湯船に湯を張ると、蛇口を捻って止める。
新しいタオルと着替えも用意した。
明日は休みだというし終電もなくなったので、青島を泊めることにした。
もう、いつものことである。
「泊まって行くだろ?」と当たり前のように尋ねたら、「そうしよっかな」と気軽な返事が返ってくるくらいだ。
室井も青島も、この状況にすっかり慣れていた。
ふと洗面台を見れば、いつだったか青島がコンビニで買って置いて行った歯ブラシが、室井の歯ブラシの横に置いてある。
青島が捨てようとしたのを、また使うこともあるだろうと止めたのは室井だった。
その時、青島は少し驚いた顔をしたものの、捨てるのをやめにした。
実際、その後もこうして使う機会がある。
室井の判断は間違っていなかったわけだが、何かが間違っている気もした。
―こんなに馴染んでしまって良かったのだろうか。
悪いことではないだろう。
官僚と所轄刑事が仲良くなったからといって、いけないことはないはずだ。
プライベートで親交があったところで、特に問題はない。
室井にしても、警察官としてではない時間を青島と過ごすことは、嫌いではなかった。
楽しいと感じているからこそ、共に過ごす時間が増えたのだ。
それならそれは悪いことではないはずだった。
「室井さん、皿洗いましたよー」
台所から青島が声をかけてくる。
夕飯の後片付けをしてくれていたのだ。
室井もすぐに台所に向かう。
「ありがとう、風呂沸いたぞ」
「室井さん、先どうぞー」
「君から入れ、一応客だし」
「一応ってなんすか、一応って」
「いいから、先入れ」
「…じゃあ、お先に」
青島が風呂場に消えて行った。
それを見送ると、室井はコーヒーを淹れてソファーに腰を下ろした。
テーブルの上に置いてあった文庫本を手に取る。
青島が面白かったからといって、貸してくれた本だった。
「本なんか読むのか」と驚いたら、「俺だってたまには読みますよ」と不服そうに訴えられた。
本当にたまにですけどと付け足したりするから、変なところが素直である。
読む時間があまりないから時間が掛っているが、ようやく半ばまで読み進めた。
面白くないわけではないが、良く分からないというのが今のところの正直な感想だった。
ただ、これが青島の好む世界なのかと思うと、興味深くはあった。
室井はソファーに横になると、文庫本を開いた。
「室井さん?起きてる?」
その声に目を開けた室井は、目の前にある青島の顔に驚いた。
頭の上から覗き込まれている。
目を剥いた室井に、青島は笑った。
「寝てたみたいっすね」
笑いながら、首からぶらさげたタオルで髪を拭っている。
良い香りがした。
何の匂いか一瞬分からなかったが、いつも室井が使っている石鹸の匂いに違いなかった。
拭ききれていない髪から雫が滴り、上気した頬を流れていく。
それを眺めていたら、ぴちゃりと室井の頬が濡れた。
「あ、っと……すいません」
青島が手を伸ばしてくる。
温かい指先が触れ、室井の頬を拭った。
室井がそれを頭で理解する前に、頬に触れた熱は離れていった。
「お風呂、どうもでした。室井さんも入るでしょ?」
気持ち良かったですよーと言いながら、室井から身体を離す。
頭をごしごしと拭い、拭いきったのか手を止めると、青島は再び室井を見下ろした。
「室井さん?」
反応のない室井に気付いたのだろう。
室井の顔を覗き込んでくると、おかしそうに目を細めて、笑ってみせた。
「まだ寝てんの?」
室井が寝惚けているのかと思ったらしい。
「…寝てたみたいだな」
意識してゆっくりと身を起こした。
腹の上に読みかけの文庫本が開いたまま置いてあった。
文庫本にしおりを挟みテーブルの上に戻すと立ち上がる。
「風呂、入ってくる」
それだけ言うと、青島に背を向けてすぐに風呂場に向かった。
「ごゆっくりー」
背後から声をかけられ、なんとなく足を止める。
振り返ると青島が立ったまま室井を見ていた。
視線が合うと、不思議そうに首を傾げる。
傾げたまま手を振って寄越す青島に居た堪れなくなり、眉間に皺を寄せ風呂場に逃げた。
―一倉のせいだ。
シャワーを頭から被りながら思った。
「付き合ってんだろ?青島と」
一倉にそう聞かれてから、室井は少しおかしかった。
普段は特に変わったことはない。
捜査中は、いつものように捜査のことしか頭になかった。
ただ、青島と会うと、その時だけ室井は少しおかしかった。
意識しているのだろうと、自分でも思う。
