本庁を出た室井は腕時計を見て溜め息をついた。
残業で帰りが大分遅くなってしまった。
幸い、明日は休暇のためのんびりできる。
疲れた足を駅へと向けながら、ふと青島のことが頭に浮かんだ。
ここのところタイミングが合わず、青島と会うことはなかった。
特に青島の忙しさを考えればそれで当然で、仕方のないことだった。
久しぶりに誘ってみようかと思ったが、飲みに誘うにしては少し遅い時間である。
仕事を終えているなら、もう自宅に帰っているだろう。
そう思って諦めることにした。
疲れたと感じると、青島に会いたくなることがあった。
変な欲求だとは思ったが、それを気にしてはいなかった。
室井にとって青島の隣りは居心地が良い場所だった。
そうでなければ、疲れた時にわざわざ会いたいなどと思いはしない。
室井には、そんな相手は青島しかいなかった。
それくらいはもう自覚していたが、そんな交友関係しか築けない自分を寂しい人間だと思うだけである。
それに対して、不満も不都合も感じてはいない。
つまり、青島さえいればそれでいいということになる。
そう考えると、やっぱり少し変かもしれないと思った。
駅に着く直前、携帯電話が鳴った。
足を止め携帯電話を取り出すと青島からの着信で、驚いたもののすぐに電話に応じる。
「はい」
『あ、室井さん?青島ですー』
こんばんわーとのんきな声がした。
のんきというよりは、陽気かもしれない。
電話の向こうが騒がしく、外から掛けているようだった。
『室井さん、まだ仕事?』
「いや、終わって帰るところだが」
『あ、丁度良かった!今、すみれさんと飲んでんですよー。室井さんも来ません?』
陽気なはずである。
既に酒が入っているらしい。
電話の向こうが騒がしいのは、飲み屋から掛けているせいだろう。
『すみれさんがね、室井さんと飲みたいって……いたっ、ちょっとすみれさん、おしぼり投げないでよっ』
すみれに向かって文句を言っているせいか、青島の声が少し遠くなる。
微かに「それは青島君でしょー」と言い返しているすみれの声が聞こえて、室井は苦笑した。
「どうせ恩田君は俺の財布目当てだろ」
『ええ?ははは…いや、そんなこともないと思いますけどね』
笑い声が途切れ、穏やかな声に変わった。
『少なくても、俺は違いますよ』
何故かドキリとした。
青島が室井の財布など当てにしていないことは、今更言われなくても知っている。
それでも青島の言葉は嬉しく思った。
『室井さん、来ませんか?疲れてる?』
青島がもう一度誘ってくれる。
返事は決まっていた。
「今どこだ?」
『ええと、今ですねー』
青島に場所を聞きながら、室井は再び歩き出した。
「イカのおすしって、誰が考えたんだろう?」
「お寿司屋さんじゃないの?」
「いや、本物のいかのおすしじゃなくて」
「ああ…防犯標語の」
「うまいことできてるなーと思うけどさー」
「神田署長じゃないのー?」
「あははは、好きそう好きそう」
署長にしてはうまいことまとまり過ぎだなどと、二人で勝手なことを言い笑っている。
何故そんな話しになったのか、目の前で話しを聞いていた室井にも分からなかった。
室井が指定された店にやってくると、既に二人はそこそこ出来上がっていて、テンションが高かった。
二人に追い付こうと思ったわけではないが、室井は二人の話しを聞きながらとりあえず酒を進めていた。
「署長なら、あれも危なくない?これも気を付けた方が良くない?って、長くなって行きそう」
「いかとたことまぐろのおすし、とかね」
どうでもいい会話が延々と続く。
酒を飲みながら二人を眺めていると、青島がお酌をしてくれた。
「飲んでますかー?」
「…君たちはそろそろやめた方が良くないか?」
一応言ってみるが、言ってみただけだった。
どうせ二人とも素直に聞くわけがない。
「まだまだこれからっすよー」
笑いながら手酌する青島の隣りで、すみれが「すいませーん、お酒のおかわりくださーい」と空いた銚子を振っている。
