室井はご苦労様と言って、部下の運転する車を降りた。
外出から本庁に戻ってきたところだった。
室井に気付いた立ち番に挨拶を返し、建物の中に入る。
その足取りはなんとなく重たい。
あまり本意ではない仕事の後だった。
できればやりたくない、だが現段階ではやらざるを得ない仕事が、キャリアの室井にはある。
心の底では納得できなくても、今はやらなければならないのだ。
正論ばかりを振りかざしていては、出世は見込めなかった。
何もかも切り捨ててでも出世する気は、今の室井にはない。
青島と出会って、そんな気は失せた。
だが、青島と出会って、何が何でも出世しなければならなくなった。
義務ではなく、それが警察官である室井の意志だった。
そうしたら、妥協できるところは妥協しなければならなかった。
上層部を納得させるだけの働きをしなければ、出世はできない。
それには優れた成績を残すだけでは足りないのだ。
―だからとは言え、馬鹿馬鹿しいな。
エレベーターに乗った室井は、無表情の下で密かに苛立っていた。
捜査ではなく、政治に少しでも関わると、いつも大抵こうだ。
今は仕方がないと思いながらも、どこか割り切れない。
割り切れないままで、きっといいのだ。
この感覚は忘れてはいけないし、麻痺させてはいけない。
そうはならない自信はあった。
室井には青島がいる。
室井の信念が揺らぐようなことがあれば、青島がきっと黙っていない。
青島がいるから、室井はぶれずにいられるのだ。
室井は一人ではない。
そんなことを考えると、ささくれ立った心がいくらか落ち着いた。
エレベーターのドアが開き、捜査一課に向かう。
捜査一課は常にほとんどの刑事が出払っているから、フロア自体にひと気が少なかった。
その廊下に、きょろきょろと辺りを眺めながら歩く不審な人影があって、室井は驚いた。
驚いたのは、不審人物が青島だったからだ。
「青島?」
思わず声をかけると青島は足を止め、室井を見て目を瞠った。
「室井さん」
「何してるんだ?こんなとこで」
青島が本庁に来ることは、滅多にないはずだった。
青島に限らず、所轄刑事にとって居心地の良いところではないのだ。
本庁の刑事や官僚は、所轄の刑事を自分たちより下に見る傾向がある。
あからさまな態度や言葉でそれを示す者も少なくない。
それが分かっていれば、やむを得ない用事でもなければ、まず来たがらないだろう。
出世して本庁で働きたいと願っている刑事でもなければ、そんなものである。
青島は本庁で働くことに、今は興味がないらしい。
室井も一度は誘ったが、青島には彼の望むところで刑事を続けていて欲しかったから、もうこだわってはいなかった。
室井が近寄ると、青島は苦笑を浮かべた。
「課長に運転手頼まれちゃって」
どうやら袴田のお供で来たらしいが、青島がこんなところを漂っていた理由が分からない。
「君はここで何をしてたんだ?」
「課長が戻るまで待ってないと行けなくって、暇だからちょっと見学してました」
見学と言っても、捜査一課はIDカードが無ければ入れない。
捜査一課に限らず、部外者が出入りできないように管理されている場所が多かった。
空いている会議室や喫煙室なら出入り可能だが、見て面白いものではないだろう。
不思議がっている室井に気付いたのか、青島は肩を竦めた。
「ちょっと見学、と思ったんすけどね、どこも行けなくてぶらぶらしてました」
どうやら室井が目撃した通り、青島はぶらぶらしていただけらしい。
暇を持て余していたのだろう。
室井は苦笑した。
「そうか、袴田さんはまだかかるのか?」
「さぁ、待ってろとしか聞いてないんで……酷いんですよ、課長」
思い出したように、青島が唇を尖らせる。
「自分で俺に運転手を任せたくせに、『問題起こさないで、大人しく待っててよ』だって」
失敬なと憤慨している。
「第一、待ってるだけで、何の問題が起こるっていうんだ」
普通なら起こらないが、青島ならもしかしてと思ったであろう袴田の気持ちは、分からなくもない。
それを言えば不貞腐れるだろうから、室井は「そうだな」と同意しておいた。
「室井さんは?一課に戻るとこ?」
「ああ」
「そっか…」
そう呟いて、青島は考え込むように俯いた。
室井は室井で、少し考える。
今なら一課には人がいないだろうから、中に入れてやろうか。
お茶くらいなら、出してやれる。
だが、袴田を待っているなら、あまり足止めしても悪いかもしれない。
そんなことを考えていた。
先に口を開いたのは、青島だった。
「室井さん、今夜暇っすか?」
「うん?」
「時間あったら、飲みに行きません?」
急なお誘いに目を丸くした室井に、青島は軽く笑った。
「ほら、この間のお詫び」
「ああ…それなら気にしなくていいのに」
青島が気にかけてくれているほど大変なことではなかったし、迷惑でもなかった。
第一本当に迷惑であれば、すみれに何を言われても、青島を湾岸署の連中に押し付けて帰ってくることだってできたのだ。
