「起きろ、青島」
室井は青島の額を、そこそこ遠慮なく叩いた。
再三声をかけて起こそうとしたのだが、起きなかったからである。
もうすぐ正午になる。
いくら非番だからと言って、少々寝過ぎである。
室井はというと3時間前に起きて、家事をしていた。
洗濯物が溜まっていたので洗濯機を回し、干して、昼食の準備をし、起きてこない青島にいい加減気を遣うこともなくリビングに掃除機をかけた。
コーヒーを落として一服して、室井はいよいよ青島を叩き起すことにしたのだ。
仕事と同様、随分辛抱強い。
別に青島が寝ていること自体は、気にもならなかった。
部屋の掃除はどっちみちしなければならなかったし、やることは青島がいようといまいと一緒なのだ。
ただ、よくもこんなに眠れるものだと感心する。
昨夜は確かに遅かったが、それにしても8時間以上は寝ているだろう。
「ん〜〜〜……」
唸って寝返りを打つ青島に呆れた顔をしながら、室井は向けられた背中を少し強く叩いた。
「おい、起きろ。さすがに脳みそが溶けるぞ」
「ん…だいじょうぶ……」
何が大丈夫なのか分からない返事が返ってくる。
返事があるということはもう少しである。
背中を揺すりながら声をかける。
「起きろ青島、もう昼だぞ。腹減らないのか?飯を食え」
なんだか甲斐甲斐しい起こし方になってしまったが、食欲に訴えかけてみる。
すると、青島の目がぱちりと開いた。
―食いしん坊は恩田君だけじゃないんだな…。
湾岸署のカラーだろうかとどうでもいいことを考えながら、室井は青島の布団を剥いだ。
「腹減った…」
ぼんやりと呟く青島に溜め息が出る。
「なら起きろ」
はぁいと返事をして起き上がると、遠慮なく大きな欠伸をした。
室井が寝室を出ると、青島もついてくる。
「今、何時っすか?」
「もう昼だぞ」
「えっ」
大きな声を上げた青島を振り返ると、バツが悪そうな顔をして佇んでいる。
「もうそんな時間?うわー、すいません、寝過ぎた〜」
どうやらいつまでも寝ていたことを、一応後悔しているらしい。
遠慮深い性格とは全く言えない青島だが、時々変なところを妙に気にする。
一緒に酒を飲めば酔っ払って室井の部屋に転がり込んだりするくせに、昼過ぎまで延々と寝ていたことは気になったりするのだ。
彼なりに、守ろうとしている一線があるらしい。
おかしなヤツだと思う反面、そういうところを可愛いと思ったりもした。
「いつまでも寝てて邪魔だったでしょ?すいません、起こしてくれたら良かったのに」
「起こしたけど、起きなかった」
「どうもすいません…」
しゅんとしてしまった青島に苦笑し、室井は青島を促した。
「いいから、顔を洗ってこい。飯にしよう」
青島は嬉しそうに笑うと、洗面所に消えて行った。
最近、どういうわけか青島と仲が良い。
元々良かったといえば良かったのだが、度々部屋に泊めるようになるとは思ってもいなかった。
金を返すため、この間のお礼、いい店を見つけたから、暇なら飯を食いに。
そんなふうに、どんどんと互いに誘う言葉が簡素で気軽になっていき、青島は一緒に酒を飲むと決まって室井の部屋に泊まっていくようになった。
もう既に片手では足りないくらい、そうしている。
思い返せば不思議な状況である。
少し前までは、青島が部屋に泊まることなどありえなかった。
泊めたくないという意味ではなく、そんなことをするような親しい間柄ではなかったからだ。
青島とは心の一部が確かに繋がっていると自負しているが、友達とはいい辛く、これまでは日常生活において彼と交わる機会はあまりなかった。
そのはずなのに人生とは不思議なもので、ふと気付けば休日の昼中に一緒に飯を食べたりしている。
縁とは分からないものである。
「俺、鼾掻いてませんでした?」
室井が作ったカレーライスを美味そうに食べながら、青島が尋ねてくる。
「少し掻いていたかな」
「やっぱり。最近良く掻くみたいで、すみれさんにも言われるんですよね」
何気なく言われた言葉に、室井は口に運びかけていたスプーンを止めたが、すぐにまた動かした。
―そうか、恩田君と…。
寝室を共にするような関係になったということか。
いつのまにと思う反面、色恋沙汰に疎い室井の目から見ても二人はお似合いのような気がした。