やっぱり言うだけ無駄だった。
二人とも良く食べ、良く飲んだ。
すみれに至っては、この細くて小さな身体のどこにそんなに入るのかというくらい食べている。
「なんですかぁ?」
思わずじっと見ていると、すみれが首を傾げた。
「いや…」
まさか「君の胃袋がどうなっているのか気になって」とも言えない。
室井が言葉を濁すと、すみれは首を傾げたまま箸を動かした。
「室井さん、小食なんですね」
「そんなことはないが」
「すみれさんが食い過ぎなんだよ」
「失礼ねぇ、普通よ」
「…君が普通なら、俺は小食かもしれない」
思わず呟いたら、すみれが眉をつり上げた。
「失礼な人たちねぇ」
青島が声を上げて笑った。
すみれは憤慨しつつも、尚も箸を動かしている。
「ご飯を食べられるのは健康な証拠でしょー」
「すみれさんてさ、太んないの?」
頬杖をついた青島を、すみれが睨む。
「セクハラ」
似たような疑問を持っていた室井は、聞かなくて良かったと思った。
青島は肩を竦めている。
「だって、不思議なんだもん。すみれさん、細いからさー」
「それはもっと言って」
うふっと嬉しそうに笑うすみれに、恩田君もそういうことを気にするのかと新鮮に思った。
女性にとって痩せたとか太ったとか伸びたとか縮んだとかいうことが、思いの外重要であることは室井のような男でも知っている。
男なら細いと言われてもあまり嬉しくない。
がっちりしている方が男らしくも見えるだろう。
「いいなぁ、俺なんか太りやすくてさー」
言いながら、青島が腹を撫ぜる仕草をする。
それをちらりと見るが、腹が出ているようには見えなかった。
「別に太ってはないだろ」
痩せ形ではなくても太っているという印象は全くなかったが、青島は苦笑した。
「でも、油断するとヤバイんですよ」
「気にするほどのものではないだろ」
青島の仕事は体力勝負なところもある。
体力維持を考えても、痩せすぎているよりずっといいはずだと思った。
「そうっすかねぇ…」
青島が自分の腹に視線を落とした。
その仕草が少しおかしかった。
「なんかカップルみたいね」
すみれがからかうように笑うから、室井は目を剥いた。
「ダイエットに悩む彼女と、慰める彼氏みたいな感じ?」
感じ?と聞かれても困る。
室井にはそんなつもりはなかった。
もちろんなくて当然で、すみれも冗談を言っただけである。
それが分かっているのに、動揺してしまうのは何故か。
「なーに言ってんの」
呆れたように言って、青島が笑った。
「気持ち悪いこと言わないでよ」
気持ち悪いこと。
室井と青島がカップルみたいだと言われたのだから、それは『気持ち悪いこと』だろう。
男同士なのだから、それで当然である。
だから青島の言葉を不愉快に思ったわけではない。
ただ、室井は酷く驚いた。
一般的に、同性といい仲だと疑われるのは、気分の良いものではないはずだ。
気持ち悪いと思っても、無理はない。
それなのに、すみれにカップルみたいだと言われても、嫌悪感はまるでなかった。
一倉にからかわれた時も、からかわれたことに腹を立てただけである。
青島に言われるまで考えてもみなかったことに、今更気付いて驚いた。
それはつまり、どういうことなのか。
考えてはみるが、酔いのせいか動揺のせいかちっとも考えがまとまらない。
「あ、それって、差別じゃないのー?」
「違うってば、すみれさんがおかしなこと言うから」
「ちょっとした冗談でしょ」
二人がああでもないこうでもないと言いあっているのを遠くで聞きながら、室井は黙々と酒を口に運んでいた。
すみれを乗せたタクシーが出ると、室井は背後を振り返り溜め息をついた。
地面に腰を下ろした青島が、船を漕いでいる。
青島が泥酔している姿を見るのは、これが二回目だった。
だからといって、酒癖が悪い印象はない。
二人で飲んでいる時には、こんなふうになったことがなかったからだ。
青島の酒の飲み方は陽性だと言えた。
