「青島…大丈夫か?」
いくらか荒い呼吸のままの室井が、額に唇を押し付けてくる。
青島はそれに促されて瞼を持ち上げた。
自分を見下ろしている優しい眼差しに、照れ臭さを感じるのは相変わらずだった。
まだ数えられる程度しか経験してないから、無理もないかもしれない。
だけど照れ臭さいだけではなかった。
青島はシーツに投げ出してあった重たい腕を持ち上げて、室井の背中を抱いた。
「平気っすよ…」
ちょっと掠れた自分の声に、苦笑したくなった。
室井の唇が額から瞼に滑り、頬に触れ、青島の唇を湿らせる。
「水、いるか?」
声が掠れているからか、単純に喉が渇いたのではないかと心配されているのか。
どちらにせよ、気遣われているらしい。
女じゃないのにとは思ったが、不快感はなかった。
青島は茶化すように笑う。
「本当、意外と情熱的っすよね」
日頃はストイックで淡泊そうに見えるのだが、最中の室井はちゃんと男だった。
室井が自分に対してそうなるのは未だに不思議だが、自分に欲望を覚えてくれるのは嬉しく思う。
そして、そう思う自分もまた不思議だった。
「……君は前にもそう言ったな」
室井がポツリと呟いた。
室井に初めて迫られた時―きっかけを作ったのは青島だったが、確かに言った。
それを思い出して、青島はちょっと笑う。
「だって、あの時の室井さんの…口説き方も、熱っぽかったんだもん」
あんなふうに誰かを欲する男だとは思っていなかったから、驚いたものだ。
そんなことを考えていたら、室井が切なそうに目を細めたから、青島はハッとする。
―また、だ。
室井はたまにこんな表情をみせる。
悲しいというのとは少し違う、切なそうな痛ましそうな顔をするのだ。
別に青島が室井に対して何か傷つけるようなことを言ったわけでなく、それは甘やかな雰囲気の中でも、今みたいに普通に現れる。
室井の部屋で鍋を食べている時。
青島の部屋でテレビを見ている時。
酒を飲みながら語っている時。
ベッドの中でだらだらと無意味な時間を過ごしている時。
それはどれも幸せな時間だったが、室井はたまに酷く寂しそうな顔を見せた。
本当に一瞬だけで、大抵はすぐに消えてしまう。
室井自身気付いているのかいないのか、青島には分からなかった。
無理をしているふうには見えないが、それを不自然だと感じないわけでもない。
何か青島に問題があるのだろうかとも考えるが、そんなふうには感じさせない。
寂しそうな表情を見せるのは一瞬だけで、その後は大抵柔らかい眼差しをくれる。
演技のできる男では無いから、無理をして青島を愛してくれているわけではないだろうし、こういう関係を続けているわけもないだろう。
大体、熱心に青島を口説いたのは室井の方だ。
逃げ出そうとした青島を捕らえたのは、室井である。
それを後悔しているのだとは思えないし、思いたくない。
そうなると、青島には理由が分からなかった。
「室井さん…?」
寂しそうな目で自分を見下ろす室井をそっと呼ぶと、静かに唇を塞がれる。
優しいキスを何度か繰り返すと、室井は青島の上から退いた。
一度頭を撫でるようにしてから、ベッドを降りる。
「水を持ってくるから、ちょっと待っててくれ」
言いながらパジャマのズボンを身に付ける室井は、もういつもの彼だった。
「すいません…」
声をかけると、室井は小さく微笑んで寝室を出て行った。
青島はノロノロとベッドに身を起こす。
―何だろうなぁ…。
室井と付き合い始めてなにもかも順調だと思っていたが、青島には一つだけずっと気になっていたことがあった。
室井が一瞬だけみせる表情。
それが、青島の心に影を落としていた。
***
「遅いっ」
腕を組んだすみれに怒られて、室井は苦笑した。
予想通りの反応ではあったから、素直に頭を下げる。
「すまない」
少し遅くなったが、すみれに無事に事が運んだことを報告した。
報告させられたとも言う。
湾岸署に来たら青島が外出中で、コレ幸いとばかりにすみれに早々と拉致され、喫煙所に連れ込まれたのだ。
尤もすみれは既に青島から話を聞いていたらしいのだが、室井からなんのリアクションも無かったのがやはりお気に召さなかったようだ。
「人が協力までしてあげたのに」
ぶつぶつと零すすみれに、反論などあるわけもない。
室井は潔い謝罪を繰り返した。
「すまない」
「…ま、いいけどさ。青島君、幸せみたいだし」
すみれはそう言いながら、表情を和らげた。