そう思うのに、何故か違和感のようなものを感じる。
似合うと思っているからには、それは違和感ではないのかもしれない。
二人並んで手を取り合う姿を想像できないわけではないのだ。
ただ、それはあまり楽しい想像ではなかった。
違和感を感じたのは、そんな自分に対してだったのかもしれない。
―なぜだろう。
それと同時に、口に運んだカレーが思ったよりも辛くて今日のは失敗だったかと思ったから、思考がまとまらなくなった。
「勤務で徹夜なんかになると適当なところで仮眠したりするんすけど、すみれさんに鼾がうるさいーって怒られるんすよ」
寝ちゃってからのことにまで責任持てませんよねぇ?と不服そうに聞かれて、室井は難しい表情で頷いた。
「…そうだな」
青島とすみれは、やっぱりそういう関係ではないようである。
それを知って室井が感じていた違和感らしきものがどこへ消えたのか、室井にも分からなかった。
「カレー、美味いです」
青島が大きな口にスプーンを運ぶ姿を見るとはなしに見る。
「辛いな」
「そうっすか?カレーは辛いもんでしょ」
「君は辛いものが好きなのか?」
「特別そうなわけじゃないけど、辛い物があれば挑みたくなったりはしますね」
スプーンを握りしめる青島に、思わず笑ってしまった。
辛いものが挑むものだったとは初耳である。
「なんだそれは」
笑った室井につられるように、青島も笑みを溢した。
「室井さんの作る飯、うまいっすよ」
素直な褒め言葉に照れて、室井の頬が少し強張る。
泊める機会が増えると、青島に食事を提供する機会も増えた。
それほど凝ったものをごちそうしたことはなかったが、青島はいつも美味そうに食べてくれた。
気を使ってくれているというふうには感じなかった。
青島の言葉は素直に受け取ってもいい気がしている。
それだけ、親しくなったということか。
「夕飯も、食べてくか?」
何の気なしに誘うと、目を丸くした青島の視線が返ってくる。
「無理にとは、言わないが」
「…いいんすか?」
「一人分も二人分も、変わらない」
前にも青島に言ったことがあるような言葉で、構わないと伝える。
迷惑なら、大体誘ったりしなかった。
料理をするのがあまり苦にならない室井だが、思えば誰かに振る舞うのは久しぶりのことである。
青島は食べさせ甲斐もあったし、何より一緒の食事は楽しかった。
そんなふうに感じている自分には驚くが、悪い感じはしなかった。
最近めっきり当たり前になっている青島がいるという状況そのものが、室井にとっては悪いことではなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えよっかな」
言って、青島が嬉しそうに笑った。
感情表現が素直な男だということは知っていたが、プライベートを共にするようになって知った顔もある。
例えば、室井が所轄のために動けば、青島は嬉しそうな顔を見せてくれる。
感謝と信頼を滲ませて、嬉しそうに笑ってくれる。
だけど、それとは少し違う甘い笑顔を見せる時がある。
そんな時は、少しだけどうしたらいいのかわからなくなった。
だから、ただいつものように無表情に頷いた。
「ああ」
「何食わせてもらおっかなー」
「冷蔵庫にあるものにしてくれ」
「ケチくさいこと言わないでくださいよー」
「買いに行くのが面倒臭いんだ。君が行って来てくれるのか」
「えー?」
夕飯は結局、ありあわせのもので作ることになった。
「気を付けて帰れよ」
青島を見送りに玄関に出る。
先にドアを開けて支えておいてやると、青島がぺこりと頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「…いや」
顔をあげた青島と目が合う。
曖昧な笑みを浮かべると、なにか物言いたげな視線を寄越こした。
思ったことはわりと何でも口から出してしまう男だが、珍しく口を開かない。
「どうかしたか?」
室井が促してやると、ようやく口を開いた。
「室井さんさ」
「ん?」
「なんで、そんなに俺に甘いの?」
意外なことを聞かれて驚いた。
目を剥いた室井に、青島が苦笑する。