子供でもあるまいし、付き合っているのかとからかわれたくらいで、ばかばかしい。
しかも相手は、男で、青島だ。
何を意識することがある。
そう思っているのに、どうしても意識してしまう。
今だって。
温かい青島の指先が触れて、強く青島を意識した。
室井は自分の下半身に目をやり眉間に皺を寄せ、また頭からお湯を被った。
あろうことか、身体が少しだけ青島に反応してしまったのだ。
自分の身体なのに信じられない。
室井は男相手にその気になる性癖は持ち合わせていないはずだった。
少なくても、過去にこんなことはない。
―欲求不満なんだろうか。
不本意ながら、考える。
室井だって男だから欲求がないわけではない。
恋人も長いこといないし、風俗に行くこともなく、欲求を感じれば事務的に自分で解消することはあるが、他人に興奮を覚えたのは久しぶりだった。
室井のような男でも、人肌が恋しくなることはあるのかもしれない。
それは当り前のことでも、その相手が青島だということが問題なのである。
いや、青島だからではないのだろう。
石鹸の香りや、濡れた肌に温かい身体。
そんなものが、室井を少しだけ煽っただけ。
―相手は青島じゃなくたって。
そう思うことで、室井は落ち着きを取り戻した。
シャワーを止めて、湯船につかる。
青島を意識してしまうのは、一倉がくだらないことを言ったから。
ただそれだけだ。
室井は天井を見上げて、目を閉じた。
室井が風呂から上がると、今度は室井の代わりに青島がソファーで寝ていた。
寝室に布団は敷いてあった。
先に寝ていればいいのにと思いながら、青島の顔を覗き込む。
「おい、青島…」
起こしかけて、言葉を飲む。
青島の寝顔を見て、室井は思わず苦笑した。
「幸せそうな顔して…」
寝顔なんて誰でも大抵そうだろうが、無防備に口を開けて眠る姿を見れば子供のようだった。
改めてまじまじとその顔を見る。
当たり前だが、こんなふうに青島の顔を見たことはなかった。
大きく印象的な目は閉じられていて見えないが、それでもそこそこ整った顔立ちのような気がした。
今は彼女がいないようだが、もてないわけではないだろう。
背も高く、口が達者で、女性には優しい。
別に男に冷たいわけではないが、特に女性に優しいようだ。
青島に言わせれば、男なんだから当然でしょと言われそうである。
女好きを感じさせる軽さもあるが、女性関係が派手なわけではない。
少なくても、警官になってからは縁遠いと本人がぼやいていた。
忙しいから、時間もないのだろう。
今なら、室井とこんなことをしているから余計に縁遠いのではないかという気もする。
忙しいというのに、たまに暇が出来れば室井と酒を飲んでいる。
彼女を作る気があるとは思えなかった。
それは室井にも言えることだが、室井は別に構わなかった。
好きな人が出来れば恋人になりたいと思うかもしれないが、恋人という存在が欲しいわけではない。
いなくて困るのは精々欲求が溜った時くらいで、そんなことのために恋人が欲しいとは全く思っていない。
今は仕事が全てだ。
そして、たまに時間が空けば、青島とだらだら酒を飲む。
そんな毎日は悪くなかった。
ただ、青島はそれでいいのだろうかと思う。
青島にとってはもっと有意義な過ごし方があるのではないかと、余計なお世話だが心配に思った。
「ん…」
青島が小さく呟き、思考を止める。
考えても仕方がないことを考えていた。
青島のことは、青島にしか分からない。
青島なら恋人くらい簡単にできるのではないかと思うが、それなのに何故室井といることを選ぶのか。
その理由がなんであれ、どうするかは青島の自由である。
室井には関係のないことだった。
起きたわけではないのか、青島が目を開ける気配はなかった。
薄く開いた唇で呼吸をし、厚みのある胸が上下している。
何が楽しいのか、青島の顔がふにゃりと笑うから、室井もつい笑みを浮かべた。
思わず頬に伸びた手に気付いたのは指先に温もりを感じてからで、慌てて手をひく。
―一倉のせいだ。
誰にする必要もない言い訳を自分にして、青島の肩を強く掴む。
「起きろ、青島」
青島を揺り起こした。
「ん…あれ…?」
ぼんやりと室井を見上げ、気まずそうに笑う。
「俺、寝てました?」
「ああ」
「あれーいつのまに…」
ふわふわと欠伸をしながらぼやく青島は、今にもまた寝てしまいそうだった。
