二人が青島に隠さなければならないような話をしているとは思えない。
思えないが、何となく腑に落ちない。
からかわれていたとしたら、室井が平然としているのも不自然だった気がする。
不自然と言えば、室井が時折みせる寂しそうな眼差しの理由も、まだ分かっていない。
―俺、なんかしたかなぁ。
思い当たる節はない。
「何、難しい顔してんの?」
すみれに声をかけられる。
「難しい顔、してる?」
「うん。珍しく悩んでるように見えるわよ」
大分失礼な言い草に、青島は唇を尖らせる。
「俺だってたまには悩むよ」
「こりゃ、失敬」
悪びれて舌を出すと、すみれは和久の席に腰を下ろした。
「で?何悩んでんのよ」
改まって聞かれても、青島も困ってしまう。
室井さんが何か隠してるみたいなの、だなんて女々しすぎてさすがに相談できない。
「べつに…」
「今、悩んでるって言ったばかりじゃない」
「いや、悩んでるとは言ってないよ」
確かに悩むこともあると言っただけだが、苦しい言い訳かもしれない。
青島は机に頬杖をついた。
誰にだって秘密くらいある。
人に言えないこと、言いたくないことがあって当然だ。
それは分かっているが、恋人の秘密が気にならないわけもない。
―室井さんが寂しいのは、きっと俺のせいじゃない。
―傍にいるのに、あんな顔をする理由が無い。
―俺を通して、誰かを見てる?
―昔の恋人…
―忘れられない人とか?
胃の辺りに重たいモノを感じ、眉を寄せる。
「傍にいると、似てくんのかしら?」
すみれの軽い笑い声が響く。
「え?」
「溝、出来てるわよ」
ココと言って、すみれは細い指を自分の眉間に押し当ててみせた。
室井と同じように眉間に皺が寄っていると言われているのだ。
青島は眉間を指先で伸ばしながら、何となく思った。
―すみれさんとも、結構仲良いよなぁ…。
一瞬だけ考えて、ハッとする。
酷くバカなことを考えた。
室井にも、きっとすみれにも失礼なことだった。
―女々しすぎるぞ、俺。
青島は両手で自分のホッペタを叩いた。
「ちょっと、何よ突然」
「ん、何でもないよ。さて、仕事仕事」
目を丸くしているすみれに笑いながら首を振ると、引き出しから書きかけの報告書を取り出した。
愚にも付かないことを考えてしまうのは、心が弱っている証拠。
いつの間にか、不安な気持ちが成長してしまっていたようだ。
これを解消してくれるのは、室井しかいない。
―室井さんと、ちゃんと話をしよう。
そう心を決めた青島は、一週間も放置してあった報告書を10分で書き上げた。
***
室井の自宅まで行ったら部屋の明かりが点いていたので、青島はホッとした。
本庁へ向う車の中で話すような内容でもなかったので、その日の夜のうちに押しかけてみたのだ。
一度心を決めてしまうと、行動は早かった。
一つ深呼吸をして、インターホンを鳴らす。
『…はい』
聞き慣れた室井の声に、少しだけ緊張する。
「夜分にすいませ〜ん。青島です〜」
『あ?青島?何だ、どうし…あ、いや、ちょっと待て、今開ける』
ガチャリとインターホンが切れたから、室井の慌てっぷりが伺える。
いきなり来たのはまずかったかなぁと思いながら待っていると、ドアが開いた。
室井は驚いた顔をしていたが、すぐに小さな笑みを零した。
大きな表情の変化ではない。
いつも難しい顔をしている男の硬い表情が、少し緩んだだけだ。
その柔らかい表情は、青島以外には向けられることは滅多にない。
青島は室井の顔を半ば呆然とするような面持ちで見つめた。
―ああ…バカだなぁ…。
自分の突然の来訪でさえも、単純に喜んでくれている男を見つめながら、思った。
―ちょっとでも、この人の気持ち疑うなんて…。
「バカだなぁ」
口から零れた一言に、室井がぎょっとする。
突然の脈絡のない会話に、面食らうのも無理は無い。
「あ、青島?」
「室井さんのことじゃないです」
そういうと、青島はちょっと笑みを零した。
まだ困惑している室井に、小首を傾げてお願いする。
「部屋、入れてもらってもいいです?」
思い出したように、室井は身体をずらした。
それを許可と受け取ると、「お邪魔しまーす」と声をかけて室井の部屋にあがる。
「あ、仕事中でした?」
リビングのテーブルの上に、捜査資料らしき書類があった。
「いや、書類に目を通してただけだ」
「それを普通は仕事中って言うんですよ」
「…そうか」
丁寧に教えてあげたら眉を寄せてしまったから、青島は苦笑した。
「青島、何かあったのか?」
突然の来訪の理由は、やはり気になったらしい。