明るく、楽しい酒。
度を過ぎる時には何か理由があるのかもしれない。
「青島、帰るぞ」
声をかけ、腕をひき、立ち上がらせる。
「んー…あれ?すみれさんは?」
青島がぼんやりと呟くから、室井はまた溜め息をついた。
「先にタクシーに乗せて帰した」
「そうっすか〜」
「大丈夫か?」
「ちょっと飲みすぎましたねぇ…」
へらっと笑う青島を見る限り、具合が悪そうではない。
酔ってはいるが、それならまだ良かった。
「俺たちも帰ろう」
室井が促すと青島は頷いた。
「室井さん」
「なんだ」
「俺んち泊まってきません?」
誘われて驚いた。
散々室井の部屋に青島を泊めたのだから、逆のことがあってもおかしくはなかった。
それなのに、何故か驚いた。
青島の部屋に泊まる。
青島の部屋。
一度も入ったことがない。
行ってもいいのだろうか。
主が良いと言っているのに、何を躊躇うことがある。
本当に、何を躊躇っているのか、自分でもわからなかった。
躊躇うのなら、自宅に帰れないわけではないのだから断ればいい。
だが、それもできない。
青島の部屋。
行ってみたいと、思っていたのかもしれない。
「ここからなら俺んちの方が近いっすよー」
黙ってしまった室井に、青島が言った。
「まぁ、狭いし、室井さんちみたいに居心地は良くないかもしれないけど」
居心地が良いと、思ってくれていたのか。
そんなことも、今知った。
「いつも室井さんちに泊めてもらってるしね、たまにはどうっすか?」
熱心というほど強く誘われたわけではないが、やっぱり断れない。
室井が頷くと、青島は小さく笑った。
何故か酔っているふうには見えなかった。
室井が目を覚ましたのは、目覚まし時計のアラームのせいだった。
聞き慣れない音。
それもそのはずで、鳴っていたのは青島の目覚まし時計だった。
布団から出て、青島のベッドの枕元に置いてあった目覚まし時計を止める。
ベッドに視線を落とすが、改めて見るまでもなく青島の姿はなかった。
「あ、すいません。目覚まし止めてくれました?」
ドアが開き、青島が姿を見せた。
「おはよう」
「おはようございます」
「早起きなんだな…珍しく」
嫌味で言ったわけではないが思わず一言付け加えると、青島は苦笑した。
「なんか目が覚めてね、珍しく」
自分で言うあたり、自覚はあるらしい。
どうやら目覚まし時計よりも早起きしたせいで、アラームを止めていなかったらしい。
「飯、出来てますよ」
あれもこれもいつもと逆だなと思いながら、室井は礼を言った。
簡単ですみませんと青島が言った朝食だったが、トーストと目玉焼きが用意されてあった。
ありがたくご馳走になる。
「折角休みなのに、朝から起こしてすいません」
室井は休暇だが、青島は仕事だった。
青島が出勤するというのに、室井がいつまでも寝ているわけにはいかない。
「こっちこそ、君は仕事なのにすまない」
「いえいえ、俺が泊まってって言ったんだし」
そういえば、そうだった。
もっとも室井が青島の部屋に泊まったのは、誘われたからというよりも、青島の部屋に行ってみたいと思ったからだ。
青島の部屋は1LDKのマンションだった。
築年数は結構古そうだが、部屋はそれなりに広い。
狭くは感じなかったが、室井の部屋に比べると物が多いため雑全としているような印象だった。
床にクッションが無造作に投げ出してあり、ラックの中の雑誌や新聞はしまってあるというより積んであるだけで、買ってきたばかりなのかテーブルの上にはアメスピのカートンがそのまま置いてあった。
灰皿も室井の目についただけで4つもある。
電化製品も室井の部屋より多い。
DVDプレイヤーやゲーム機などは、室井の部屋にはなかった。
「ゲームなんか、やる暇あるのか?」
「滅多にやらないですけどね、たまにやりますよ」
やるとはまるんだと言う。
やる時間はあまりなさそうだったが、夢中になって徹夜で遊ぶ青島の姿なら、用意に想像がついた。