「いや、なんかさ、いっつも泊めてもらってるし、ごちそうになってるなーと思って」
今更な疑問といえばその通りだが、室井と同じように青島自身も現在の二人の関係を不思議に思っていたのかもしれない。
室井は決して面倒見が良い方ではなく、世話好きなわけでもない。
終電がなくなれば部屋に泊め、朝食を作り、ついでだからと夕飯までご馳走してやる。
誰に対してもこんなふうにするわけではなくて、相手が青島だからと言えた。
青島には、つい手を出したくなるようなところがあった。
頼りないわけでもないから、単に構いたくなるような性格をしているのだろう。
室井のような唐変木ですら、そう感じた。
「最初が、酔っぱらった君の介抱だったからな」
「え?」
青島とのプライベートな関係は、泥酔した青島の世話をするところから始まったと言っていい。
今となっては、青島の世話を焼くことに抵抗がないのは、そのせいのような気がした。
「多分、慣れたんだろ」
室井が言うと、青島はいくらか困った顔をした。
「…迷惑は、かけてません?」
また妙なところで遠慮が出る。
さっきまで幸せそうに室井が作ったハンバーグを食べていたというのに、室井に世話をかけていると気になったりもするのだ。
「ああ」
「本当に?」
「迷惑なら、君と会ったりしない」
本音を伝えたら、青島は少し視線を落とした。
なにかおかしなことを言っただろうかと思っているうちに、顔をあげた青島と再び目が合う。
はにかむような笑顔が浮かんだ。
どこか甘さを含んでいるように見えたのは、室井が勝手に感じただけだろうか。
「じゃあ、また」
「…ああ、また」
簡単な挨拶をして青島は手を振りながら帰って行った。
それをぼんやりと見送る。
見送る青島の背中に少しだけ湧いた寂しさがどこから来るのか考えてみたが、賑やかな男だったからそう感じるのかもしれないと思った。
それだけではないかもしれないとは、考えてもみなかった。
部屋に戻ろうとして閉めかけたドアを、何故か外から抑えられてぎょっとする。
「よお」
隙間から顔を見せた一倉に、室井の目つきが鋭くなった。
一倉は同じ官舎に住んでいるのでここにいてもおかしくはないのだが、登場の仕方が少々人が悪い。
心臓にも悪かった。
「驚かすな」
「驚いたのはこっちだぞ」
ドアを開けて勝手に入ってくる一倉を、仕方がないから部屋に通す。
「なんの話だ」
「今帰って行ったのって、青島だろ?湾岸署の」
「そうだが…」
見られていたのかと思うと、少々嫌な気分だ。
別にやましいことはないが、プライベートを知られるのは好きではなかった。
ましてや相手は一倉。
気の置けない同期と言いたいところだが、言い切れないのが一倉である。
「いつからそういう関係なんだ?」
前から怪しいなーとは思ってたんだけどとにやにや笑う一倉に、室井は首を傾げた。
「そういう、とは?」
「部屋に連れ込むってことだよ」
連れ込むとはまた随分な言い草である。
室井は憮然とした。
「泊めただけだぞ」
「つまり連れ込むってことだろ」
「…そうなのか?」
どうも室井と一倉では言語の使い方に違いがあるような気がした。
「まあ、いつかこうなるんじゃないかとは思ってたんだよ」
一倉がしたり顔で言う。
こうなるとは、室井が青島を部屋に泊めるようになるということだろうか。
だとしたら、何故一倉がそんなことを思ったのかが分からない。
室井だって思いもよらなかったことなのに、何故一倉がそう思ったのか。
続く言葉も腑に落ちない。
「お前があの男に執着してるのは知ってたからな、そうなってもおかしくないとは思ってたよ」
執着とはこれまた随分な言い草だと、室井は思った。
思ったが、これはまぎれもない事実だったのだが、室井には特に自覚がなかった。
青島を特別な同志だとは思っていたが、それが行き過ぎて傍から見れば執着しているようにしか見えないことなど、気づいてもいなかった。
「で、どっちからだ?」
短く聞かれて、室井は眉間に皺を寄せた。
聞かれている意味が分からなかった。
「なにがだ?」
「とぼけるなよ」
「だから、何が」
「付き合ってんだろ?青島と」
やっぱり何を言われているのか、すぐには理解出来なかった。
―付き合っている?