折角布団があるというのに、ソファーで寝かせるわけにはいかない。
第一、風邪でもひかれては困る。
などと、少々過保護なことを考えていた。
「ほら、寝るなら布団で寝ろ」
青島の手を掴み、ひっぱり起こす。
「髪は乾いたのか?寝る前に…………なんだ?」
ソファーに座ったままの青島を見下ろし、首を傾げた。
青島は室井が離した自分の手を、ぼんやりと見つめている。
「どうかしたのか?」
寝惚けているのだろうかと思いつつ尋ねると、青島は視線を上げて苦笑した。
「いや、なんかね…」
「?」
「室井さん、意外と面倒見が良いよなぁと」
前にも青島に「俺に甘い」と言われたことがある。
どうも青島に対して甲斐甲斐しくなっているような気は、自分でもしていた。
意識してそうしているわけではない。
今だって、青島をひっぱり起こしたのは、無意識だった。
やっぱり、つい手が出るのだ。
だからと言って、そうとも言えない。
つい構いたくなるなどと言われても、青島は喜ばないだろう。
室井は無表情に言った。
「君が、手が掛るからじゃないのか」
だから室井が世話を焼くのだという意味が通じたのか、青島は少し唇を尖らせた。
「ほっときゃいいじゃないの」
「ほっといて欲しいのか?」
聞き返したら、青島が戸惑った顔をして口ごもる。
室井も黙って考え込んだ。
青島は大人である。
自分のことは自分でするだろうから、放っておけば良いのだ。
なんとなく青島が受け入れているからそれで当たり前になっていたが、青島が室井の干渉を迷惑と感じていないとも限らない。
青島とプライベートを過ごすようになり、同じ時間を共有することが増え、勝手に青島に慣れた気になっている部分があったのかもしれない。
そうだとしたら、室井の思い上がりも甚だしい。
急に自分が恥ずかしくなり、室井は顔を強張らせた。
「君が構われたくないなら、余計なことは」
「そ、そんなことないです」
青島が慌てて室井の言葉を遮った。
「構われたいっ」
断言されて室井が目を剥くと、青島は言葉を詰まらせて呻いた。
「…って言うのもおかしいですけど、じゃなくてですね、つまり、ええと」
言い訳にもならない言い訳をしながら、青島は乱暴に頭を掻いた。
照れているのか、顔が赤い。
今の言葉の意味はどういうことか。
照れているのはなぜか。
思いながら、青島の頭をポンポンと軽く叩く。
それも無意識だったため、室井を見上げる青島の視線で自分の行動を悟った。
避けられるでも、嫌がられるでもない室井の手。
離せずにいると、青島はじっと室井を見つめて、やがて困ったように笑った。
「も、寝ましょうか…」
室井もどうしたら良いのかわからないまま、「そうだな」とだけ返事をした。
青島が布団に入ると電気を消して、自分もベッドに横になる。
「おやすみなさい」
「…おやすみ」
ちゃんと挨拶を交すが、どこかぎこちない。
何かがおかしい気がした。
何がおかしいのかは分からない。
おかしいのは青島か、室井か。
室井は確かにおかしい。
一倉にからかわれて以来、意識しすぎて時々ちょっとおかしいのだ。
だけど、青島も少しおかしい気がした。
今の微妙な空気は、青島のせいのような気がしたのだ。
少しだけ張り詰めた空気。
「くしゅんっ」
それを破ったのは、青島のくしゃみだった。
「…おい、髪を乾かしたのか?」
暗闇の中で室井が問うと、青島は笑い出した。
笑う声は明るく、嬉しそうだ。
「大丈夫大丈夫」
「何が大丈夫なんだ」
呆れた室井の声にも笑い声が返ってくる。
「風邪なんかひきませんから、大丈夫ですって」
どこからくる自信なんだと溜め息をつく。
青島が笑みを含んだ声で言った。
「室井さん」
「なんだ」
「構ってくれて、ありがとう」
「…なんだそれは」
くすくす笑いながら、青島が寝返りを打ったようだった。
もう一度なんだそれはと呟き、室井は苦笑して目を閉じた。
夜中に物音で目を開けた。
人影が見える。
青島が布団から出て、起き上がっていた。
「…青島?」
室井が声をかけると、青島は言った。
「ちょっとトイレです。寝ててください」
「ああ…気を付けていけよ」
何かおかしなことを言ったらしく、青島が笑ったことは分かったが、室井はすぐにまた眠りに落ちた。
だから、気付かなかった。
その夜、青島が長いこと布団に戻らなかったことを。
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