「腕時計、随分あるな」
テレビボードの縁に腕時計が5つ程置いてあった。
「まだまだありますよ、普段使うのだけそこに置いてあるんで」
「…君一人でそんなに使うのか」
室井の言い方がおかしかったのか、青島は笑った。
「室井さんなら一つで十分って感じっすね」
腕時計を用途や気分で使い分ける、そんなお洒落はしたことがなかった。
今使っている腕時計は、三年くらい前にそれまで使っていた腕時計が壊れた時に買い替えたものだった。
それ以外は、昔祖母に大学合格のお祝いに買ってもらった腕時計を一本持っているだけだ。
それも電池が切れているから、動いてはいない。
「趣味で集めてんですよ、腕時計」
「そうか」
「使うのも好きだけど、集めんのが好きで」
「使わないと、勿体なくないか」
「だから、日替わりで」
もう一度そうかと呟き、苦笑した。
腕時計収集が趣味というのは意外な気がしたが、悪い趣味ではない気もした。
勿体ないかどうかは本人の価値観の問題だし、室井が口を挟むことではない。
無趣味な室井より、青島の世界の方が面白みがあるのではないだろうかと思った。
「なんか気に入ったのあったら、持っていっていいっすよ〜」
少し驚いた室井を残し、青島は席を立った。
趣味で集めているものを、気軽に室井にあげてしまってもいいのだろうか。
だが、執着がないのだとしたら、それはそれで青島らしいとも思えた。
テレビボードの上に視線を向ける。
室井が使っている時計とは違うデザインの時計だった。
自分で買うなら、きっと選ばない。
好みに合わないからではなく、仕事でもプライベートでも冠婚葬祭でも特に違和感がないような無難なデザインしか選ばないからだ。
青島がしているような腕時計をしたことはなかった。
一瞬、欲しいと思った気がしたのは、そのせいかもしれない。
ほどなくして、青島がコーヒーを手に戻ってきたが、それきり時計の話しはしなかった。
玄関で靴を履き、振り返る。
ワイシャツにネクタイを締めた青島がいる。
もうすぐ青島は仕事にいかなくてはならないので、少し先に室井は帰ることにした。
「じゃあ」
「はい」
「朝食をありがとう」
礼を言ってドアに手をかけると、青島に呼び止められた。
「室井さん」
もう一度振り返ると、思ったよりも近くに青島がいて驚いた。
青島の手が、室井の腕を掴む。
「青島…?」
どうかしたのかと問うことができなかった。
目の前に青島がいる。
そう思った瞬間には、唇に何かが触れていた。
それは本当に一瞬だったが、確かに触れた。
目を剥いた室井の目の前には、やっぱり青島がいる。
どこか困ったように唇を歪める。
照れ笑いを浮かべているように見えた。
「十分だって思ってたんです」
青島が何かを話している。
「初めから多くは望んでなかった。いや、望んでないつもりだった」
何を話しているのか、室井には分からなかった。
「室井さんと仲良くなれて、時々は一緒にいられて、それで十分だって確かに思ってたんです」
でも無理だった。
少しだけ掠れたその声を聞いた時に、それが照れ笑いではないのだと知った。
寂しそうな、諦めたような笑顔。
青島がこんな顔で笑うのは、初めて見た気がした。
「仲良くなったらもっと特別になりたくなった、一緒にいればもっと触りたくなった」
一度目を伏せ、再び室井を見た。
「やっぱり、俺には無理だったんだ」
「…何が」
ようやく口に出来たことはそれだけだった。
青島が笑う。
「今日が最後って、決めてました」
諦めた顔で、笑う。
何を諦めたのか、室井には分からなかった。
「ずっと、好きでした」
青島の手が、室井の腕を離した。
その手でドアを開ける。
青島がまた笑った。
「さようなら、室井さん」
そっと押し出され、青島の笑みが消えた。
目の前にあるのは、閉ざされたドアだけ。
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