青島はソファーに腰を下ろして、空いている隣のスペースを手で叩いた。
「まあ、室井さんも座って」
どちらが家主だか分からないが室井にも席を勧めると、何が何だか分からない様子だったが、室井も素直に腰を下ろす。
並んでソファーに座ると、青島は室井の方を向いた。
「室井さん」
「何だ?」
彼らしく、短刀直入に聞いてみる。
「なにか、俺に隠し事ありません?」
これまたいきなりで面食らったのか、室井は目を剥いた。
恋人がいきなり押しかけてきて「隠し事してるでしょ?」と問い詰めているのだから、驚くのも当然だろう。
まるで浮気の現場でも目撃したみたいである。
「青島…?」
「心配しなくても、浮気を疑ってるわけじゃないですからね」
笑いながら、室井の目を覗き込んだ。
驚きと困惑が見て取れる。
青島はもう一度繰り返した。
「俺に、隠してること、ありますよね?」
室井の顔が強張った。
少し視線が落ちる。
気まずそうに伏せられた目が、図星だと教えてくれた。
やっぱりと思う反面隠し事があることは寂しくて、だけど室井が嘘を吐かないでいてくれることは嬉しかった。
隠し事など何もないと言われてしまうと、青島が確信しているだけに辛い。
「すまない…」
小さな謝罪は、肯定だった。
室井はやっぱりどこまでも青島に誠実だ。
「謝ることはないです。秘密がない人なんて、きっと誰もいないです」
いくら恋人だからって他人の全てを知ることができるとは、青島も思っていない。
誰にだって秘密はあるし、そのことで室井を責めたいわけでもない。
だけど室井が隠していることは、青島にも関係があるはずだった。
「俺の顔見て、たまに凄く寂しそうな顔してた」
その理由を知る権利は、青島にもきっとある。
「室井さん、気付いてました?」
尋ねると、室井は口元に手を当てた。
顔には、
―しまった。
と書いてあるから、思い当たる節はあるようだ。
青島は苦笑した。
「繰り返しますけど、室井さんの気持ちを疑ってるわけじゃないんです。あ、まあ、その、少しだけ疑っちゃいましたけど」
言わなくても良いことまで言ってしまったせいか、室井の顔色が変わる。
「青島、それは」
「あ、大丈夫、分かってます、ちゃんと分かってるつもりです」
「…そうか」
ホッとしたように少し力を抜いた室井を見て、尚更実感する。
室井は不器用なりに、態度や言葉で精一杯青島を想ってくれている。
それはもう充分過ぎるほど分かっていた。
そこに不安は感じていない。
だけど、明らかになった隠し事の存在は、やっぱり気になった。
「それって、俺に言えない話ですか?」
話を元に戻すと、室井は眉を寄せて黙ってしまった。
黙秘しょうとしているわけじゃなくて、考えてくれているのだと思う。
「……話すべきことかどうか、分からないんだ」
少しの沈黙の後、重たい口調で言った。
「ということは、少なからず俺にも関係のある話なんだ?」
室井はまた沈黙し、こくりと頷いた。
どんなふうに青島に関係しているのかは、分からない。
青島自身のことなのか、室井に関わることなのか。
室井が「分からない」というからには、少なくても青島に伝えようかどうしようか悩んでくれているということだ。
世の中には知らなくていいことはいっぱいある。
知らないままでいる方が幸せだということもいっぱいある。
だけど、室井が何かを抱え込んでいるのなら、青島も一緒に抱えたかった。
「教えてください、室井さん」
青島が静かに言うと、室井は眉を寄せたまま青島を見た。
「どんな話でも、大丈夫だから」
「しかし…」
言い淀み、苦悩する室井が痛ましい。
話すべきかどうかは、今も室井の中で答えが出ていないのだ。
そして、それを青島に要求されている。
苦悩が増えてしまったことだろう。
青島はちょっと笑うと、室井の首に手をかけて軽く引き寄せた。
額に唇を押しつける。
眉間の皺が少し緩んだ気がするが、気のせいかもしれない。
「室井さんが言いたくないこと?言うと室井さんが傷つく?」
「……いや、そんなことはないが」
ならば、きっと青島を気遣ってのことだ。
―もう…この人もバカだなぁ。
心の中で笑いながら、もう一度額にキスをする。
「俺なら、大丈夫」
至近距離で困った顔をしている室井に、青島はにっこりと笑った。
「室井さんいるし、大丈夫」
青島にとってそれが重要なことだったとして、ショックを受けるようなことだったとしても、室井が傍にいてくれれば大丈夫だろうと思えた。
依存しすぎは良くないが、恋人に頼ることは必ずしも悪いことではないだろう。