「幸せそうか?青島」
何となく聞き返すと、呆れた視線が返ってくる。
「室井さんの目には幸せそうに見えてないわけ?」
「いや、そんなことはないが」
すみれの目から見ても、第三者の目から見てもそう見えるなら、少し安心だ。
冷静でいるつもりだが、そうは見えないかもしれないが室井自身が浮かれているので、見落としてしまうこともあるだろうと思ったのだ。
青島の幸せが全てとは言えないが、青島が幸せじゃなければ意味はない。
室井がどんなに幸せでも。
一人では意味がないのだ。
「二人とも幸せそうで、何よりです」
からかっているのか本音なのか微妙だったが、室井が真顔で頷くと、すみれは苦笑した。
「なんか、惚気られてる気分だわ」
「俺は何も言ってないが」
「そんな空気なんです」
どんな空気だ?と首を傾げたが、すみれは苦笑を深めただけだった。
「そんなことより、結局青島君の記憶のことは言わないんですか?」
いきなり核心をついた質問に、室井は少し眉を寄せる。
それは室井がずっと考えていたことではあった。
記憶の欠けた青島と一からやり直し、無事によりを戻せた。
今の青島も室井のそばにいてくれるのだから、今更わざわざ言う必要がない気もする。
新しく、やり直しているのだから。
だけど、簡単にそうとは割り切れない。
消えてしまった記憶に、未練がないわけではなかった。
「もう言っちゃっても、いいんじゃない?」
すみれが顎に手を当てながら呟く。
「驚きはするでしょうけど、嫌がることはないでしょうし」
「そうだな…」
「でも、自信なさげね」
すみれの勘は鋭い。
自信が無いとかではないが、青島に伝えることに意味があるのかどうか、室井には良く分からなかった。
「記憶が欠けていると本人に伝えて、それでもずっと青島の記憶が戻らなかった場合、青島は不安になるだけじゃないだろうか」
欠けているのはおそらく室井と付き合っていたことだけだろうが、青島本人には、それだけなのかどうかも分からないのだ。
それに、自分の知らない自分が過去にいたのだとしたら、それは怖いことではないだろうか。
無事に恋人になれた今、嫌がられたらどうしようなどと不安になっているわけではなくて、室井は青島が「記憶が欠けている」という事実をどうやって受け止めていくのかが気になった。
青島のことだから気軽に受け止めそうな気がしなくもない。
だけど、内心に大きな不安を抱えさせるようなことは避けたかった。
「室井さん、意外と過保護よね」
すみれが苦笑している。
確かに青島もいい大人なんだから、自分のことは自分でなんとかするだろうという思いもなくはなかった。
逆に、そう思えば、隠し続けることは青島に対して不実な気もする。
「青島本人のことなのに、俺がいつまでも隠していて良いものかとも思うんだが…」
だから悩んでいた。
告げるべきか、告げないべきか。
青島が大事だから、余計な不安を与えたくない。
でも青島自身のことを青島に隠し続けていることにも抵抗がある。
だが、知った後のことを思えば、知らせない方がきっといい。
そんなふうに考えるから、室井は答えを出せずにいた。
「青島君は幸せモノねぇ」
すみれにしみじみと言われて眉を寄せたが、茶化しているふうでもない。
すみれは真顔で言った。
「室井さんが青島君と同じめにあったら、青島君、三日と待たずにアナタの頭を殴りつけてるかもしれないわね」
目を丸くした室井に、すみれはクスクスと笑う。
「きっと、我慢できませんよ」
室井がもし、何かのはずみに青島とのことを忘れてしまったとしたら。
青島はやはり室井と同じ気持ちになってくれるだろうか。
思い出して欲しいと望み、もう一度手に入れたいと望んでくれるだろうか。
それならば。
「願ったり叶ったりだ」
室井が呟いたら、今度はすみれが目を剥いた。
殴られて思い出せるなら、是非ともそうして欲しい。
青島のことを忘れるなんて―。
忘れられるより、きっと辛い。
思う存分殴らせてやってくれ、と言ったら、すみれは破顔した。
「死なない程度で止めてあげるから、安心して」
「ありがとう」
「あれ?室井さん?」
平和なのか物騒なのか分からない会話をしていると、不意に声が割り込んできた。
噂をすれば影がさすとばかりに、姿を見せたのは青島だった。
外出から戻ったばかりなのか、コートを着込んだままである。
「お帰り〜」
すみれがのんきな声をかけると、青島は苦笑した。