それをしなかったのは、室井にとって許容範囲のことであったからに過ぎない。
むしろ、あの状況に戸惑いながらも、楽しんでいたような気さえする。
青島と共に捜査をする時に感じる、心が熱くなるような感覚が室井は好きだった。
それとは違う高揚感だったが、青島とプライベートを過ごすのも悪い気分ではなかった。
警察官になってからは、そんな相手ができたのは初めてかもしれない。
そう思うと、青島からの誘いを断わり辛くなった。
青島に気を遣ってそう思ったわけではなく、単純に青島からの誘いを魅力的に感じたからだ。
でも、そうなると、迷惑をかけたと反省しているであろう青島に申し訳ない気もする。
青島のお詫びに乗っかるということは、青島の謝罪を受け入れるということだ。
別にそれでいいのかもしれないが、室井は迷惑だったとは思っていないし、怒ってもいないのだから、素直にお詫びをされるのも気がひける。
室井がそんなことを短時間に考え込んでいると、青島が頭を掻いた。
「忙しかったら、また今度」
そつのない笑顔に、彼の気遣いを感じる。
青島は細かいことを気にしないように見えて、繊細なところがある。
他人のことを見ていないようで、良く見てもいた。
躊躇している室井に気付いて、自然に断らせようとしてくれているのだ。
人付き合いに慣れている青島らしい気遣いだったが、室井は首を振った。
「いや、今夜は大丈夫だ」
了承の意を伝えると、青島は少し驚いたようだった。
「あ、そうっすか…」
意外そうに瞬きを繰り返して、相好を崩す。
そのどこか嬉しそうな顔を見て、室井は先日の酔っ払った青島の姿を思い出していた。
室井さんがいて良かったと言った時の、嬉しそうな笑顔。
青島から寄せられるただの上司に対するもの以上の好意は、鈍い室井にもちゃんと感じられた。
そして、それを嬉しく思う自分にも気付いていた。
警察官として志しを同じくする彼の好意は素直に嬉しかったし、何より青島という男に例えどんなことであろうと認められるということは、室井にとっては快感に近かった。
もしも青島が室井に対して友情に近い感情を持っていてくれるなら、室井には嬉しいことだった。
仕事が終わったらと待ち合わせの約束をし、二人で飲みに行った。
青島行き付けだという居酒屋は、焼き鳥が安くて美味い店だった。
焼酎や日本酒の種類も豊富である。
新しいとは言えない店内は狭く、個上がりが三つとカウンターしかない店で、室井と青島はカウンターに並んで座っていた。
「いい店だな」
室井が素直に言うと、青島が「でしょ?」と笑う。
「ここの焼き鳥が好きでね、サラリーマンの頃から来てるんですよ」
その言葉通りかなりの常連らしく、カウンターの中で焼き鳥を焼いている店主と青島は気安く挨拶をしていた。
「奢るって言いながら、安い店で悪いんですけど」
肩を竦めた青島に、室井は首を振る。
「美味いから充分だ」
お世辞でもなんでもなくそう思う。
焼き鳥は美味いし、好きな焼酎もある。
青島が常連になるのも分かるし、室井にとってもいい店だった。
室井が素直に誉めると、青島のテンションが少し上がった。
「これもオススメっすよ。食います?」
「ああ」
「おじさーん、これ二つ焼いてー」
青島が懐っこく笑うと、店主は顔を上げて小さく笑い返してきた。
あまり喋る店主ではなさそうで、それもまた室井の好みに合った。
「この間は、本当すいませんでした」
青島がぺこりと頭を下げてくるから、室井は苦笑した。
「気にしないでいいと言ってるだろ」
「でも迷惑かけたでしょ」
すまなそうな青島に、真顔で言う。
「もう慣れた」
「ひでぇや」
口ではそう言いつつも顔が笑っている。
室井の言葉を本気にとっていないのだろう。
室井もそれで良かった。
捜査の時の青島の暴走を当て擦ったのだが、それを咎めているわけではない。
青島のやり方を誰よりも認めているのは、きっと室井だった。
「そう言ってくれんのは有難いんすけどね、俺なんか失礼なこと言ったりやったりしませんでした?」
笑みを浮かべたまま青島が聞いてくるが、室井は少し考えて首を振った。
「大丈夫だ」
「そっか」
なんとなく、ほんの少しだけ青島の力が抜けた気がした。
安心したように見える。
あの夜のことをそんなに気にしていたのだろうかと思いながら、室井は苦笑した。
「同じ話しを何回もしたり、まだ飲むんだと言って困らせてくれたりはしたがな」
青島は若干頬を赤く染め引きつった。
「それはどうもご迷惑を…」
ごにょごにょと謝罪する青島がなんだか可愛らしい。
愛嬌のある男なのだろうと思いながら、室井は「気にするな」と繰り返した。
青島と飲んでいると、会話はほとんど途切れなかった。
ひとえに青島のおかげである。
話題を見付けることにも、相手から話しを聞き出すことにも長けているのだ。
酒を飲みながら色んな話しをしていると、やはり室井にとって青島は話しやすい相手だと思えた。
それは、何も青島が社交的だからではない。