へこんだら、室井に目一杯慰めてもらえばいい。
楽天的な青島らしい思考回路が伝わったのか、呆然としていた室井もやがて苦笑を浮かべた。
青島の背中に腕を回すと、軽く唇を合わせてくる。
「君には叶わないな……悩んだ自分がバカに思えてくる」
「そうですよ。一人で悩んだりするなんて、バカです」
「…ちょっと、突拍子もない話するぞ」
凄い前フリに、青島も室井の背中を抱き返しながら、クスクス笑った。
「望むところです」
「うわぁ……俺ってすげぇ……」
室井から話を聞いて、途中何度か「嘘でしょ?」と突っ込みをいれながらも最後まで話を聞いて、「本当に嘘じゃないの?」と何度も確認して、漸く納得した最初の台詞がそれだった。
拍子抜けしたのか、室井も苦笑している。
「何、じゃあ、俺って、二回も室井さんに惚れたの?」
驚くやら照れ臭いやらで目を白黒させている青島に、室井は少し気まずそうに肩を竦めた。
「そうなるな」
「うわーうわーそうっすかぁ」
俺ってすげぇと、思わず繰り返した。
「青島」
興奮気味の青島に、室井がそっと尋ねてくる。
「あ、はい?」
「その、ショックじゃないか?大丈夫か?」
確かに自分の記憶が欠けているという事実はショックだった。
だが、実感が湧かないというのが正直なところだ。
室井が青島を騙すわけがないので、教えてくれたことは全て事実だと理解できる。
だけど、青島の中には今までの記憶がちゃんと―もちろん自然に薄れている記憶もあるが、繋がって残っている。
にも関わらず、最初に室井と付き合っていた記憶だけないという。
無い記憶を確認することはできないから、実感が湧かないのも無理はないかもしれなかった。
「記憶が欠けてるっていうのにはビックリですけど…」
青島は笑いながら頭を掻いた。
「それより、二度も室井さんに惚れちゃったっていう方が、ビックリで」
素直に言ったら、室井は目を丸くした。
記憶が欠ける前の自分も欠けた後の自分も室井を選んだのだと思うと、驚きを通り越して感動である。
どうあっても、室井と恋に落ちるように出来ているのかもしれない。
ちょっと寒いことを考えて、青島は肩を竦めた。
「本音を言えば、ちょっと怖いですけど。俺の知らない俺がいるんですもんね…」
室井が危惧してくれたのはそこだろうと思う。
だけど、それも心配はいらない。
「青島…」
心配そうな顔をした室井に、青島は照れ笑いを浮かべた。
「でも、室井さんは知ってるんですもんね?」
「…え?」
「前の俺のことも、室井さんが知っててくれるなら、ちょっと安心かな」
青島が忘れてしまっていても、室井は覚えていてくれているだろう。
自分の記憶にない自分の姿を知っているのは、多分室井だけである。
それならば、それほど不安に思う必要は無い。
前の自分が室井と過ごした日々が無駄になることもない。
「前の君のことも、絶対に忘れない」
力強く、室井が言ってくれる。
青島の不安と、それから多分、室井自身「忘れる」ということに恐怖を覚えているからだろう。
不可抗力にせよ、室井には申し訳ないことをしたと思う。
恋人である自分にその事実を忘れられたのだ。
室井がどんな思いでいたかなど、想像に難くない。
それでも諦めずに、青島と一からやり直そうとしてくれた。
―だから今、俺は室井さんの恋人でいられるんだ…。
青島は室井にぎゅっと抱きつくと、そのまま後に押し倒した。
いきなりで驚いただろうが、室井はしっかりと青島の身体を抱きとめてくれる。
「青島…」
「ごめんなさい、室井さん」
首筋に顔を埋めて、小さな声で謝る。
「忘れちゃってごめん…」
決してわざとじゃない。
前の自分がどんなふうに室井を好きだったかは、室井の話を聞いた今でも思い出せない。
だけど、今の自分がどんなふうに室井を好きかは、イヤというほど分かっている。
室井と触れ合えなくなってしまうなど、絶対にイヤだ。
「二度と、忘れたりしないから…」
青島の声が少しだけ震えた。
心からそう思うが、本当のところは分からない。
現に一度、室井とのことを忘れてしまった。
約束というよりは、絶対にそうしたくないという青島の願いに過ぎない。
それを悟ったのか、室井の手が青島の頭を撫ぜてくれる。
「心配するな」
もう片方の手で、背中を叩かれる。
「俺は絶対に諦めないから」
君が何度忘れても、必ず―。
室井の約束は、青島の唇に飲み込まれた。
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