「ただいま……二人とも何してんの?」
煙草も吸わないくせにと言われる。
すみれはもちろん、室井だって普段は煙草を吸わない。
喫煙室にいる意味は確かに無かった。
まさかお前の話をするためだとも言えずに、室井が押し黙ると、すみれがニコリと笑った。
「青島君の話」
「え…?」
ぎょっとした室井を余所に、すみれは続けた。
「青島君のどこが好きか、きーてたの」
今度は青島がぎょっとした。
「な、何バカなこと聞いてんの」
咎めるような口調だが、どこか照れ臭そうに見える。
「あら、青島君だって気になるんじゃない?」
「何がさ」
「室井さんがどこに惚れたのか」
また目を剥いてすみれを見た青島だったが、思わずといった感じで室井を振り返った。
そしてはっきり赤面する。
「な、何、べ、別に」
明らかに動揺する青島が可愛い。
などと思っていたため、室井は当事者の一人なのだが、思わず傍観してしまった。
「落ち着きなさいよ」
「すみれさんが言わないでよっ」
「青島君だって気になるでしょ?」
「いや、だって、そんな、別に、」
「青島君が聞きにくいかなーと思って、代わりに聞いてあげたのよ」
「…すみれさんには関係ないでしょ」
「あーそういう言い方って冷たーい」
「え?悪いの俺?」
「……二人とも」
思い出したように室井が割り込むと、二人ともとりあえず黙ってくれる。
じっと見つめられて、一つ咳払いをした。
「仕事があるから、そろそろ失礼する」
逃げるわけではないが、本当に仕事の途中なのだ。
折角青島に会えたのにゆっくりできないのは残念だが、致し方なかった。
「じゃあ、青島君、送ってあげたら?」
すみれの提案に室井と青島は視線を合わせる。
「課長には言っておいてあげるから」
そう言って、すみれは二人に手を振って出て行った。
どこまでも協力的なすみれに、何をご馳走することになるんだろうと少し考えてしまった。
それでも、すみれには感謝している。
ご馳走するくらいなら、安いモノである。
「えーと…じゃあ、行きます?」
「仕事は大丈夫なのか?」
「大丈夫大丈夫」
室井さんの送迎も仕事のうちだからと笑ってくれるから、素直に甘えることにした。
少しでも一緒にいられるなら、それにこしたことはない。
じゃあ…と、言いかけて、室井はハタと気付く。
「すまない、少し待っててもらってもいいか?」
「え?ああ、もちろん構いませんけど、どうかしました?」
「いや……そういえば、まだ用事を足していなかった」
刑事課に行った途端すみれに拉致されたから、何の用事も足りていなかったのだ。
青島はきょとんとした顔をしたが、やがて苦笑した。
「すみれさんに、捕まってたんですね」
「ああ…」
すみませんね〜と謝りながら思案顔で、青島は腕を組んだ。
「でも…なんか、すみれさん、変だなぁ」
言葉の意味が分からなくて、室井は首を傾げる。
「変?」
「ええ、その、やけに協力的っつーか、親切っつーか」
それはそうだろう。
すみれは青島の欠けた記憶の存在を知っている。
だからこそ、二人のことに協力的だったのだが、青島はそんなことは知らない。
室井の気持ちすら分からないのだから、当然すみれの気持ちも知らずにいた。
それを報われないなどと思ってはいけない。
―青島は好きで忘れたんじゃない。
もう何度も繰り返した言葉を心の中で繰り返した。
そして努めて柔らかい声を出す。
「君のことだからじゃないか?」
彼女が青島に親身になるのは、青島が彼女のことに親身だからだ。
そんなことは、青島自身の方が良く分かっているはずである。
青島は室井の顔をじっと見つめていたが、やがて曖昧な笑みを漏らした。
「うん、まぁ……そうなんですけどね」
青島の心中にも、ひっかかるモノがあるようだ。
もしかしたら、と室井は思う。
―こういう違和感が切欠になって、思い出したりしてくれないだろうか。
青島が自然に思い出してくれるなら、それにこしたことはない。
それなら青島に変な混乱を与えることもないだろう。
少し希望が見えた気がした。
「じゃ、俺、席で待ってますから。用事すんだら、声かけてください」
気持ちを切り換えたようにニコリと微笑まれて、室井は慌てて頷いた。
室井は失念していた。
室井やすみれのみせる違和感が、今の青島の不安に繋がることを。
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