仕事の話しをしていてこんなに興奮する相手はいないし、何より彼との会話自体を室井が楽しいと感じていたからだ。
そんなことは、室井にとっては珍しいことである。
他人と話すことが苦痛とまでは言わないが、間違えても社交的とは言えない性格なので、どうしても他人と距離を置きたくなる。
ところが、青島相手だとそうでもない。
青島が不快ではない程度に踏み込んでくるせいもあるし、室井自身が青島と距離を取りたいとは思っていないせいだろう。
そんな調子でいたから、ふと気付けば、とっくに終電のない時間になっていた。
「もうこんな時間か…」
室井が時計を見ると、青島も慌てて確認する。
「うわ、遅くなっちゃいましたね…もう出ます?」
「そうだな、明日も仕事だし」
正直に言えば名残惜しい気持ちはあったが、この前の青島のように泥酔しているわけでもないし、駄々をこねられるほど子供でもない。
室井が頷くと、青島は店主に「おあいそ」と声をかけ、胸ポケットに手をいれた。
はたと動きを止めて、コートのポケットや鞄の中を漁り出す。
どう見ても慌てている青島に、室井は首を傾げた。
「どうした」
青島は乾いた笑みを浮かべた。
「室井さん」
「ん?」
「金貸してください」
室井が目を丸くすると、青島は酷く言い辛そうに付け足した。
「すいません、財布忘れたみたいです…」
探しモノは財布だったようだが、どこにも見当たらないらしい。
青島は室井に向かって両手を合わせた。
「ほんっとーに、すいませんっ。後で返しますから」
「それは構わないが、どこに忘れたんだ?無くしたとか盗まれた可能性は?」
飲み代くらい貸してやるが、見当たらない財布の行方が気になった。
現金はまだいいとして、カードの類が悪用でもされたら一大事である。
それを心配したのだが、青島は頭を掻いて苦笑した。
「いや、多分署の机の引き出しん中です」
「そうか、それなら良い」
室井は胸ポケットから財布を取り出すと、店主に一万円札を渡した。
「奢るって言ったのにすいません…」
しゅんと項垂れるように、頭を下げる。
見る間に落ち込んでしまった青島に、室井は苦笑した。
「気にするな」
「必ず返しますから」
どっちだって良かったが、今日の貸しは返してもらうべきなのだろう。
いつでも良いぞと応じた室井に、青島は気まずそうに笑った。
「…あの、室井さん」
「ん?」
「迷惑ついでに、タクシー代も貸してもらえませんか」
財布がないのだから、タクシー代も持っているわけがない。
室井は財布からまた一万円を取り出そうとして、ふと思い立つ。
室井が手を止めたせいか、青島が至極気まずそうな顔をする。
「もしかして……室井さんも財布空?」
「いや、そうじゃない」
「あ、よかった」
そりゃあそうっすよねキャリアだもんね、と笑う青島にキャリアは関係あるのかと思いつつ、室井は財布をしまった。
「うちに泊まるか?」
「…うえ?」
驚きのあまりか青島が変な声をあげるから、室井も思わず笑ってしまった。
「ここからなら俺の家の方が近い。明日の朝電車で帰った方がいいんじゃないか?」
タクシー代を余計にかけるよりもその方がいいのではないかと考えたのだ。
室井にしては気安い行動だったかもしれない。
気ままな一人暮らしではあるが、部屋に誰かを泊めることは滅多になかった。
どちらかといえば、自分の生活圏にいれる人間は限られていて、進んで誰かをいれようとは思わなかった。
それなのに、青島に対しては少し違った。
青島の馴れ馴れしさがそうさせるのかもしれないし、室井自身が青島に対して気安い感情を持っているせいかもしれない。
なんにせよ、一度部屋に泊めているせいか、酒が入っているせいか、気持ちが少し大きくなっていた。
室井もどうせタクシーで帰らなくてはならない。
青島は新木場に住んでいると言っていたから、ここからなら室井の自宅よりもずっと遠い。
立て替えているとはいえ今日は青島の奢りであるし、余計な出費をさせるのもかわいそうだと思った。
だから提案したのだが、青島は困惑した顔で室井を見ていた。
―馴れ馴れし過ぎただろうか。
室井の眉間に皺が寄る。
こうなると、一度泊めたくらいで友達面をしてしまったようで、なんだか気恥しくなってくる。
タクシー代を貸すことは構わないのだ。
青島がその方がいいなら、そうするべきだと思い直した。
「無理にとは…」
「いいんすか?」
同時に言って、お互い目を丸くして相手を見た。
青島が頭を掻きながら、申し訳なさそうにこちらを窺ってくる。
「ええと、迷惑じゃないっすか?」
「迷惑なら最初から言わない」
そっけない返事だったが、青島は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えよっかな」
何がそんなに嬉しいんだ。
そう思いながら苦笑したが、そういう室井もどこか嬉しそうだった。
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