―誰と誰が?
―俺と青島が?
10秒程考えてから、室井は眉間に皺を寄せた。
「ばかばかしい」
言い捨て、一倉を呆れたように見る。
「俺もあいつも男だぞ」
付き合うなんて、そんなことがあるわけがない。
そう言うと、一倉は少し驚いた顔をした。
「なんだ、違うのか」
「違うに決まってるだろ」
「最近やけに仲良いだろ。そこにきて、青島がここから出ていくのを見かけたから、てっきりいよいよそうなのかと」
なにがてっきりで、なにがそうなのか。
それより何より、
「いよいよとはどういう意味だ」
仏頂面で問う。
いよいよということは、以前からそんな兆候があったということになる。
室井と青島が付き合い出しそうな兆候が。
そんなものがあってたまるかと室井本人は思ったが、一倉はそうではなかったようだ。
「お前の青島への執着っぷりを見てたら、疑ってもおかしくないだろ」
室井の眉間に益々皺が寄る。
「執着しているわけではない」
室井は確かに青島を必要としている。
立場は違えど志しを同じくし、共に戦っていける男だと思っている。
本庁に呼び、自分の元で働いて欲しいと望んだことすらあった。
だが、執着しているわけではない。
少なくとも、一倉が言うような意味ではない、はずだった。
「お前が気付いてないなら、その方がよっぽどだと思うがな」
一倉は苦笑した。
「お前、青島にこだわってるだろ」
「警察にはなくてはならない男だと思うからだ」
「あいつにやけに甘いのは?甘やかしてる自覚はあるか?」
「青島が正しいと思った時だけだ」
「じゃあ、あいつは常に正しいんだな」
それは知らなかったと、苦笑している。
なんとでも言えと思った。
他のキャリアから見れば、青島に対する室井の接し方は甘いのだろう。
だが、室井からしてみれば、キャリアだからという理由でふんぞりかえっている方がどうかしているのだ。
所轄を蔑ろにしていい理由など、ありはしない。
「言っておくが、所轄に甘い顔をするなって意味だけで言ってるわけじゃないぞ」
室井の内心を読んだように忠告されて、室井は首を傾げた。
「他になんの意味があるんだ」
「分からないならいいよ、その方がいいって気もするしな」
頷く一倉に、室井は顔を顰めた。
「一人で納得するな」
自分から話しをふっておいて、勝手に完結しないで欲しかった。
何が何だか、室井には分からない。
「ま、俺としては友人がこれ以上道を踏み外さないなら、それに越したことはないな」
これ以上という言い方も気になるが、要するに室井が同性愛者ではないならいいと言っているのだろう。
「余計な世話だ」
室井が言い捨てた。
「お前はわざわざそんなことを言いに来たのか?」
一倉は肩を竦めて、鞄から資料を取り出した。
「お前に今日中に目を通しておいて欲しい資料があってね、タイミング良く青島が出てきたもんだからつい忘れたけど」
「…そういうことを忘れるんじゃない」
室井は資料を受け取りながら、顰め面で溜め息を吐いた。
室井と青島が付き合う。
そんなことがあるはずがない。
室井も青島も男なのだ。
室井は同性愛者ではない。
青島だってきっとそうだ。
一倉の誤解を知れば怒るだろう。
もしかしたら、笑うかもしれない。
どちらにせよ、青島にとってはいい迷惑だ。
突然の一倉の言葉には驚いたが、結果として誤解がとけたのなら良かったのだ。
青島との間には、恋愛に繋がるようなものは何もないのだから。
―でも、それならば。
室井と青島の間には何があるのだろうか。
全く何も存在しないわけではない。
存在しなければ、プライベートを共に過ごす理由がない。
一緒にいるからには理由があるはずだった。
ただの上司と部下ではない。
初めから、少し違っていた。
今となっては、上司だ部下だというのは、二人の間柄の一部分に過ぎない。
今はもっと別の繋がりを感じている。
だが、言葉にできるような明確な関係ではなかった。
上司と部下というだけでなく、ましてや友達というわけでもない。
であれば、二人の関係はなんだというのか。
室井にとって、青島はどういう存在なのか。
今更ながら、室井は考え始めていた。
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